7
一ヵ月後、ヘレンは、マリンゴートに向かった。
悶々として何かを振り切れないアレクセイを残して。アレクセイの知っていた現実を覆して、そして、心に何かの変化を残したまま。そのまま、あのヒラヒラのかわいらしい服を着たまま、マリンゴートの国境へと向かう飛行機に乗った。
一人残されたアレクセイは、手にある残りの4つの飴を、大切に自分の部屋にある机の引き出しにしまっておいた。
舐めてしまう勇気もなかったし、また、幼い頃に唯一残った両親の記憶が消えてしまうのも怖かった。
どうしたらいいのだろう。
アレクセイのもとに残された母の飴は、アレクセイに何を求めているのだろう。
そんなことを考えながら、アレクセイは何日も、クリーンスケアを後にする姉の背中とテレビに連日映し出される故郷の姿を噛み締めていた。
そんなある日、悶々としているアレクセイのもとに、久しぶりにガールフレンドが現われた。
そういえば、ここ数日忘れていた。
何日か前に会って話もしたが、上の空で覚えてもいなかった。
久しぶりに現われたガールフレンドに、アレクセイは何故か突然懐かしいものを見るような感情を覚えた。
戦争の波がまだ及んでいないクリーンスケア。核という傘に守られて降り注ぐ銃弾をその身に受けることのない生活。
家の前に立っていた彼女を中へ誘い、自分の部屋に入れると、彼女はここに来る前あらかじめ買っておいた飲み物をテーブルの上に出して、アレクセイが用意したグラスに注いだ。ヘレンが来る前までは、こんなことは当たり前だった。いまでも当たり前に、こういうことをしている。
しかし、ヘレンにはこれが当たり前ではない。クリーンスケアから一歩でも出て核の傘の外へ出てしまうと現実は一変する。こんな当たり前のことが当たり前でなくなった世界が、すぐそこにある。
そして、その中で両親は死んだ。
「どうしたの? 最近ボーっとしているわよ」
グラスに飲み物を注ぎ終わって、いつものように部屋の中でテレビを見ながらくつろいでいると、彼女が声をかけてきた。
「心ここにあらずって感じね。あなたのお姉さんがマリンゴートに行ってからだわ」
「そうかな」
テレビを見ながら、アレクセイは答えた。
確かに、『心ここにあらず』といった状態だ。自分でもそれはよく分かっている。
姉のことも故郷のことも、そして、飴の味のことも、なにひとつ頭から離れない。朝起きてから夜寝るまでずっと、頭の中でそれはくすぶり続けている。
そのくすぶりが不完全燃焼の嫌な煙をアレクセイの脳みそに行き渡らせて、どうにも煮え切らないのだ。
「何かの答えが欲しいのかもな」
昼間からバカ騒ぎしているテレビの中の人間を見つめながら、アレクセイはふと呟いた。
「答え?」
「ああ、答えさ。僕は、これからどうしたらいいのかな」
「どうしたらって」
彼女は怪訝な顔でアレクセイを見つめた。
そして、しばらく黙ったまま膝を抱えてテレビに見入っていた。
いや、見入っていたのではない。テレビの画面を見ながら、彼女は何かを考えていた。バカ騒ぎするテレビ、聴衆の笑いが止まらないテレビ、色鮮やかな画面、すべてがこの部屋の中で空回りしていた。
テレビの画面を見つめる二人の間には、笑顔がなかった。
「楽しい番組、見ているはずなのにね。これじゃ全然楽しくないよ」
彼女が、横で苦笑いを浮かべた。
「ここ一ヶ月のあなたって、そんな気持ちだったのかしらね」
彼女の言葉に、アレクセイは何も返せなかった。自分の気持ちが分からない。そんな状態でいい加減なことをいう訳にはいかなかったからだ。
「心ここにあらず」
そう言って、彼女は不意に立ち上がった。
そして、深呼吸をして、伸びをした。
「だったら、あなたの心はどこにあるの?」
大きく息を吐きながら、彼女は言った。
「僕の心」
呟いて、アレクセイはハッとした。
飴。
飴だ。
アレクセイはそう気づいて、突然立ち上がってテレビを消した。そして、部屋の隅にある自分の机の引き出しを開けた。中から四つの飴を取り出し、それをひとしきり見つめる。
「これだ」
飴に向かって一言、そう言うと、アレクセイはそのまま彼女のもとへ行き、座らせてから、テーブルの上にその飴を置いた。
「この飴が、惑わせるんだ」
「飴が?」
アレクセイは、頷いた。
「故郷の記憶、母さんの記憶。これがなければ、ぼくは今までの僕でいられた」
「そうなの?」
「ああ」
「じゃあ、舐めちゃって、この飴がなくなれば、以前のあなたに戻れるの?」
「それは」
彼女の鋭い質問に、アレクセイは答えを窮した。
飴を舐めれば、全てが消えてなくなるのだろうか。
目の前から戦争の証拠を消してしまえば、戦争はなかったことになるのだろうか。
両親は、まだ生きたままアレクセイの心の中にいつづけるのだろうか。
姉が来る前のアレクセイに戻れるのだろうか。
「私が舐めても、ただの飴だと思うな、これ」
小さな飴をひとつ摘んで、彼女は呟いた。
「でも、これ、あなたには特別な飴でしょ」
「ああ。舐めると、故郷のこととか両親のこととか、そういうものを思い出す」
「そう。うらやましいな、そういうの」
「羨ましい?」
彼女は、頷いた。
「私には、思い出がないもの」
そう言って、彼女は寂しそうに笑った。アレクセイの知らない彼女、そして、彼女の世界がなんとなく見えた気がした。いや、初めて、見ようとしたのかもしれない。
その日は、彼女のその言葉を最後に、短いデートは終った。
彼女を家まで送って、アレクセイは夕闇に染まる平和な町を眺めた。
本当に、平和なのだろうか。
そう思い、アレクセイはマリンゴートとクリーンスケアの間にある国境の方角を見た。
少し行けば、戦場だ。
どんなにここが平和な状態を保っていたとしても、両親が惨殺された事実も差別の法律が人間を縛って戦争をさせている現実も何も変わらない。
知らなかった今までの自分。知ってしまった今の自分。
アレクセイの中で何かが変わろうとしていた。
次第に彼は、その変化を、受け容れざるを得なくなっていた。
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