図書室は君と

新米ブン屋

それは出逢いか、否か

 ――少女が、寝ていた。


 楽しかった部活動も終わり、勉強に集中しなければならない時期に差し掛かっていた。勉強をしていないわけではないが、現状受験生と名乗るにはあまりに怠惰な生活を送っている。さすがに危機感を感じてきた。

 よし、もっと勉強しよう。目標を決めるだけなら誰でもできる、すぐ行動しよう。まずは学校の図書室で勉強だ。きっと家ではだらけてしまうだろうし、ベストな選択だろう。

 新しいことへの挑戦は楽しい。この胸が詰まるような退屈な時間に、ほんの少し余裕が生まれた気がした。図書室に行くことを決めただけでこんなに心持ちは変わるものなのだと少し驚く。

 誰か知り合いはいるのだろうか、やたらにうるさかったりはしないのだろうか。高校に入学したときと同様のドキドキとワクワクが体を縛りつける。ああ、どうしよう。やっぱり家に帰って普通に勉強しようか。

 ポツポツと浮かんでくる臆病な自分を奮いたたせる思いで、俺は扉を開いた。


「すー……」


 出迎えたのは、自習室として賑わっている図書室――ではなかった。

 そう、俺を迎えてくれたのはたった一人。しかも、幸せそうに口を開けた、いかにも間抜けそうな少女なのであった。


 どうすればいい。俺は何をするべきなんだ。起こすか? いや、全く知らない安眠している異性に声をかけるのは俺にとってハードルが高すぎる。完全に無視をして自習をするか。だめだ、こんなに面白そうな状況なのにスルーしたくない。面白そうなことは積極的に関わっていかなければ。

 と思いつつも、一旦謎の少女から少し離れた机にリュックを下ろし、自習道具を取り出した。様子見の意を込めて、勉強しておこう。


 そして、数分。俺の手は全く進まず、少女も相変わらず安定した呼吸を繰り返していた。やばい、想像以上に勉強が捗らない。学校での自習とはここまで大きい障害があるのか。これは予想外だった。まさか少女が爆睡してるとは思ってもみなかった。先程から何度もまばたきをしているが、この現実は消えそうにない。

 確かに、俺の求めている面白い状況ではある。少々異色過ぎるけれど。ただ、自分から行動しない限り、この状況がよくはならなさそうだ。なら、やってみるしかない。少女に声をかけるのだ。


 さて、どのような言葉をかければよいのだろうか。貧相な俺のボキャブラリーでは、異性にかける最高の言葉のチョイスは分からない。ここは素直におはよう、とかか? それとも図書室で寝ていることを注意してしまった方がいいのか? もしくは――


「……っ!?」


あ。何か寝ピクした。これ絶対起きたでしょ。間違いない。むしろこれで起きなかったら相当やばい。


「兄さん!」




 ――しばらく経ってわかったことは、少女の名前は美紅みくということと、彼女に兄はいないということだ。

 つまり、先程の言葉は寝言であった。それを彼女にとっては最悪なことに、俺に聞かれてしまったのである。


「あんちゃん、名前は?」


 正面から顔を見つめてみてわかる。彼女は後輩だ。いくら同学年の人数が数百人はいるとはいえ、三年間を過ごして一度も顔を見たことがない生徒が同学年にいるはずがない。転校生であったら紹介がされているだろうし。第一、初対面の相手にここまで馴れ馴れしく出来る人物を俺は知らない。

