短編集「ぬるぬるモホロビチッチ不連続面」

ユーストラロピテクス

1:ぬるぬるモホロビチッチ不連続面

 地学研究員の山田は久しぶりに自宅へ帰還しようとしていた所を通りすがりの異星人に攫われ、宇宙船らしき乗り物の中にいた。


「宇宙の全知識を授けよう」


 私の目の前にいるこの不定形の宇宙人は私がUFOに攫われてからこの事を繰り返し言ってくる。


「君は学者だろう?宇宙の理を理解したいはずだ、いっぱい知識を持つのはいい事だ、君は大金持ちになれるだろう。想像してみてくれ、センター長を君の言いなりにすることも出来る。楽しい以外に何も無いだろう。」


 この宇宙人からは何だか情報商材と同じ匂いがする、問答無用で脳を開けられたりするよりは、一応承諾を求めるあたり紳士的に見えるが、いきなり誘拐されて、私しか得のしないような話を持ちかけるなんて怪しさ極まりない。


「何故お前はそんなに全宇宙の理を授けたがるのだ、きっと目論見があるに違いない、宇宙の彼方からやって来てすることが知識を授けるだけだなんて、私は信じないぞ。」


 私が頑なに断るので困ったのか不定形の宇宙人は独特の電子音をまき散らしながらぬるぬると変形した。空気と屈折率が違うので輪郭は見えるが後ろの壁が透けて見えている。透明な体で思考ができるなんてたまげた生き物だ、いや、こいつはただの外部デバイスで本体はこの宇宙船なのかもしれない。VR義体のニュースをこの前見たが宇宙人の間ではオリジナルの体なんて時代遅れで、思考を司る部分は安全な躯体に保管し前衛的な外部デバイスで豊かなVR生活を送っているのかもしれない。


 ぬるぬる宇宙人の変形が終わったようだ。急須みたいな形をしている。


「では今からあなたの脳をぬるぬるにします、私の遠隔操作を受けて貰います。」


「うわちょっと待って!!」


 疲れているのであまり迫力の無い声を出す。


「わかった、わかったからちょっと待ってお願いします、宇宙の全知識の話も考え直すから、うわ待ってやめて!、急須嫌だ!」


 ぬるぬる宇宙人の動きも止まった。でも宇宙の全知識なんて私の脳に入り切るのだろうか、授けると言っていたからデータベースにアクセスする権利を貰うのかもしれない。早く家帰ってお風呂入りたい。知識を得たら何に使おうか、研究か、でもいきなり成果をどんどん出すと疑われるので小出しがいいだろう。私は地震学者なのだ。


 大学に入る二年前に南海地震があって甚大な被害を出した事は嫌というほど覚えている。東海と茨城にはまだ歪みが残っているからじきにまた大震災が起こるとマスコミが騒いで連日駿河トラフ地震について特集を組んでいたことも覚えている。南海地震は大きな地震だったが想定よりもやや規模が小さかったのだ。


 純粋な学問の居場所が狭くなる中、火山、地震周りは数少ない「実用研究」なる扱いを受けて、研究にはそれなりの予算が国から出ていた。地震予測の方面は特に莫大な研究予算がつぎ込まれ、防災庁直属の大学間特別研究所がここと筑波に置かれている。私の所属する研究チームもそこの脇にあった。


「それでは宇宙の全知識を授けよう」

「それって脳に影響とかあったりするんですか?」

 宇宙船から脱出できそうにないので反抗的になれないが怖いものは怖い、それに知識を得過ぎると悟って絶望感に苛まれたりしないだろうか。

「それは分からないのだ」

「地学関係の知識だけとか無理なんでしょうか」

「容量が大きいので始めにそれからいくこともできる」

 全知識の所は譲れないらしい。異星人だしきっと彼らの価値観や目指すところは人類には理解できないのかもしれない。


 そういう訳でぬるぬるには解放してもらった。不思議な形の宇宙船だ。駅前の並木を吸収して周りの風景が歪んでいた。知識は遠隔でインポートされるらしい。どんな技術かは知らない。その日はお風呂に入って早く寝た。


