1-6 常識=非常識
酷い怪我。
目の前の男は、誰が見てもわかるほどの重傷を負っている。
そんなことは改めて言うまでもなく明らかではある。
現に奴も「は? なに言ってんだ、てめえ」と訝しげに睨んできている。
だが、それでも敢えて口に出す。そうする意味は必ずあるはずだ。
だから俺は、見たままの事実を、常識に照らし合わせて言葉へと変換する。
「さっきっから右腕が垂れ下がったまんまだ、それ折れてるだろ。
ああ、左手も相当重傷だな、殴るだけで唸るほど痛えってことはどっかの骨にヒビ入ってんのは確実だ。それに、アバラ辺りもイってる。見てるとやたらに呼吸し辛そうだしな」
奴の外傷の状態は一言、惨い。
普通の感性を持っている人間なら目を逸らしたくなるほどだ。
それは単に怪我が酷いからということだけではなく、目に見える状況から痛みや苦しみを想像してしまうからであって。
そうだ、想像。それこそが現状を打破するためのキーワード。
「てめえ、なにが言いてえん――――」と、苛立ち交じりの男の言葉を遮って。
「ボコされたのは俺に会う前だろ? だったらもうアドレナリンも切れて痛みが激しくなってくるんじゃねえかな。骨折れてるってことは吐き気と悪寒も来るだろうし。お前、それでよくそこまで動けるもんだよ、本当に」
例えば、鳥のように空を自由に飛びたいという願望があったとして。
子供の時分では『無理だろう』と『できるかもしれない』の思いが半々であったとしても、年齢を重ねていくごとに内心の比率は前者に傾いていく。
そも人間には飛行のための器官が存在しない。あったとしても筋量が足りないので十分な揚力が得られない。人工物に頼るのも不可能。自在飛行に足る揚力を生み出す機構は到底、人ひとりが装備可能な重量・大きさには収まらない。
そういった事実に押し潰されていき、「ああ、無理なんだな」と想像のうちに納得させられてしまう。
人の抱く妄想など常識の前では無力だと、普通に生きていればどこかで必ず理解させられるものだ。
例外は無い。俺も、目の前の男も。いつかどこかで分からされたはずだ。
「おいてめえ、ちょっと黙――――」と奴が言い終える前に「しかも」と再び言葉を遮る。奴に喋らせるつもりはない。
「――――しかもお前、顔色悪いな。青白いぞ。それに冷や汗もかいてる。呼吸も乱れてるし、体に力も入らないんだろ? それ、出血性ショックってやつだよ」
本来、妄想は無力だ。だがここは夢の世界。なんでも願いが叶う場所。
常識という物の見方が通用しない世界であるということもまた確か。怪我など無視できて当然だと言えるだろう。
だからこそ奴は動いている。今にも死にそうであるにもかかわらず意識を明確に保ち、どころか超常的な筋力まで発揮してみせている。
――――しかし、ここが夢の世界だからといって。
人生の大半で触れてきた常識という概念を、人はそう易々と捨てられるものだろうか。
「黙れよ! 喋んなって言ってんのが分かんねえのか!?」と血塗れの男の焦りの声。しかし言葉を止めるつもりは毛頭ない。
「人間の体を巡ってる血の量は大体四リットルくらいだ。その内の二〇パーセントを失うと臓器の機能が鈍ってショック症状が出始める。三〇パーセント以上で命の危機。五〇パーセントの流血で致死量だ。
ボーダーを具体的な数値にすると各々約〇・八、一・二、二リットル。……お前が地面に撒き散らしてる血の量から察するに、もう死んでても全然おかしくねえ。
夢ってのは凄えんだな、改めてあり得ねえわ」
――――そう、夢は凄い。だが、だからといって常識を振り切れはしない。
がくり、と。突然に血塗れの男の体勢が崩れ、右膝を地面に付いた。
「なっ……!? な、んなんだよ……、くそ……!」
苦痛に顔をしかめながら、己の体に起きた異変に戸惑う血塗れの男。
その様子に俺は、仕掛けた勝負に勝ったことを悟る。
奴の抱いた願望・妄想は恐らく『怪我から来る痛みを無視しつつ筋力を強化する』といった程度のあいまいなものだったと考えられる。
要は奴自身、『自分が無力化している怪我の度合い』がどの程度なのか、正確には把握していなかったのだ。
だから、教えてやった。
お前の怪我は命の危機と呼べるほどの重篤なものなんだという事実を。
暗に、そんな大怪我を無視できるわけが無いだろうという、真っ向からの否定を込めて。
「おい、無理に動かない方がいいぞ。お前折れた腕ぶらぶらさせっぱなしだし、アバラにも結構負担かけてるだろ。多分その周りの筋線維やら神経やらはもうズタズタにやられてる。下手に動かしたら死ぬほど痛えんじゃねえか」
「うるっせえ、黙れ! ぐっ……ぁ!」
これはそう、妄想に浮かされた夢見がちな子供に、現実という冷や水をぶっかけるようなものだ。
常識的に考えてそんなことできるわけないだろう、と御伽の空想を鼻で嗤う。
それを奴は否定し切れなかった。『当たり前』に抗い切れなかった。
荒唐無稽な己の願望を、妄想を、強く信じ続けられなかったのだ。
だから奴は膝を折る。右腕を抑えてあえぎ、唸る。歯を食いしばりながら血を流す。重傷者として、ごくごく当たり前に。それはつまり――――
「ヨータロー、彼の夢を削いだね? 涼しい顔して中々やるじゃあないか! いやはや存外知恵が回るもんだねえ? フェノちゃんびっくりだよ♪」
