第3話「辞世の句」
高校時代、俺はとある家庭教師の先生と出会った。
見た目は清楚なお嬢様系の女子大生だが、その本性はまったくと言っていいほど真逆だ。
猫かぶりというか羊の皮というか、とにかく何枚の化けの皮を被っているのやら。
そんな先生だが、実はもう一つの顔がある。
この世とあの世の狭間にある境界線。
その境界線を踏み越えた先にある、怪奇な世界。
そんな怪奇な世界を、先生はまるで散歩でもするかのように、暗闇の中、嬉々とした瞳で歩んで行く。
そう、これこそが先生の本当の姿だ。
そしてこれから話す事は、日常と、非日常に彩られた、先生と俺が体験した怪奇の一つ……
ある日、俺はいつものように、先生の授業を部屋で受けていた。
テーブルで、う~ん、と唸り声を上げながら、俺は先生から出題された難問に悪戦苦闘していた。
問題、サイコロをn回振って出た目の数を、5で割った余りがkである確率をp_n (k) とするとき,n→∞ での p(k) を求めよ。
何だこれ日本語なのか?
俺には何かの古代文字にしか見えないんだが……というかこれ、本当に高校レベルの問題なのか?
一方、こんな訳のわからない問題を出してきた張本人はというと。
「ふふ……」
と、微笑しながら、俺のベッドの上で読書をしている。
「何を読んでいるんですか?」
俺がそう声を掛けると、先生はこちらには見向きもせず、
「辞世の句」
と、ぶっきらぼうに答えた。
「なるほど、辞世の句ですか、あれ面白いです……えっ?」
「何だ?」
「あ、いや、辞世の句ですよね?先生さっき笑ってましたけど?」
「ん?ああ、まあな。けっこう笑える」
面白いときたか……
辞世の句とは一般に、この世を去る時に詠む短型詩のことを言う。
有名なのは確か徳川家康の、先に行く あとに残るも同じこと 連れて行け……何だったっけ?
とにかく、自分の死期を悟ったような人達が、この世に残した句って事らしい。
まあ広い意味ではまた色々と違ってくるのだろうけど。
「誰の辞世の句なんですか?戦国武将?世界の偉人達とか?」
気になり先生に聞いてみた。
「一般人だな」
「なるほど、一般人で……一般人?」
「そう、別に有名な著名人でも何でもない。そこら辺にいる、ただの一般人が残した辞世の句さ。ただし、この本そのものは、少々訳有りだがな」
そう言って先生は口元を僅かに歪めて見せた。
俺を見る先生の瞳には、いつの間にか、煌々とした怪しげな光が宿っている。
この目をしている時の先生はやばい、いつもの先生とは違うのだ。
この世の者ではない、あちらの世界から手招くような存在。
少なくとも今の俺にはそう見えた。
「わ、訳ありって?」
「生前葬って知ってるか?」
「生前葬……聞いた事はあります。生きている人物が自分自身の葬儀を行うことですよね?」
聞き返す俺に、先生はコクリと一度頷いてから口を開く。
「自らの生があるうちに、縁のある人やお世話になった人を招いて、お別れと礼を述べるために行なう人が、今増えているらしい。本来出席できないはずの自分の葬儀に、喪主として自分が参加することができるため、思い通りにできるのが人気の理由らしいな」
「冠婚葬祭界の、一大ビジネスになってきているらしいですね。その生前葬が、その本と何か関係があるんですか?」
「知り合いに坊主がいてな。まあこいつがまたろくでもない生臭坊主なんだが、いや、まあこいつの事はおいといて、ともかくこの本はそいつから手に入れたものなんだ」
「坊さんからですか?」
類は友を呼ぶって言いますよね。と、頭の中に浮かんだが、とりあえず今は心の内で抹消しておく。
「その坊主には変な趣味があってな。生前葬で訪れた各家で、喪主である人物に、辞世の句を詠ませていたんだそうだ」
「辞世の句を……何か悪趣味ですね。まだ死ぬわけでもないのに」
「まあな。だが、人間誰にも話せない事は一つぐらいはあるだろう。そんな時に、仏の使いである坊さんが目の前にいるわけだ。それをあの坊主は、守秘義務だのなんだの言葉巧みに言ってな、墓場まで持っていこうとした喪主の話を、まんまと聞き出しては、辞世の句として書き留めていたんだとさ。で、その書き留め続けた物がこれってわけだ」
そう言って、先生は手に持っていた古い和紙で作られた本を、ヒラヒラと俺に振って見せた。
「なるほど……って、何でその本を先生が持っているんですか!?」
おいおい、守秘義務がなんだかんだ言ってなかったかこの人?
