3:難読地名かと思ったら異世界だった

 福岡支社での勤務も今月で丁度一年となる。駅前の海鮮料理屋で同僚と飲んだあと、私はいつものように地下鉄に滑り込み、中洲川端なかすかわばたで乗り換え自宅に向かったはずだった。


 福岡というのはコンパクトな街で、地下鉄とバスさえあれば全生活活動が事足りる。なので自動車の保有率は低く、渋滞が少ない。バス停には秒単位でバスが来て2、3台列をなしていることも珍しくないし、いざとなれば駅前に大量のタクシーがあるので足には困らない。食事は真新しい駅ビルや駅前の料理街、天神に行けばいいし、あとは24時間営業のスーパーで日用品やカップ麺を調達すれば他に行くところが無かった。東京からはるばる九州まできたものの、観光してもさして感動もなく疲れるだけだし、この一年私は通勤圏から出たことがなかった。これはそんな矢先の出来事だった。


〈ご乗車、ありがとうございます。つぎは、ナバルシンガン、ナバルシンガンです。ご乗車の際、駆け込み乗車はたいへん危険です。つぎの電車をお待ちください。〉

〈The next station is Nabalshingang.〉


!?


 車内には聞き慣れたモーターの重そうな駆動音が張り詰めて、何もおかしなことは起こっていないのだと主張していた。


 いや、おかしい、中洲川端の次は呉服町のはずだ、その次が県庁口で、そのまた次が我が最寄り駅、九大病院前だ。ナバルシンガンなんて聞いたこともない、乗り過ごしたのだろうか。


 実を言うとその時まだ私はあまり動揺していなかった。通勤圏から出たことがない私は、普段使う駅以外は全然知らないし、ナバルシンガンという一見日本語離れした駅名も難読地名の多い九州では別段驚くべきことではなかったからだ。中洲川端で乗り換えをミスったか、知らずに寝ていて乗り過ごしたかのどちらかであるとすぐに確信し、スマホでニュースをチェックするくらいの余裕がまだ私にはあった。


〈ナバルシンガン、ナバルシンガン、です。降り口は右側、です。扉付近の方は、扉に挟まれないよう、ご注意ください。〉

〈Nabalshingang, H7, right door will open.〉


 駅名を見ると「那原新漢」と書かれていた。明らかに難読地名である。



 降車して路線図を探す。今しがた降りた人がエスカレーターに殺到していて人混みに流されそうになる。中国語や韓国語が聞こえた。珍しいことではない、ここは東京より釜山の近い街だ。路線図を探してホームの端まで行ったがどこにも無かった。仕方なくスマホを取り出すが圏外。そんなはずはない。そばのベンチに座っていたホームレスのような人に訊く。


「すいません。九大病院前に行くにはどこに乗ればいいですか?」


 構内放送が邪魔をしたのか聞こえていないようだ。


「九大前の路線ってどこですか!?」


『エズイキナー〇■アルバ★※タニイサッパ!』

 ホームレス風の人がそう怒鳴るとなにかに飛びかかられた。


「何をする、やめろ!」


 飛びかかってきたのは子供だった。三人いて、1人が私の髪を引っ張ってきた。


「やめろ、痛い痛い!」

『アルバイスタ※★タイヴヱヒ■ラジイグ◢ミ!』



 あまり乱暴したくなかったが、子供が結構本気で引っ張って来るので、つい全力で振り離してしまった。子供はそれでも頭にしがみついていたが、飽きたのか急に緩めて飛び降りたと思うと全速力でホームを走っていった。残り二人もいつの間にかいなかった。

 

(なんてやつだ、親はどこにいる!最近の子供らはシートに乗ってはしゃぎまわったり尋常じゃないが、今のはありえんくらい酷かった!)


 私はあまりクレームを入れるタイプではないが、さっきのは流石に頭に来て、九大病院前に行くことを忘れたくらいだった。でも、私は早く家に帰って冷えたビールを飲みたかったので(それにアニメも溜まっていた)自制心を発揮して追いかけるのはやめにした。


(そうさ、私は紳士なのさ、これきしで怒る者ではない。)

 

 しかしすぐにポケットの異様な爽快感に気がついた。私のスマホがいつの間にか無くなっていたのだ。多分落としたのだろうと思ったが、ホームレスに話しかける時には持っていたし、怪しいのはあの子供だ。スリなんて珍しい事だ、それとも愉快犯的いたずらだろうか。これでも高校大学はラグビー部に入っていた私なので久方ぶりに本領の走りを見せてホームの終端まで行くと、既に改札を抜けていたようだった。古い機種だったが残念だ。息を切らして1人座り込んだ後、誰もいないホームを見渡した。等間隔に蛍光灯の光が冷凍されたみたいなコンクリートを照らしている。



