第62話 未来の詩聖

 道に戻ってから、劉嘉賓は愛馬ならぬ愛驢馬の絶影に再び跨った。青い毛並みが風に靡いて涼しげな驢馬は、三人の人間がゆっくり歩く後ろを静かについて来ていた。


 やはり、行き倒れの人がいるということを人間に知らせるために川沿いまで勝手に歩いて来たのではないか、と思われてならない。


「ありがとうございました。さようなら」


 行き倒れの天竺女は天竺の言葉で二人にお礼を述べた。まだ足下がふらついているようだった。


 無事に長安まで行けるのか。長安まで行ったとして玄奘法師に会えるのか。本人も不安だろうし、王玄策と劉嘉賓も心配していた。が、あとは本人の運と頑張り次第だろう。


「お世話になりました。あなた方は天竺へ行くのですよね? 道中、お気を付けて。最も危険な場所は、雪の積もった高山でも、砂漠でもなく、平原です」


「へ? いげん? あれっ? 聞き間違えた、かな?」


 行き倒れ女が発するのは、訛りの強い天竺の言葉。劉嘉賓は自分の耳を疑った。


 雪山や砂漠よりも危険な平原などというものが、存在するのだろうか?


「確かにその通りね。雪山や砂漠以上の難所ね。ありがとう。改めて注意しておくわ」


 一方、王玄策は自分の耳を疑わなかった。


 信じられぬものを見た、といった驚愕の表情で王玄策の横顔を見返す劉嘉賓が質問を発するよりも先に、行き倒れ女の乾いた声が唐人二人と青い驢馬の耳に届く。


「私は先ほど、倒れていた時、朦朧とした意識の中で、夢を、見ていました。それは、美しい唐人の女の人が出てきて、善と悪を映し出す業の鏡、という名前の不思議な鏡を使って占いをして、言いました」


「鏡……その占い師が、言った内容も覚えている?」


 王玄策の問いに、行き倒れ女は少し勿体ぶるようにしてゆっくり言葉を紡いだ。夢の中に出てきた占い師の口調を真似しているのかもしれない。


「いずれ生まれる、未来の詩聖の出身地を通れば、遠い目的地に安全に到着できる……と、言っていました」


 風の吹く音が妙に余所余所しく聞こえた。本来、人通りの多いはずの道であるが、今の時間はたまたま誰もおらず、東へ向かう農夫や旅人も西を目指す隊商や僧侶も、誰の姿も見あたらない。


「詩、の聖人、ってこと? ただの詩人じゃなく? 陶淵明のような感じかしら?」


 陶淵明は名を陶潜という。淵明は字だ。王玄策たちが生きる現在から二〇〇年ほど昔の東晋時代の有名な詩人だ。しがらみで束縛されることを嫌い、官を辞して故郷の田舎で悠悠自適の暮らしをしながら数々の詩を残した。


「どういう意味かしら? 陶淵明の出身地を通って行け、ということ? でも陶淵明の出身地って……」


 東晋というのは、いわゆる南北朝時代の南朝にあたり、陶淵明の出身地も長江の南である。長安から西へ向かっている使節団一行が寄り道するような場所ではない。


「いや、あるいは、そんな昔の人ではなく、東皐子のことを言っているのかもしれないわね。もう随分な年齢になるはずだけど、まだ存命なのかしら?」


 王玄策が思い出したのは、同姓の王績という人物だった。東皐子という雅号を名乗り、酒を飲みながら詩を詠んで暮らしているという噂を耳にする。


 隋末唐初の頃には官僚として宮仕えしていたが、李世民が皇帝になった頃に官位を捨てて辞したはずだ。陶淵明にしても東皐子王績にしても、詩聖と称するに相応しい生き様ではないだろうか。


 しかし。


「違うんじゃないでしょうか? やがて生まれる、とか、未来の、とか言っていませんでしたよね? ってことは、今はまだ生まれていないってことじゃないですか?」


 劉嘉賓に指摘されて、王玄策は不満げに唇を尖らせて首をひねった。


「そんな……まだ生まれていない人のことなんて、どうやって知れっていうのよ?」


「いや、その文句をこっちに言われても困ります」

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