第70話 厩で寝るのは贅沢か?
「ええ、それでいいですとも。厩。上等じゃないですか。これからの旅は、厩のように屋根や壁が無い所でも泊まらなければならなくなるのでしょう。屋根や壁があるだけ贅沢なものですよ」
相如四壁の故事を踏まえて言っているのか否か、王令敏の言うことは売り言葉に買い言葉のような強がりではあるが、発言の内容自体は今後のことを考慮すれば間違いではない。
劉仁楷としても、使節団の世話役として気苦労が多いのだ。無駄な議論はしたくない。可能な限りではあるが使節団員の要望を叶えることができるなら、叶える方が人員の不満や苛立ちを抑えることができて、結果として旅がすんなり行くことになるだろう。
結局のところ、王令敏は自ら望んだ通りに長老宅の厩で一夜を過ごすこととなった。
完全に日が暮れて暗くなり、就寝してから、闇夜のごとき黒ずくめの王令敏が何か問題を起こすのではないか。と劉仁楷は心配を抱きながら冷たく堅い陶器の枕に頭を載せたのだが、暗闇の中で時間が流れても何も起こらない。
杞憂だっただろうか、という気疲れが全身を包んだと思った次の瞬間には、けたたましい鶏の鳴き声が耳に入って来て、劉仁楷は手の甲で両目を擦りながら上体を起こした。
よほど疲れていたのか。朝になるまでぐっすり眠りこけていたようだ。
だが、気づいた。鶏の鳴き声は、朝を告げるだけではなく、何やら騒いでいるようだ。
「なんだ?」
疑問を抱きつつ、劉仁楷はきちんと起床して旅装を整える。
自分が泊まっていた寝室から出て、中庭に面した回廊に出ると、既に起きていた長老が使用人から報告を受けているところだった。騒ぎの原因である雄鶏が数羽、鳴き声を上げながら慌ただしく中庭を駆け回っていた。
「来客? 早朝から、何の用事だろうか?」
報告を受けた長老が困惑を声に滲ませながら、顎髯を撫でていた。まだ日の出前である。ただ、東の空はもうすぐ太陽が昇ることを予感させる曙光で白く輝きつつあった。
鶏鳴の助という言葉がある通り、日の出の前から動き出し、日没と同時に家に戻る、というのが人の動きだ。日の出前の来客だからといって、必ずしも非常識なほどに早すぎるというわけではない。が、来訪の用件にもよるだろうが、日の出前に門扉を叩くほどの急ぎの用事というのは、そうそうあるものでもないだろう。
劉仁楷は周囲を見渡した。使節団の正使である王玄策と副使である蒋師仁の姿を探したのだ。この長老宅に泊まっている、使節団の幹部なのだから。だが、まだ部屋からは出てきていないようだ。
門の外側から、人の声が聞こえる。一人分ではない。二人で対話しているらしい。それも激しい調子でだ。対話というよりも口論に近いのではないか。
そう勘付いた時、劉仁楷は目蓋の裏側あたりに残っていた眠気が吹き飛ぶのを認識した。この長老宅に宿泊していた使節団の者は、正使と副使と世話役の自分だけではないことを思い出したのだ。
なぜか全身黒ずくめの衣服を纏っている怪しいあの若者。厩で寝ていたはずだが、まだその場でおとなしく眠っているとは思えなかった。そもそも、門の外から聞こえてくる怒声の片方が、その王令敏のものであると分かってしまった。
「しまった……」
王令敏が王玄策正使に対して夜中に不埒な行為に及ぶのではないかと世話役は心配していたのだが、そちらは恐らく無駄な心配だったようだ。
ただ、王令敏が何か問題を起こす危険人物なのではないか、という己の直感は、残念ながら当たってしまっていたようだ。
やっぱり嫌な予感がしていたのだ。あんな怪しい王令敏など、別のところに宿泊させていれば良かった。
後悔の念を追い越す速度で劉仁楷は門の方に駆け出していた。この時になってようやく回廊に出てきた蒋師仁が背後から呼びかけてきたが、無視して門を出て抱鼓石の間を抜けて表通りに飛び出した。
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