「高級焼肉食べ放題行けるくらい高かったんだぞ~この本。あのクソ坊主ボリやがって……」
買ったのか……
「ん?」
先生はポツリと言うと、ベッドから立ち上がり、何やらポケットから携帯を取り出した。どうやら電話が掛かってきたようだ。
「はい、はいそうですが。あ、いつもお世話になっております。はい……まあ、本当ですか?申し訳ありません、すぐに振込みしなおしますので。はい、いえ、こちらこそ。それではまた、失礼致します」
至極丁寧な口調で先生は言うと。通話を切り、携帯を折りたたんだ。
「どうかしたんですか?」
「大家からだ。家賃が引き落とされてなかったんだと。ちっ、たかだか200円でせかすとはな。あ~面倒くさい」
先生のこのギャップにはだいぶ慣れたつもりだが、いやはやいつ見てもこの豹変振りには唖然としてしまう。
「すまんが今からコンビニに行ってくる。戻ってくるまで自習してろ」
そう言うと先生は、ハンドバックを片手に持ち、いそいそと部屋から出て行く。が、
「あっ」
と小さく言ってから、先生は急に立ち止まり、俺の方に振り返ってこう言った。
「その本、読むなよ?お前には、まだ早い……」
冷淡な口調でそう言い放つと、先生は俺の返事も聞かずにバタバタと階段を降りていった。
階下に耳を澄まし、遠くで玄関が閉まる音を確認する。
そして先ほど先生から言われた、その本、とやらに、俺は注目した。
確かに物騒な本である事には間違いない。
が、前回、前々回と怪奇の味を知ってしまった俺の好奇心は、そうやすやすと止められるものではない。
いざ、オープン、ザ、オカルトワールドへ。
ベッドに置かれた先生の本を手に取り、ざらついた和紙を指で摘んで一枚めくる。
古書どくとくのツンとしたかび臭い匂いが、鼻先をふと霞めた。
○○○○年、2月18日。喪主、須藤 ○○。
少し太めの達筆な文字でそう書かれている。
目を通しページをめくる。
我が人生、憎き妻との余生也、この身朽ちても、恨み晴らせず。
何となくだが解釈はできる。が、余りにも生々しくて、読んであまり気持ちの良いものではない。
先生はこんなのを読みながら笑っていたのか?
そう思いながら、俺はパラパラとページをめくっていった。
愛すべき、人を失う辛さとは、死してなおも、癒えることなし。
何だか陰鬱だ。もしかしてこんな調子のものが延々と続くのだろうか?
当初とは違い、やや雑な扱いでページをめくっていく。
どれも内容は似たり寄ったりのものばかりで、生々しいという感想以外に、特に感じるものは無かった。
やがて最後のページをめくった時だった。
人なれど、一度は口にしたりけり、死した後こそ、マッシシウヤカ
最後のページにはそう書かれていた。
まっししうやか?何語だ?そう思った時だった。
階下から音がした。
先生?やばいと思い、俺は急いで本を元に戻そうとした。が、その手が不意に止まる。
また音がした。階下から、ズルズルと……
何の音だ?
何か鈍くて大きな物が、這いずる様な音。
ズルズル、ズルズルズル、
決して心地の良い音ではない。
ヒューっ
と、部屋に吹き込んでいた風が急に止み、カーテンが下に垂れた。
さっきまで蒸し暑かったのに、何故か、微かに肌寒さを感じた。
部屋がシーンと静まり返る。
そんな重苦しい静寂の中、
「マッシシィ……マッシシィィ……」
ズル、ズルズル、
遠くから微かに声が聞こえた。
地の底からわき上がるような、低くしゃがれた唸り声。
全身から血の気が引くのを感じる。
同時に、背中を氷で撫でられたように、全身に悪寒が走った。
何だこれ何だこれ何だこれ!?
やばいやばいやばい!
