世渡さんの旦那さん

稲生葵

1:代償は寿司

 彼は、九月の夕暮れ、突然現れた。この偶然の出会いの料金は、寿司。

 今夜私が食べるはずだった上握り十貫セット(寿司の日特売で五百円)が、倒れた自転車のカゴから飛び出して、アスファルトに食われている。自転車で走る私の目の前、一本道の真ん中へ、スタンプを押したみたいに一瞬で現れた彼を、とっさに避けた結果だ。

 寿司の残骸を見つめる私に、彼は深々と頭を下げた。カウボーイが被ってるような帽子に飾られた金色の羽が揺れてきらめく。

「すみません! あの、これ、どこで買ったものですか?」

 売り場の記憶が蘇る。寿司の日特売は戦場だ。ケースに並んだものから売れて行く。私は、かなりギリギリで手に入れたのだ。

「すぐそこの店ですけど、多分、売り切れたでしょうね」

「えっ!? ちょっと時間ください!」

 彼はスマホを操作したかと思うと、帽子と同じくらい古そうなトランクから緑色のビー玉みたいな宝石を取り出して夕日にかざし、これまた古びた革財布(なんだかすごく膨らんでいる)の中身を確認した。

「この近くに良い寿司屋があるんです」

 彼が見せてくれた画面には、高そうな寿司屋の店構えが写っていた。

「罪滅ぼしに、奢らせてください」

 ええっそんな、五百円の寿司のためにそこまでしてもらったら、こっちこそ悪いですよ。知らない人には付いて行っちゃいけないって言うし――

「許します許します。すぐ行きましょう」

 人の金で食う高い飯より美味いものはない。


 寿司屋の座敷で旬のフルコース(六千八百円)を待つうち、だんだん私は不幸な事故のショックと、人の金で食う寿司の喜びから、平常心を取り戻してきた。

「さっきの事なんですけど、どういう……仕組み? なんですか? 光学迷彩とか、時間を止められるとか?」

 私はよそ見をしてはいない。彼は一本道の真ん中に、何の前触れもなく出現したのだ。

 彼は少し首をひねった。

「瞬間移動、が近いかなぁ」

「すごい、超能力! えっ、一緒に写真いいですか!? 家族に自慢したい!」

「今撮ってもただの男ですよ」

 照れくさそうにしつつも、彼は応じてくれた。ついでに連絡先も交換した。彼の名前は世渡良行よわたり・よしゆきというらしい。

 本物の超能力者に出会ってしまった。

「超能力者って本当にいるんだぁ」

 興奮で夢心地の私に、彼はちょっと苦笑いを見せた。

「制御不能なんですけどね。さっきは本当にすみませんでした」

「いえいえ」

 おかげで六千八百円の寿司がタダ食いできるのである。

「でも制御不能って、大変そうですね。車の前とか、高いところに出ちゃったとか、そういう事ないんですか?」

 彼は言われて気付いたという感じで、少し目を丸くした。

「考えた事なかったなぁ。いつもは、人の目の前に飛び出すなんて事、ないんですよ」

「へぇ、不思議ですね」

 話している間に旬のフルコースの第一弾が来た。

 なんとなくわかる奴と、何の身だかわからない奴が色々並んでいたので、持ってきてくれた店員さんに聞いてみると、ちょっとした小ネタも絡めて親切に教えてくれた。

「良いお店だなぁ」

 彼は知っていたんだろうか。いや、ここは検索して見つけたお店だったはずだ。あれ? でも『良い寿司屋がある』って言ったよね?

「このお店の事、知ってたんですか?」

「いえ」

 そう言ってから彼は「しまった」という顔をした。私はただならぬものを感じて、声を潜めた。

「ひょっとして、それも超能力で、しかも秘密にしておかないといけない奴とか……」

 使ったのがバレると国の特殊部隊とかそういうのが来ちゃうとか。

 彼は少し悩んでから、夕日にかざしていたビー玉みたいな宝石をトランクから出してきた。

吉方翡翠きっぽうひすいっていう、光にかざすと良い事がある方向を教えてくれる……魔法の宝石なんです」

「魔法!」

 超能力者に続いて魔法の宝石が現れた。

「見てみますか?」

「良いんですか!?」

 魔法の道具に触るのなんて生まれて初めてだ。

 彼の言うとおりに光にかざしてみると、向ける方向によって、花火みたいなキラキラが見えたり、ドブ川みたいに汚く濁ったりした。一番明るく見えたのは、彼の方に向けた時だった。

 確かに、良い事があった。これはすごい道具だ。でも彼は、吉方翡翠をさっさとしまってしまった。あまり良い物と思っていない雰囲気だ。

 彼は私の顔から、何を思っているのか読み取ったらしい。

「これのあった世界は、この宝石のために争いが絶えなかったんです」

「ああ、その力を使うために皆で取り合ったんですね……」

 なるほど、確かにそれなら隠さないといけない。

「ある意味、そうですね」

「へ?」

「実はありふれた品なんですよ。だから問題になった。皆して吉方位に行こうとして、俺が行くんだいや俺が、邪魔だ道を開けろと、まぁそんな有り様で」

「吉が凶になっちゃってますね」

 彼は頷いた。

「捨てようかと思う時もあるんですが、便利すぎて。大事な時にだけ使うって決めて持ち歩いてるんです」

 そんな大事なものを触らせてくれたのか……感動に浸りかけた私だったが、沈みきりはしなかった。

「世界? えっ、国とかじゃなくて?」

「世界ですよ。異世界です」

 オウム返しもできないほど驚いている私をよそに、彼は突然慌ただしく財布を開き始めた。

「やばっ!」

「やばって、どうかしました?」

「さっき飛んだばかりなのにもうバネがたわんで……日本円日本円、日本円どこだ!?」

 何を言っているのかわからないが、今聞いても教えてくれそうにない。

「あったぁ! お釣り好きに使っ」

 彼は音も煙もなく一瞬で消えた。彼がいた場所には、一万円札と、見た事もないコインが散らばっていた。金色のこれは、ひょっとして金貨だろうか。ドラゴンっぽい生き物と、日本語でもアルファベットでもない文字が刻印されている。

 一万円を拾う。『お釣り好きに使っ』は『お釣り好きに使って良いから』が途切れたのだと考えるのは都合が良すぎるだろうか。

 とりあえず、ダメだったら補填する事にして、私は一万円分、寿司を味わった。

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