〈Hes◢l al ist e※b. Na◓☆▽ng┳Nab★@qo罎nᨎᨘᨑᨀᨚ⑉ᨛᨁ▩ᨌ ᨛᨛᨌ-sat. Tet al 乘オダnobl. ■aton esxen.〉──


 一言一句聞いたこともない異様な構内放送が流れた。そういえばさっきのホームレスも聞いたことのない言語を話した。私は落ち着いてもう一度路線図を探す。時計は午前2時を指していた。


不思議な感覚に襲われて再び視線をホームに戻す。全く同じデザインのポスターが柱ごとに見えなくなるまで続いていた。そしてそのポスターには紐のような見たことの無い文字が印刷されていた。そこで私はようやく気づいた。


(ここは福岡ではない。)


 急速に血の気が引いて目眩がした。



〈Helkaksi jant e※b. ⚪ェ⏁■⦿◉◴⚉◍֯◷ ⃠⥀◔■● 髏◴◙※❍⟲⥁◔アク▽ng┳Nab★雲〉──


 異様な構内放送が流れる。


 最後に日本語を聞いたのはナバルシンガンで降りる時だ、反対方面の電車に乗ればいいのではないか、とにかく戻り方がそれくらいしか思いつかない。カードはスマホカバーにいれていたが、取り敢えず日本語の通じる駅まで行けばあとはなんとかなる。


〈アクトゥ@ーバ◓サルア※ル^エゥカン★☆バ+ヨ;ンド〉


 トンネルの奥で雷のような音がすると風向きが変わって電車が轟音と共にホームに滑り込んだ。ここで私はホームに転落防止用ゲートがないことに気づいた。


(やはり市営地下鉄ではないのか)


 今改札外の地上には確実に福岡とは違う街が広がっているだろう。ありえない事だが、柱のポスターはここが日本、私の知っている世界とは異なる場所であることを示していた。私は電車がたった今止まったことを確認する。古生物が太古の世界で生き生きと暮らすように、今目の前の電車もこの異様な空間ではじめて存在できるような気がした。ドアが開いて、褐色の労働服を着た人混みがホームの人混みと交換される。場違いな服を着た私は人の隙間を通って乗車した。


 ナバルシンガンから逆方面へ。車内は未知の言語でごった返している。私は半ば諦めと勇気をもって隣の乗客に聞いてみた。


「ここは何処なんでしょう」

『さあ、私も知らないね』


 なんと、日本語が返ってきたので驚いた。興奮を抑えて続ける


「あなたは日本語を話しています、なのでここは日本なんじゃないですか?」

『アスr7ijバイェ☆★@qoナバルシンガンヤ■※ハyル』


 その後も何度か聞いたり客を変えたりしたが、日本語が聞けたのはその一度きりだった。


 窓から定期的にナトリウムランプの差し込む座席に座っていると、何かとんでもない事が起こっているとの実感が出てきた。日本語を話した客は、私をここに誘導した誰かに操られていたのではないか?この電車を基準に考えれば、日本、福岡は異世界にあたる。ここでは日本語は異世界語である。乗客が日本語を話すとすれば、「誘導者」の人間がそれに操られた人間に違いない。


「田中さん、田中さん、しっかりしてください」


!?

 

 私を呼ぶ声が聞こえた、横方向ではなかった、下か?


「田中さん、救急車呼ぼうかな」

『いや、タクシーで運んだ方がいい』


 同僚の声だ


 突如閃光が走ったと思うと、私は駅前広場に横たわっていた。


「……?」

『あっ、田中さん!高橋!起きたぞ』

『え?田中?ああ、よかった。救急車呼ぼうかと思ったんだぞ』


 私は駅前広場にいた。飲みに行った店を出て別れたところだ。

「いやあ、変な夢を見たよ、異世界に行くような」

 記憶がはっきりして来るに連れて「那原新漢」は今日呑んだ芋焼酎の名であることが思い出された。では、中洲川端で乗り換えた記憶は何だろう。あそこから夢だったのだろうか?


「田中さん突然駅前広場でぶっ倒れるものだからびっくりしましたよ」

 

 頭に粘ついたものがあったが血だと気付いた。そしてポケットに手をやる。


(あれっスマホがない)

 高橋を見やると今話したばかりなのに姿がすっかり消えていた。駅前広場の巨大な時計を見ると丁度深夜3時を指していた。

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