8
ガールフレンドとの短いデートの翌日。
彼女は死んだ。
その日はいつものように大学の講義をさぼり、憂鬱で煮え切らない気持ちで部屋の中で悶々としていた。そんなときに、家のドアが勢い良く開いて、叔母が息を切らして駆け込んできた。そして、大声でアレ2クセイの名を呼んで、出てきた彼にこう言った。
「昨日会ったでしょ、あの子、今、近くの交差点で事故にあって! あなたの名前を呼んでいるの!」
「事故?」
にわかには信じられなかった。
昨日会って、話して、楽しくはなかったけれど何か大切なものを残していった彼女。
笑顔ではなかったが、元気に帰って行った彼女。
呆然としているアレクセイの手を、叔母は強く引っ張って、エンジンのかかったままの車の助手席に乗せた。
「病院に運ばれているけど、どうなっているかは分からないわ。とにかくあなたの名前を呼んでいるのよ。行ってあげてちょうだい!」
叔母は、そう言うと、そのまま車を発進させて、病院まで向かった。
道中、病院までの距離は遠かった。
何が何だか分からない。
ヘレンが来て、両親が死んで、故郷が滅茶苦茶になって、またヘレンが去って、そして、彼女。
彼女が事故に遭った?
いろいろなことがありすぎて頭が整理できない。
これは夢だ。こんなにたくさんのことが連続して起こって、脈絡のない展開が目の前を通りすぎていく。まるで追いついていないアレクセイの混乱した頭を置き去りにして。
そう、これは夢だ。
そう考えているうちに、叔母の運転する車は病院に着いた。
受付を済ませて彼女のいる部屋に行くと、たくさんの機械やチューブに囲まれて眠っている彼女が見えた。
ベッドに近寄って確認する。
間違いはない、彼女だ。彼女なのに、彼女のような気がしない。それは、もう人間の色をしていないからだ。肌は色を失い、呼吸もうまくできていない。まるで別の人間を見ているようだった。
「ナオミ!」
アレクセイは、彼女の名前を呼んだ。
「ナオミ、ナオミ!」
呼んでも、返事はなかった。
「どうしたんだ、起きない」
何度も名前を呼んでも起きない彼女。
ゆすってみても頬を叩いてみても起きない彼女。
これは、夢だ。現実じゃない。昨日まで当たり前のように動いて、当たり前のように話していたじゃないか。
人工呼吸器を付けられ、体にかけられた毛布から出ている肌や腕に訳の分からない線を付けられて眠ったままの彼女。すべて夢だ。
色の着いた夢、音のある夢。
「夢じゃないわ、アレク」
目の前で眠っている彼女を前に涙一滴流さないアレクセイを不審に思ったのか、それとも何かに気づいたのか、混乱しているアレクセイに、後ろに立っている叔母が言った。
「夢じゃないのよ。現実なの」
「現実だって? こんな現実があるもんか!」
「いいえ、現実なの」
「ちがう、これは」
アレクセイは俯いた。
俯いて、そのままじっとしていた。認めるわけにはいかない。瀕死であるなどと認めるわけにはいかないのだ。彼女は生きている、死んでなんかいない。まだ、やりたいことも言ってやりたいこともたくさんあった。なのにこれでは何一つできないではないか。
すると、俯くアレクセイの目の前に、突然、白い手が現われて、俯いたままの彼の頬を撫でた。
「アレクセイ」
弱弱しい声が、アレクセイの名を呼んだ。顔を上げると、ナオミが微笑を浮かべていた。
「やっと、私のこと、名前で呼んでくれたね」
そう言うと、ナオミは、アレクセイの手を握った。
温かかった。
ナオミの手は、温かかった。死んではいない、生きているのだ。これから死んでしまうなんて考えられない。いや、死ぬわけがない。これからアレクセイが守ってやればいいのだから。
「愛しているわ、アレク」
そう言って、ナオミは笑った。
そして、静かに瞳を閉じた。
ナオミが再び眠ってしまうと、医師が来て、退出を勧めた。
アレクセイと叔母はそれに従い、ナオミを置いて、部屋から出た。少し落ち着いて部屋の周りを見渡すと、「集中治療室」と書いてあるのが分かった。
そして、その数分後、彼女は死んだ。
集中治療室の外で医師から彼女の死を伝えられて、アレクセイは激しく動揺した。
動悸が早くなって、手が震えている。体の奥から何か熱いものがこみ上げてきて、気がついたら慟哭していた。
嘘だ。これは嘘だ。それに夢に違いない。こんなひどい現実があってたまるものか。こんなドラマみたいなことがあってたまるものか!
アレクセイは、嘆いた。声も出さずに、ただ泣いた。そんなアレクセイを、叔母は優しく抱いてくれた。しばらくそうしていると、ようやくアレクセイはこれが夢ではないのだと思えてきた。
現実を現実と受け止めることができるようになって、アレクセイの頭は一気に晴れ上がった。
そして、次には激しい怒りが湧いてきた。
ナオミは事故で死んだ。交差点で事故に遭った。車に撥ねられた。
なのに何故?
ナオミを撥ねた運転手は何故、ここに姿を現さないのだろう。
ひき逃げではない。昼間の、しかも交通量の多い交差点での事故だ。ひき逃げができるはずはない。
なのに、犯人はどうして姿を現さないのだろう。
「叔母さん」
泣くのをやめて、アレクセイは叔母の腕からはなれて、言った。
「犯人は?」
震える声でそう話すアレクセイに、叔母は一瞬動揺した。しかし、少しもしないうちに、その顔を曇らせたまま、言った。
「放免されたわ」
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