 けたましい燕の鳴き声で起きた。朝食の後視界が狭くなったと思ったら突如高速の走馬灯のようなものが意識に走った。

「なるほど、たぶん下りデータ量に制限があるのだ。」

 気にせず朝食を作っていたらだんだん眩暈がして部屋は異様な無音に包まれた。口をぱくぱくさせる燕。今その親がベランダ裏にゆっくり入っていって……次の瞬間、山田は失神した。


 山田が起きたのはそれから10時間と24分の後だった。山田は自分が何故自宅にいるのか理解出来なかった。確かついさっきまで電車に乗っていたはずだ。それから駅前でUFOに攫われて……


「ぬるぬる」が真上にいた。表面だけ微妙に屈折率が違うので輪郭だけ見える。不思議に何も驚かなかった。


(電気付けっぱなしだ)

 そのとき山田は窓の外が暗いことに気づいた。私は今日1日ずっと寝ていたのか。まず大学に連絡しなければ、スマホの電源を付けようとすると、無視されて不満だったのかぬるぬるが割ってきた。


「データの入力に失敗しました。容量も仕組みも違ったのです。」


 私はそれより無断欠席の責任をぬるぬるに負って欲しかったがその事を訊くとぬるぬるは全く無言になった。せめて「それは我々の任務ではない」などと言って欲しかった。暫くしてぬるぬるは再び話し始めた。


「あなたの記憶は全て感覚器の信号の複雑な組み合わせで記述されていました。私はデータをあなたの言語に変換して送り込もうとしました。でもそれは無理でした。大きすぎるデータを送り込んでも全体が薄くなるだけでした。私のデータはあなたの記憶の組み合わせに変換できなかったのです。」


 今日になってからの記憶がすっかり消えている上に立て続けに話されると情報が飽和して個々の単語しか頭に残らない。


「もっとゆっくり喋って」


 ぬるぬるは無視した。


「その通りです、私は変わってデータを直接あなたの遺伝子に書き込みました。私は図書館生物です。重力波で送られた自己増殖可能なデータが本質です。私はもうすぐ消えますが遺伝子はいつか発現するでしょう。」


 そうぬるぬるが言ってから30分くらいしてぬるぬるは完全に消えた。後には何も残らなかった。宇宙船も無くなっていた。でもぬるぬるが言っていたことには間違いもあった。私は一部知識を手に入れていた。短期記憶に残っていたのだ。夜の8時だった。研究室からの連絡を無視して夜通しで論文を書き上げることにした。タイトルは「鉛及びマグネシウムに拠る伊豆バー前島弧地殻形成・分化モデル」前島弧地殻形成の謎に迫るものだった。記憶が消えていく前に何とか書き上げなければならない。初めは私が喋るのをスマホで録音して後から書こうと思ったが何故か文字の方が話すより効率よく情報を出せた。きっと文字の方がぬるぬるの入力したデータに近いのだろう。ぬるぬるは意味や概念と言ったものをを直接私の頭に入れた。なので、言語化されていないそれは気を抜けば瞬く間に消え失せてしまう。なるべく別のことは考えてはならない。余計な記憶を作ってはならない。私は急いでラップトップを(人をダメにする)ソファのところまで引き摺って最も楽な姿勢で執筆を始めた。


 問題は直ぐに判明した。データがない。ぬるぬるから得た知識は理論だ。これではただの私の空想になってしまう。サーバーから以前調査した時に出てきたコアの分光データを適当に引っ張ってきた。辻褄合わせは後でやろう。


 始原マントルからいかに海洋プレートが形成され、島弧プレートからいかに大陸プレートが形成されるか。その最も根幹がぬるぬるモホロビチッチ不連続面なのだ。鉛とマグネシウムによってプレート下部が溶けて分離する。浮力によって集まった軽い岩は前島弧地殻を作る。空は鈍色に明るくなり、論文の全体骨格を書き終えた頃には頭の中にあった無数の情報はみんなぬるぬるした曖昧な雰囲気に急速に変質していった。そしてその中には自分とは異なる不思議な意識が感じられるようになっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る