第65話 青丘輪台

「そうですね。現実ですね」


 骨を刺す冬の風のように冷たい声でそう発言したのは、怪しい黒ずくめの王令敏だった。普段から常々王玄策正使の背後にぴったり寄り添って離れない若者である。黒ずくめの服装も相俟って影のようでもある。


 単に、王令敏本人の考えではなく、正使に追随しただけのようでもあるが、実際に今の時間から馬嵬駅に向かうとなると困難であるのは動かし難い事実だった。


「いやいやメイちゃん、ちょっと待って待って」


 どこからか聞き覚えの無いヘンな声が聞こえたと思ったら、それは劉仁楷だった。心の動揺のせいで声が上擦って、日頃の落ち着いた大人らしい低音とはかけ離れた奇声になってしまっていた。


「だから私のことはメイちゃんとは呼ばないでください、劉仁楷世話役。王玄策と名乗っているんですから」


「ああ、そうでした失礼失礼。いや、そんな話ではありません。今日中に馬嵬駅まで行けないって、どういう意味ですか?」


 使節団一行の中で最も長身の劉仁楷が、正使である王玄策を真上から見下ろすようにして迫る。

 王玄策も、顎を上げて、劉仁楷の大きな顔を見返す。


「どういう意味も何も、そのまんま言葉通りの意味しか無いじゃないですか。急使ならば駅ごとに馬を乗り換えるなどして急ぐことも可能ですが、我々にはそういうのはできません。大量の馬や駱駝を駅ごとに交換するわけにもいきませんし、訪問する国への贈り物として陶器のような割れ易い物もあります。長い道のりだからこそ、自分たちの歩幅を守って進まなければなりません」


 先に目を逸らしたのは劉仁楷だった。空を仰いだ。


「そんな! 王正使、これはあまりの仕打ちではありませんか。本日は馬嵬駅で泊まるという予定で考えていたので、せっかく手配していたのに……」


「そうは言われても、こういう状況である以上、やむを得ないでしょう。長い道程、上手く行かないこともあります。予定通りに進まないことの方が寧ろ多いかもしれません。でもそこを上手くやりくりして進んでいくのが肝要です。そういったあたりは、この使節団でも年長の世話役ならご理解いただけますよね」


 わざわざ年下の正使に諭されるまでもない。劉仁楷とて、そのようなことは言われずとも理解している。理解はしていても、実際に理不尽な過程で自らの気配りが無にされては落胆も大きくなろうというものだった。


「自分はそんなに官位が高いわけでもないですが、こう見えて関中においては顔が広いんです。長安だけでなく、東は青丘を越え、目を転じて西は輪台、南は丹徼を踰えるまで、北は玄闕山まで、近隣にも親戚や知り合いが多数います。その顔の広さを活かして、せめて地元を旅する間くらいは快適に進むことができるよう便宜を図ったのに」


 空を仰いでいたかと思ったら、今度は首が前に折れ曲がる格好で、深く深く劉仁楷は項垂れた。あたかも前を見ることを拒否して、ただ下だけを向くことによって視界を遮ってしまったかのようだ。


「昨夜、宿で賽子賭博のチョボをやっていた二人を先行させて、馬嵬駅へ向かわせていたのですよ。我々が夕方くらいに到着する頃には、食事の準備ができているはずです。いえ、はずでした。……残念ですが、馬嵬の駅逓での人数分の食事が無駄になってしまいました」


 確かに、使節団が大人数で到着してから食事の準備をしていたのでは、実際に食べることができる時間は遅くなってしまう。そうならぬよう、劉仁楷は先を読んで準備していたのだった。


「しかも我々、夕方までに馬嵬に入れないとなると、ならば今夜はどこに宿泊すればいいんでしょうかね? 夕食は?」

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