その場に居ても立っても居られない。
俺は衝動的に部屋を飛び出した。
その瞬間、正面にある階段下の曲がり角に、
変色した人の腕のようなものが、俺の視界に飛び込んできた。
階段の縁に手を掛け何やら皮膚が蠢いているのが分かる。
腕から先はまだ見えない。
何かが階段を這いずり登って来ているのは確かだ。
「ひぃっ!?」
恐怖で顔が引きつる。
叫びたいのに、血の気が引いた唇が、うまく音を発せられない。
膝の震えを何とかこらえつつ、俺は隣の部屋に逃げ込んだ。
普段は使っていない、十畳くらいの広さの部屋だ。古い箪笥や棚やらが置かれていて、ちょっとした物置部屋になっている。
部屋に入った俺は、部屋の隅にあった、大きめの箪笥の物陰に急いで身を潜めた。
ズルズル、ズル、ゴトリ、ズル、グチャリ、ズルズル……
まるで、グチャグチャの肉塊が這いずりまわっているかのような音だ。
想像して思わず吐き気を催した。
ズルズル、ズルズル、グチャ
近い、間違いなく俺に向かって来ている。
畳を這う時の振動が、俺の足に伝わってくるほどの距離だ。
「マッシシィ……」
またあの声。
マッシシ。
マッシシ?
そういえばさっき本に載っていたあの句にも同じ事が書かれていた!?
確か、
「マッシシ……ウヤカ」
俺が口に出しそう呟いた時だった。
「ヲヲオオオオォォォッ!!」
獣のような不気味な雄叫び、と同時に、
グチャッ、ズルズルズルズルズルズルズル!
何かが物凄い速さでこちらに迫り来る。
俺は衝動的に、
「うわぁぁぁぁぁぁっ!!?」
と、喉が裂けんばかりに絶叫していた。
瞬間、ガラッ!と、背後にあった窓が突如開かれた。
そしてそこからは見慣れた人影が、
「このバカ!こっちだ、来い!」
先生だ。何て所から現れるんだこの人は、
「に、二階ですよここ!?」
が、先生は有無も言わさず俺の首根っこを掴むと、窓から放り投げるように俺を外へと押し込んだ。
「痛ッ!うわぁ!?」
瓦の上で尻餅をついた。
だがそんな俺の手を掴み、先生は乱暴に引っ張った。
そのまま引き摺られる様にして、瓦の上を滑っていく。
そしてそのまま、
ドスン!!
落ちた。
いや、正確には二階の屋根から一階庭先へと落とされた。
もちろんただでは済まない。が、
「いてててっ……あれ?これ、ダンボール?」
「丁度いい古新聞やダンボールがそこにあったからな。あらかじめ下に引いといた」
なるほど、さすが先生。
用意周到だ。っておい、初めからここに突き落とす気満々だったのか。
いや、そんな事よりも今はアレが!
すぐに二階の窓に目をやる。いや、もう移動しているのかもしれない。
今度は階段を降りて……
そう思ったその時だ、
「貸せ」
そう言って先生は俺が手に持っていたあの本を乱暴に取り上げた。
「あ~くそっ!高かったんだからなこれ!」
口を尖らせながら先生は言うと、ポケットからライターを取り出した。そして火を点すと、
本に着火した。
「あっ!?」
俺は思わず驚きの声を上げた、が、次の瞬間、
「ウヲヲオオオオォォォォォッ!!」
再びあの獣のような雄叫びが、一階の玄関辺りから轟いたのだ。
断末魔のような絶叫。
俺と先生はその声が響く先へと目を向けた。
家の中から何かがのた打ち回るような音が聞こえたが、叫び声と共にやがてそれも聞こえなくなった。
ヒュー、
風の音だけが、再び辺りを撫でる様に吹きつける。
先生がポツリと零すように言う。
「あの坊主の言っていたのは、これの事だったのか……」
「これの事って……?」
俺の問いかけに、先生は軽くため息をついてからこたえた。
「坊主の話じゃ、以前、生前葬を依頼してきた喪主の家族から電話があったらしいんだ。喪主だった祖父がが亡くなったとな。わざわざそれを知らせるなんて律儀な家族だと坊主は思ったらしい。だが、話はそこで終わらなかった。その喪主だった人物は、病院のベッドで死の間際、家族にこう言い残した。坊さんに書いてもらった辞世の句を燃やして欲しいと」
「えっ?でも俺が読んだやつには、」
