第37話 突入! 補陀落宮殿

 僧侶が着るようなゆったりした衣装を無駄に翻し、王令敏は毅然とした足取りで前進した。蒋師仁の横を窮屈そうにすり抜ける。蒋師仁も妨害はせず、少し体をずらして道を空けた。


「明日も、朝の日の出頃には出発ですから。くれぐれも寝坊なんかしないでくださいよ?」


 偉そうに、王令敏は振り向きもせずに言った。


 失礼な奴だ、と少し腹を立てた蒋師仁だったが、口に出して文句を言うことはなかった。騒音で他者に迷惑をかけないためだ。


「蒋副使、あの黒ずくめに言われたからってわけじゃないですが、寝ましょうか」


 賀守一は、自分が使っていた書法の道具を片づけていた。墨を落として汚れた床に感じては、掃除を諦めて放置することにしたらしい。


「……そうだな。寝るか」


 部屋の灯りは消されて、ようやく闇の帳が降りた。


 蒋師仁は壁際の寝台に身を横たえた。


 固い。木製の板の上に簡素な布を敷いただけなのだから当然だ。だが愚痴を言うべきではないだろう。屋根と壁のある宿舎であるだけ、野宿よりは恵まれている。


 枕も自分の好みの高さではない。が、そこも我慢だ。


 部屋の反対側からは、寝息が聞こえてきた。賀守一はもう眠りに落ちたらしい。早く眠れるのは才能だ。長生きしそうな奴ではある。


 まだ部屋が暗くなったばかりなので、目が慣れていない。目を開けていても、闇だけで他には何も見えない。そのうち暗さに慣れて、部屋の様子が微かに窺えるようになるだろう。蒋師仁は大きく息を吐き出して、目蓋を閉じた。


 目を閉じたから、闇の上乗せだ。蒋師仁も武人であるからには、睡眠時間のしっかりとした確保は必須だ。眠れる時にすぐに眠りに入ることができる。


 遥か彼方天竺を目指す旅は、一日目から穏やかではなかった。が、そのようなことを反芻する暇も無く、使節団副使の蒋師仁は眠った。


 蒋師仁は夢を見始めた。


 夢の中で、朝を迎え、鶏が鳴く中で蒋師仁は目を覚ました。


 昨日に引き続き、好天だった。穏やかな日差しに、青い空が優しく輝く。西の方が少し黄色く曇っているようだが、気にするほどでもない。


 先日、野生の驢馬を手に入れた甲斐があった。劉嘉賓は驢馬に跨がり、一行から遅れることなく旅路を進んだ。


 道のりは長かった。


 道中、特に大きな問題が起きるわけではないが、連日歩いて歩いて歩いての連続なので、いかに鍛えていて体力に自信のある蒋師仁といえども、疲労は蓄積していた。


「王正使。天竺まで行くというのは、大変なことですなあ」


「そうよね。通った道は違うらしいけど、天竺まで行って帰って来た三蔵法師は本当に偉大よね。歴史に残る偉業だわ」


「じゃ、じゃあ。我々のこの旅も、史書に書き残されたりして、三蔵法師と並び賞賛される、なんてことになったりするんですかね」


「それは無いでしょうね」


 王玄策は冷淡に言った。王玄策にとっては、今は二回目の天竺行だ。ただ、天竺に行って帰ってきた程度では、さほど大きな功績として認められないことを承知していた。


「そ、そんな。せっかく、こんなに苦労して天竺という遠い国へ向かっているのに」


「残念ながら、行き先が遠いだとか、道中の道のりが辛いだとか、そういったことでは史書に残るような功績とは認定されないわね」


「そうなんですか? 厳しいですね」


 少し肩を落とした蒋師仁の目の前に、小さめの木造の宮殿が姿を現した。これまでの道程の荒涼たる山岳部の味気ない色合いから、比較的緑の豊かな谷間に、マルポリの丘の上にへばりつくように建っている。


「やっと到着したわね。有雪国の王宮よ。補陀落宮殿、と呼んでいるらしいわね」


 蒋師仁の夢の中の話ではあるが、ようやく一行は吐蕃王国の都のラサに到着した。


「ほだらく? ポタラ? 変な名前の宮殿ですね」


「あそこに文成公主がいるのね。さあ、蒋副使! 突入するわよ!」

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