紫髪の幽霊が瞳をきらきらと輝かせ、語尾を弾ませる。
見た目だけは可憐に違いないが、ベレー帽を抑えながら鬱陶しく飛び回るその姿に一切の好感を抱けないのは致し方ないだろう
いくら外見がよかろうと、中身がぐずぐずに腐っていては意味がない。
そんなフェノの言葉をするりと無視して、血塗れの男の様子を窺う。
まだ戦いは終わっていない。俺は奴が現出させていた夢の出力をいくらか削いだだけに過ぎない。相手が重傷者だとはいえ油断はできなかった。
――――なにせ俺の側は、夢を十分に扱えそうにないのだから。
「……無理か」と小さく呟く。今しがたも夢による身体強化とやらを試みたが、結果は芳しく無く。
端的に、俺は理屈屋だ。もっと言えば偏見にまみれた性格をしている。恐らくはそれが原因なのだろう。
つまり、常識に外れたことを心から信じられない。
荒唐無稽な現象を頭で思い描けても、それを願望として強く持つことができない。突飛な願いは、己の理性が否定してしまう。
相手の夢を削ぐことができても、こちらが夢を使えなければ、それは有利状況とは呼べないだろう。
つまり、趨勢はいまだどちらにも傾いてはいない。
大きな不利を差し引きゼロに戻した程度だ。決して油断はできない。
「てめえ……調子に、乗るなよ……!」
苦悶し、血を吐きながら吠える男に。
「どっちがだよボケ」
そう低い声で返したのは、黒いパーカーのポケットに手を突っ込んで遠目からこちらを眺める、目つきの悪い巨漢だった。
――――ここで口を出してくるか。なにをするつもりだ。
「トーシロに好き放題やられてんじゃねえ」
言って、おもむろにポケットから手を出したパーカーの男は、血塗れの男へ向けて
からん、と固い落下音。血塗れの男の目の前に転がってきたそれは、細身のバタフライナイフだった。その銀色の刃は、ところどころに赤錆が浮いていて。
「それで
心の中で舌を打つ。――――なるほど。俺の意図を完全に見抜いているか。
パーカーの男の言う通り、ナイフによる攻撃は対処のしようがない。
あるいはそれが中空から突然出現したものであれば、常識的な理屈を振りかざすことでなんとかできたかもしれないが。
パーカーの男がポケットから取り出し、物体として確かにそこにあるもの。
それを妄想だと否定する材料など、この世のどこにも存在しない。
満身創痍の体を引きずりながらも、慌てた様子でナイフを拾い上げた血塗れの男は、その小さな刃物の柄を両手で握り、震える切っ先をこちらへと向ける。
「へ、へへ……終わりだよ、お前」
男が吊り上げた口の端からは、赤い血が一筋の線を描いていて。
突き付けられた刃先に歯噛みする。――――くそ、まずいか。
たらりと垂れた冷や汗が頬を伝った、その瞬間。
「さっさと、死ねよ――――――!」
腰だめにナイフを構えた血塗れの男が突進してくる。攻撃自体は速くない。だが決して遅くもない。突撃の勢いは常人レベル。――――だからこその恐怖。刺されれば終わる。
男が間近に迫る。勢いよく突き出されるナイフの刃。大きく後ろに跳び下がって回避――――――
「おらあっ!」
男はさらに踏み込む。片手に持ち替えたナイフを今度は大きく掲げて、乱暴に振り下ろす。咄嗟にのけ反って躱す。鼻先を刃がかすった気がした。
当たれば終わる。死が見える。突然に湧き上がった危機の実感に唾を呑む。
――――こんなところで、死ぬわけにはいかない。
生存本能に突き動かされるように、必死にナイフから体を遠ざける。もはや右腕と片腹の痛みすら感じる余裕はなかった。
「くそ、この、だらあ! さっさと、死ねっ!」
男は血を撒き散らしながら滅茶苦茶にナイフを振り回す。最早錯乱状態とも取れるその攻撃を俺は、首の皮一枚でなんとか避け続ける。その内何度かは刃が肌を撫で、浅い傷が体にいくつも刻まれていく。
息が苦しい。筋肉が悲鳴を上げている。この状態も長くは続かない。
とはいえどうする、どう脱する。最早現状は肉弾戦。小賢しい知恵を回したところで意味のない状況と化している。
なら、やれることなど限定的。隙を見てナイフを奪うなり落とすなりするしかない。武器を振り回させていてはこちらに勝ち目なんてない。
だがその方法が思いつかない。頭で考えてどうにかなるものじゃない。これはどのように体を上手く動かすかという問題でしかなく。
ならどうすれば、どうすればいい。焦る頭は有効な手立てをなに一つ見つけ出すことができず――――――
「死ね、この、このっ! おら、ぁ―――――――」
ふと男の声から力が抜けた。なにかに躓いたのか。急につんのめって体勢を崩した男は、ナイフを突き出す勢いのままにこちらへ倒れてきて。
突然の出来事。突発の偶然。予測し得ない動きに俺の思考は一瞬止まってしまい。――――それが致命的だった。
動けない、避けられない、まずい――――――
時間の進みが、鈍ったような気がした。ゆっくりと、しかし確実に、錆の浮いたバタフライナイフは俺の脇腹へと吸い込まれていって――――
ざくり、と。まるで漫画のような擬音が耳に入り。
直後、棒状の異物が腹に入り込む、異様な感覚が俺を襲った。
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