「そう、あの生臭坊主、燃やさなかったんだ。燃やせば価値が下がるとか抜かしてな」
そこまで先生から聞いて、本当にろくでもない坊主だと、俺は改めてしみじみと思った。俗物過ぎだろ。
先生が話しを続ける。
「ところがだ、その日から、坊主の家で変な事が起こり始めたらしい。夜になると、ヒソヒソと話し声が聞こえてくるんだとか。最初は気のせいかと思っていたらしいんだが、毎日続くそれに、とうとう痺れを切らして、ある日ついにその声の発生源をつきとめようとしたらしい。そしてつきとめた声の発生源こそが、この本だったってわけだ」
「それで、その坊主は先生に泣きついたってわけですか?」
俺が言うと、先生は、最早燃え尽き、消し炭になろうとしている本を見ながら口を開く。
「坊主の話によると、本から聞こえた声の主はこう言っていたらしい」
先生は俺に向き直ると、凛とした声で俺に言った。
「マッシシ、くちおしやマッシシ……とな」
マッシシ……あの句だ。本の最後のページに書かれていた辞世の句。
「人なれど、一度は口にしたりけり、死した後こそ、マッシシウヤカ……」
俺が呟くように言うと、先生は突然目を見開いた。
そして、
「ほ、本当にそう書いてあったのか!?」
と、驚きの声を上げ、俺の肩を強く掴んできた。
「痛っ」
掴まれた肩の痛さに顔をしかめると、先生は、
「すまん、」
と言って、ゆっくりと俺の肩から手を離した。
そして独り言のようにこう呟いた。
「人の身でありながら、一度は口にしたいと強く願う。ならば、死人となったあかつきには、マッシシ、か」
先生の言葉に俺はハッとした。これはさっきの辞世の句だ。先生なりの解釈なのだろうか?
だけど死人って……それに句の最後の言葉、マッシシって一体?
俺が疑問に思っていると、それを見透かしたように、先生は口を開いた。
「この辞世の句を残した喪主だが、坊主の話によれば、生まれは沖縄だったらしい。ふん、もっと早く気がつくべきだったな」
「沖縄……今回の件と何か関係あるんですか?」
俺の問いに、先生はコクリと頷くと、再び話を続ける。
「沖縄の極一部であった風習だ。琉球民話集、口碑伝説民話にも登場する話でな。その昔沖縄の葬儀では、人が亡なくなると、親類縁者が集まり浜に出て、亡なくなった人の肉、つまり親類の肉を食らったとされている。近親の者達は人の肉を、そして血縁が遠くになるに従って、脂肉を食べていたらしいな。沖縄の人達が豚を食すのは、その流れから、とも言われている」
「ちょっと待って下さい!亡くなった人の肉って……それってまさか!?」
「そのまさかさ。マッシシとは沖縄の言葉で、真実の真に肉と書くんだ。ちなみに」
そこまで聞いて俺は愕然とした。
じゃあ、じゃああの辞世の句は?
人として絶対にしてはならない行為。
けれど、一度は口にしてみたいと思った喪主は、死人となって真肉を……
「おい!」
突然の先生の声に、俺はびっくりしてその場で飛び上がりそうになった。
「は、はいっ?」
思わず間の抜けた返事を返してしまった。
「高かったんだからな……!」
どこか拗ねたようなモノの言い方。先生は消し炭になった本を指差し俺を睨んでいる。
「え?あ、ええっと、」
曖昧な返事を返す俺。
すると先生は突然、
「腹が減った。焼肉奢れ!」
と、キッパリ言い放って仁王立ち。
いきなり何を言い出すんだこの人は。
いや、ていうか焼肉っ、ええっ!?こんな体験しといて肉って?しょ、正気かこの人!?
「食べ放題だからな!」
とまあ先生はこの調子で、この後本気で焼肉を奢らされたのは言うまでもないが、しばらく俺の家の食卓には、魚しかのぼらなかったと付け加えておく。
肉は……しばらくは食べれそうにない。二階の窓から出た際に、僅かに見えたアレは、人の体というよりも、もはや手足のはえた肉塊そのものだったからだ。
人なれど、一度は口にしたりけり、死した後こそマッシシウヤカ……
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