第2話  森の中の少女

「イタタタ、酷い目に遭ったなぁ」


穴に落ちた僕は、長い間地面の中を落ちていったようだ。

すべり台の要領で滑っていったおかげで、ズボンは土で汚れきってしまった。


ーーそれにしても、ここはどこなんだろう?


てっきり工事現場かと思ったけど、出口から言って違うようだ。

そこには重機や土木作業の道具やらは一切無く、背の高い木々が立ち並ぶ森の中だった。

足元は一面が花畑で草原特有の匂いが心地よい。

その花はというとツボミのまま顔を下に向けている。

どこか元気が無いように感じられた。


ーー土手の近くにこんな場所があったなんて、知らなかったなぁ。


辺りに人影はない。

車の音も、人の気配も全くしない場所だった。

空は赤く染まっていて、そろそろ陽も落ちそうだ。

遅い時間になる前に少し練習させてもらおう。


僕は楽器ケースを開いて、手早くアルトサックスを組み立てた。

浮ついた心を落ち着けるため、一呼吸置いて気持ちを切り替える

それから静かに目を閉じて、ゆっくりと演奏を始めた。

せっかくだから練習曲よりも自分な好きな曲を。


 ◆

この曲は、ある海外のアーティストさんが書いた古い曲。

生家がとても貧しかった彼は、楽器を買うお金が無かった。

幼い頃から空き缶を拾い集め、わずかなお金を少しずつ貯めていき、サックスを手にしたのは20歳を過ぎた頃だった。

喜びのあまり起きている時間はもちろん、寝るときでさえ手放さなかったらしい。

その時の感動をもとに書かれた、とても華やかな曲。

生きる喜びと、達成感が溢れ出ている、僕の大好きな曲。

演奏に合わせるように虫の鳴き声も聞こえてきた。

なんとなくセッションしているような気分で嬉しくなる。

 ◆


ふぅ……こんな所で演奏するのも気持ちいいなぁ。

口を離して目を開けると、陽は暮れたせいか辺りは暗くなっている。


そしていつの間にか、目の前には一人の人間がいた。

背は低く、ベージュ色のワンピースを着た女の子だ。

両目は青く、髪は長くてサラサラの金髪。

きっと外国人の子供だろう。

歳はわからないけど、10歳くらいに見える。


「ああ、ごめんね。ここは君の家の庭なのかな? 空き地だと思って吹いちゃったんだ」


女の子は笑顔のまま首を傾げている。

参ったなぁ、日本語が通じないみたいだ。

これは長居なんかせず、とっとと退散した方がいいかもしれない。


「おにいちゃん、キレイな音だすね。すごく楽しかったよ」


よかった……言葉が通じるぞ。

と言っても、話すべき事なんかあまり無いけども。


「それ、なぁに?」


僕の方を指さしながら言った。

この楽器の事を聞いてるんだろう。


「これはね、アルトサックスって言うんだよ」

「あーとさっく?」

「ええとね。アルト、サックス」

「あうとせっ……」


それ以上言っちゃいけない!

ある意味僕らの中では鉄板ネタではあるけれど!

君みたいな幼い女の子が口にしていいネタじゃないよ?


「お歌ならね、わたしもじょうずだよ。聞いてくれる?」

「ええと、僕はそろそろ帰ろうかなと思うんだけど」


僕の言葉を待たずに、女の子は歌い始めてしまった。

聞かずに帰るのは可哀想だよね。

でもここは人の家の敷地みたいだから、早く出て行きたいんだけどなぁ。


 ◆

女の子の歌は想像以上の歌唱力だった。

正確なメロディ、豊かな声量、そしてノビのある歌い方は、子供のものとは到底思えない。

声質も透明感があって、僕の逸る心をあっという間に鎮めてしまった。


それより、こんな歌い手に出会えるなんて運が良い。

僕は慌ててサックスで参加した。

メロディの隙間を埋めるように、時おり歌にちょっかいを出すように。

構成自体は単純な曲だから、即興でも問題なかった。


女の子は驚いたように目を大きくして、それから笑顔になって歌い続けた。

誰も居ない森の中で響き渡る二重奏。

このまま時間が止まってしまえばいいのに。

そう思ってしまうほどの、濃厚なセッションだった。

 ◆


「すごいすごい、こんなの初めて!」


よほど嬉しいのか、女の子はその場でピョンピョン跳び跳ねた。

髪を振り乱しながら、心から楽しそうに。


「そんな事より、おうちはどこ? もう真っ暗だよ」

「おうち?」

「えーっと、パパやママはどこかな? 今ごろ心配してるよ」

「パパ、ママ……?」



ダメだ、埒があかない。

こんな森の中に一人で居るんだから、迷子なのかもしれない。

一緒に親御さんを探してあげなくちゃ。


「一人で怖かったよね。僕と一緒にパパやママを探しに行こうか」


僕は女の子と一緒になって森の出口を探した。

うっすらと道らしきものがあるから、暗がりでも外に出ることができそうだ。

それにしても長い道のりだなぁ。

こんな大きな森なんてあったかな?



10分くらい歩いただろうか。

もしかすると30分くらい歩いたかもしれない。

代わり映えしない道を歩いていると、時間の感覚がおかしくなってくる。


そんな不安を覚えていると、森を抜けた。

そこは住宅街で、少し離れたところに見慣れた駅が見える。

ようやく文明の灯りに包まれ、ホッと胸を撫で下ろした。



「随分深い森だったね。君はいっつもあそこで遊んでいるのかな?」



振り替えると女の子は居なかった。

あの道を歩いている間にはぐれてしまったんだろうか。

これはボヤボヤしてられない。

警察に電話しなきゃ!


通報してすぐにお巡りさんは来てくれた。

でも顔に逼迫感はなく、怪訝そうな顔をしている。


「君かな? 一報を入れたのは」

「はい、そうです。森の中で女の子とはぐれちゃって……」

「森? 森ねぇ……」


お巡りさんは辺りを見回しながら、不審そうに呟いた。

僕を見る眼差しが少しだけ強くなる。


「この辺りに森なんかないよ。君、酔っぱらってる? まさかクスリじゃないよね?」

「え……そんなハズは!」


お巡りさんの言葉に嘘は無かった。

歩いてきた場所は森なんかじゃなく、奥行きのない林。

しかも行き先は狭い畑があるだけだった。


そんなバカな、ただ一本道を歩いてきたハズなのに……。

僕はあまりの事態に呆然としてしまった。

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