極東から来た幼女

金村 庄一

序文

 統一暦一九一四年七月十八日 皇国某所


 意識が外界へと解放された途端、脳裏に川端康成の有名な小説の一節がふと浮かび上がった。暗闇を抜けた先にある、得体の知れぬ白い空間。まさしく私の感じた情景にぴったりだと思わないか。最も、そんな余裕も直後に襲いかかる滅裂な息苦しさによって一瞬で吹き飛ぶのだが。

 本能がしぼんだ肺に空気を求めていたのだ。

 私は口を大きく開けて声を荒らげた。そう、まるで赤子の様に、だ。あの時の私の心境は――そうだな、まるで理解が追い付いていなかった、というのが適切か。けたたましい泣き声と引き換えにやってくる耐え難い苦痛によって私はその自我を失いつつあったが、考えるような暇もなく、息苦しさの次に今度は猛烈な肌寒さが襲ってきた。私は道頓堀に飛び込む趣味を生憎持ち合わせていないのだが、例えて言うなら、あれはプールを上がった時に来る感覚に似ていた。

 私の脳はいよいよ混乱を極めた。演算が全く追い付かず、不安と恐怖が私の感情を支配し、それに連動するかのように私はさらに声を荒らげる。

 しかし、それら一連の行為は、突如として体が温かい感触に包まれることにより、急速に鎮静へと向かうこととなった。

「よく頑張りました奥様! ほら、玉のようなお子様にございますよ!」

 年老いた老婆の感極まった様子の声が、私があの世界において最初に聞いた肉声だった。まるで何年も聞いていなかったかのように、その名も知れぬ老婆の声はどこか懐かしさを含んでいたものだった。

 その時に、私はやっと自分のおかれた状況を理解したのだ。

 ――私は今、赤子になっているのか、と。

 この事実を認識したとき、私は心が高揚しているのを感じた。

 

たまちゃん、ほら、口を開けて頂戴」

 それから一年、私は悠々と赤子ライフを満喫しているのだが、「玉のように可愛いから」という何とも安直な理由で付けられた名前だけは気に入らなかった。しかし、いくら抗議の意を言葉にして発しようとも、未熟な筋肉によってひりだされるのは言葉にならない「あー」というナニカでしかない。

 そもそも私は元は男だ。その時の倫理観なども相まっているのだろう。慣れるまでの辛抱、と自分に言い聞かせ、目の前にかがんだ女性――私の母親が差し出した意外に美味である野菜を口へと入れたのだ。

「はーい、いい子ねえ玉ちゃんは。いいわあ、ほら、お兄ちゃんたちも見習いなさい」

 褒められるというのもまんざらではない。好き嫌いを叱られる兄たちを眺めながら、私は優越感にどっぷりと浸かっていた。

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極東から来た幼女 金村 庄一 @tansyoutou1941

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