瑠璃・深月



何年か前のことだった。

まだ少年だったアレクセイは、父親を見ていた。隣で大声を上げて、誰かの名前を叫びながら笑っている。その拳を大きく振り上げている。誇らしげな姿だった。

その時は、近くで馴染みのある菓子屋で飴を買ってもらって、舐めながらその様子を見ていた。目の前は大勢の大人の壁で、何が起こっているのかはわからなかった。しかし、その向こうで、甲高く鳴るラッパの音楽と規則的に響くたくさんの足音が聞こえてきたのは覚えている。何度も、煙だけの大きな音の花火が青い空に打ち鳴らされ、大人たちの歓声が響いていた。

覚えているのは、そのときに両脇にいた両親の歓喜の声と、甘酸っぱい飴の何とも言えない味だけだ。

数年後、彼は、その両親の言いつけで、遠い外国にいる親戚に預けられた。そして、そこで何年かの月日を過ごして、やがて大人になった。

その頃にはもう、彼の故郷はなくなっていた。

戦争に、負けたのだと言う。

戦争に負けて、勝った国の中に組み込まれてしまったのだという。親戚の家でテレビを見ていて彼は、その様子をただ呆然と見ていた。

「独立戦争は終ったけれど、本当の戦争はこれからね」

まるで他人事のように呟いたガールフレンドの隣で、彼は自分自身の心の中でもそれが自分とは全く違う世界で起こっているかのように感じていた。

そういえば両親は無事だろうか。

あの日、甘酸っぱい飴を買った店は無事だろうか。

そんなことさえ頭に浮かばなかった。

本当に、あれは彼の故郷だろうか。

そんな時、家のドアを勢い良く開けて、一人の男が入ってきた。頭を抱え、深刻な顔をしていた。叔父だった。

叔父は、家に入るなり叔母と何かを話し、そして、まっすぐ彼の元に来た。

そして、何が起こったのか全く知らない彼を、強く抱いてすすり泣いた。何があったのだろう、涙を流すほどのことがあったのだろうか。

「今日、連絡が入ってね」

何も言わない叔父の隣で、叔母が言った。

「アレクセイ、あなたのお父さんとお母さんが、亡くなっていたそうよ」

名前を呼ばれて、彼はようやく、これが自分のことではないかという感覚を覚えた。

「ヘレン、入って」

呆然とするアレクセイをそのままに、叔母は、家の入り口に立っていた一人の女を中に入れた。両親が死んで、それでなにがあったのだろう。不思議と悲しくはなかった。

入ってきた女は、赤毛の女だった。顔を俯かせ、目を伏せていたが、相当な美人だった。

「あなたのお姉さん。覚えていて?」

アレクセイは首を横に振った。覚えてはいない。それくらい、ここに来た時、彼は幼かったからだ。

「そうね。あなたが物心つく前に、お姉さんとは別れてしまっていたからね」

叔母は、そう言うと、ただ立ち尽くしているだけの赤毛のヘレンの背を押した。アレクセイの正面まで来ると、ヘレンは俯いたまま、黙って床を見ていた。

「ヘレン、あなたが助かって、それだけでもよかったわ」

叔母のその言葉に、ヘレンは激しく首を横に振った。ショックで設けたのだろうか、何一つ言葉を発することはない。

「あれを見たら、そうは言ってはいられない」

そう言って、叔父がアレクセイの元を離れてヘレンを強く抱いた。そして、アレクセイの傍にいた彼女を他の部屋に連れて行った。

その様子を見ていたアレクセイは、ふと傍にいた叔母に聞いた。

「おじさんが言っていた“あれ”とは、一体なんですか?」

すると、叔母は、悲しそうに首を横に振るだけで、何も答えなかった。

「あれ」とは、一体何なのだろう。

ヘレンと言っていた。

あの、姉が見て、そして、言葉の一つも出すことが出来なくなってしまったほどのものが「あれ」なのか。

だとしたら、「あれ」とは、相当ショックの大きいものに違いない。若いとはいえアレクセイも、もう大人になっていた。戦時下の故郷に残されていたのであろう姉のみた「あれ」は、大体想像がついた。戦争に負けた国の国民がどんな目にあうか、そんなことは、容易に想像がついたからだ。

しかし、想像はできても分かることではない。だから、アレクセイは、姉の見たものが何だったのか、気になった。

落ち着いたら、聞いてみよう。

あの日、まだ少年だった頃のアレクセイの見たもの、そして、姉が見たものが何であったのか。

そう考えて、その日はまだ何の実感も湧かないまま過ごした。涙の一滴も流さずに、いつものように生活をし、いつものように食事をして、夜になると、寝た。

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