 しかし、もう一度眺めてみると、どこかで見たことがあるような顔の気もする。


坂本さかもと壮士たけと


 ひとまず、名乗る。名を訊かれたら返すのが普通だろう。それが変な相手であったとしても。


「たけと、たけとかあ……たけとんぼ、とかどう!?」


 あ、こいつアホだ。なるほど、こんなやつなら図書室で爆睡していても全くおかしくない。

 俺は胸を撫で下ろし、再び自習を始めた。今度は集中できそうだ。


「え、まさかの無視? そういう感じっすか? ひっどーい」

「こんなに話しかけてくる人に対してその態度ってもしかして友達いないんじゃ」

「何の勉強してるの?」

「……あー!!!」

「人の生というものに私は疲れてしまってな……」

「ワタシ、ゲンキ」

「初夏とは、中々に微妙な環境ですなあ」

「私図書室は寝るために来てないからね、絶対そんなことないよ?」

「確かに睡眠は大事。でも私には読書の方が重要だと思うの」

「物事には優先順位というものがね、あってね、ねねね」


 なんかこいつめっちゃ喋るんだけど。無意識に耳を傾けてしまう。抑揚のはっきりついた、元気な声に。そして、それと同時に活動を停止する、ペンを持った右手。


「たけうま……いいかもしれない」

「いや、どう考えてもたけとんぼでしょ。雰囲気的に」

「竹っぽいしね」

「たけとんぼー! 一緒に遊ぼうぜ!」

「……あ、たけとんぼ手とまってるじゃん!」

「フフフ、私にはお見通しなんだな、君の私に対する興味が……」

「これでもだんまりとかひどくない? ぶーぶー。せーかくわーるいやーつ!」


「そんな男に話しかける人はどうなんですかね?」


 ぽかん、とみくとかいう少女が固まる。そして、にぱーっと口元をつり上げて、喋り出す。

 ああ、これは止まらない類いのやつだな。なんとなく察した俺は、再びだんまりを続けるのだった。


 図書室の扉が開く。俺も少女もぎょっとして音のした方向を見ると、そこには司書の先生がいた。どうやら先ほどまでは席を外していたようだ。少女が話し疲れていることから予想するにそれも、かなり長い時間だったのだろう。司書室にいなかったのは何故だろう。まあ、そんなことはどうでもいいか。


「そろそろ閉館の時間ですよ」

「はーい」


 親しそうにやり取りをする二人。そしてハブられる俺。

 こういうとき、すごく気まずい。気軽に話に加わって嫌な気分はされたくないし、己の孤独感と向き合うのも避けたい。寂しがりやな俺は、大抵話しかけてしまうけれど。

 でも今日は、不思議とそれも躊躇われる。理由はわからないが、目の前の二人の交流を邪魔してはいけないような気がしたのだ。じゃあ、結論はでた。そそくさと帰らせていただこう。想定よりは勉強も進んだし、これからの図書室通いを考えていいかもしれない。


「あ、とんぼ待ってー!」


 いやもうそれ、原型とどめてなくない? 俺の名前と一切関係ないよね?


「とんぼくん? 面白い名前ですね」


 司書さんも真顔で合わせないでいただきたい。もしかして天然とかでいらっしゃられるので?


 そんなことを思いつつも、俺は孤独に下駄箱へ向かうのである。行く末が暗かろうが、用途不明な光を連れて歩くのは慎重な俺が許さない。ようするに、全く知らない変な少女と歩みを共にしたくなかったのだ。

 いくら興味があっても、通りすがりの人々に嫉妬の目で見られるのは耐えられない。見た目は悪くないのだ、この少女。かといって俺が少女をそういった思いで捉えられるかは別なことであろう。興味がないわけではない、決して。


「とんぼ、ゲットだぜ!」


 そろそろ俺の堪忍袋の緒が滅却されそうだ。多分今消えかけの蚊取り線香くらいになっていると思う。やかんだったらとうに沸騰しているだろう。


「とんぼは、いうことを、きかない!」

「……実はめっちゃノリいいやつですか、すばらしい!」


 あ、つい反射的に反応してしまった。こういったやからは決して反応を返さないと言うのが最適解なのに。く、普段からアホな友人たちの相手をしていた癖が出てしまった。これは家に帰ってしっかり反省せねば。


「手を離してくれませんか?」


 年下に敬語と言うのも中々あれだが、今はとりあえず帰宅が優先だ。何故俺が後輩に手を握られなければならない。恥ずかしい。って待て俺、こんなやつに惑わされてはならない。平常心だ、平常心。

 でもやっぱ顔は可愛い方だな……

 いや、考えるな俺。中身は絶対やばいぞ、こいつ。


「離したらとんぼ、逃げるでしょ?」

「とんぼですから」

「うーん」


 俺の言葉に少女は、顔をしかめてうんうんうなりはじめた。この隙があれば振りほどけるのでは、と思って身体を捩ろうとすると、少女に強く指を握りこまれた。めっちゃ握力強い。なんか指先がきりきりいってる。あれ、これやばいやつじゃ。段々骨が軋むような音が聞こえてきた。気のせいだろう、仕方がない。


「ギブギブギブ! 手を離してください!」

「ふふふ、情けないなあ」


 ニコニコ笑顔で言っているが、握力は見た目と反対にやばい。貧弱な一般的男子高校生の俺には決して耐えられないレベルの力だ。どうしてここまでの握力があるのか。その体のどこにそれだけの膂力を隠しているのか。

 哀れなとんぼくんは暴力の力によって手込めにされたのである。


「ぐるぐるぐるぐる……」


 一呼吸おいて、少女は人差し指を俺の顔の前で円を描くように動かし始める。その動きはまるで、とんぼの目を回すかのような動きであった。というか、まんまそれである。もしかして、俺は本当にとんぼになってしまったのであろうか。

 いや、そんなことがあるはずがない。惑わされすぎだ、さっきから。前を向け、俺。正気に戻るんだ。


「はい!」


バチーン!

突然、少女の手が俺の顔の前で大きく音を奏でる。

不意をつかれた猫だましに、少し後ずさってしまう。


「これでとんぼは私のものね!」

「え?」

「あなたは今の催眠術で、私の傀儡となりました。それゆえあなたはもう私に逆らうことができないでしょう」

「そろそろ本気で話し合うときがきましたか」

「……真顔で言われると中々心にくるものね。こわーい」


そう言いつつも少女は素知らぬ顔だ。かといって見知らぬ可憐で元気な少女にいきなり罵詈雑言を撒き散らすほど俺は常識はずれな人間ではない。我慢だ我慢。根気強く話せばわかってくれるさ、きっと。


「ほら、帰ろ」

「そっちが引き留めたんでは?」

「いちいち文句いわなーい」

「とんぼもたまには不満を抱きますよ」


「あんなに自由に空を飛んでいるのに?」

「……はい、きっと」


ふーん、と目を細める少女はなんとなく、残念そうに見えた。

昇降口を背にし、校門を出る。少女の家がどちらにあるか分からないので、とりあえず少女の横に並んで歩く。


「とんぼは何部なの?」


いまだに年齢差に気がついていないようで、相変わらず無遠慮にタメ口で話しかけてくる。馴れ馴れしいというよりは、親しみのもてる感じだからもう許そう。そういうことにしておこう。


「サッカー」

「えー、見えない!?」

「初っぱなそれは失礼すぎません?」

「サッカー部っぽい感じするー!」

「いやもう遅いですよ」

「ポジションはー?」

「センターバックか、アンカーやってましたね」

「真ん中の後ろと、銛?」

「キーパーの前くらいにいて、最終ラインを守っているディフェンスがセンターバックといいます」

「ディフェンス……最終ラスト……うん、なんとなくわかった気がしないような気がする」

「……図書室にサッカーのルールの本とかないんですか?」

「興味なかったもの」

「じゃあ読んでおいてくださいよ」

「僕(しもべ)に勧められて読むのは癪にさわる」

「じゃあ俺が教えますよ」

「それも嫌だ」

「じゃあ何とかして調べて下さい」

「気が向いたらね」

「どうぞ」


「あなたは?」

「私?」

「何部に入っているんですか?」

「ひ、み、つ」

「……文芸部、ですか?」


俺の言葉に顔をしかめ、距離をおく。もしかして地雷でも踏んでしまったのだろうか。だとしたら謝らなければならない。咄嗟に謝罪の言葉を送ろうとすると、少女が笑った。


「私のこと、よくわかってるね」


ということは、当たりということか。割と適当に言ったのだが、当たっていたならよかった。


「……初見で当てられるのってなんだか嬉しいわ」

「お気に召したようならよかったです。この喜びがわかるなら、俺に対しての発言を詫びてください」

「しつこい男は嫌われるよ?」

「あなたはとんぼに好かれたいと思いますか?」

「思う」

「でも俺は架空の兄を持つあなたに興味はありません」

「反応してるからもう勝敗は決まってるよ」

「そんな暴論」

「はい論破」

「……そうですね」


はあ、と俺は息を吐く。この論争を続けても意味は生まれないだろう。


「とんぼの家ってどこなの?」


 議論に勝利し、ニコニコとした顔のまま少女が訊いてくる。

 少女に合わせて立ち止まり、俺は周囲を見渡す。ここはどこだ。


「……大丈夫?」


 額に汗がにじむ。夏まっさかり、という季節ではないはずなのに、全身が熱気を訴えてくる。じんわりと熱が伝わってくる。その熱は脳内を侵食していく。


「つい私についてきてしまった結果、未知の場所にきてしまったとんぼ、といった感じ?」

「……あなたがぐるぐるとしましたからね」

「ぐちぐち言わない! うざいよ?」


 ちょっとイラッとしたけど、確かに正論だ。反省しておこう。そして、どうやって帰ればいいのか。


「それでは、グッバイです」

「そこはシーユーじゃない?」

「英語は得意なので」


 勝った。これは完全に返しきれた。少女も一瞬息を詰まらせた。

 俺は少女に背を向ける。堂々と、優雅に歩みを進める。

 今宵の宴はここまで。終わりよければすべてよし。すっきりとした気分で終わることができてよかった。


「とんぼ、道、わかるの?」


 迷子の自分には勝てませんでした。

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