第一話
私はもう長くないらしい。
さっき病室のドアから聞こえたのだ。先生が淡々と私の病気の進行具合を話す声と、それを聞いて母がしゃくり上げる声を。二人とも、私が中から聞いている事も知らずに。
私の病気は手術をすれば治るものだ。しかし手術をするとなると、莫大な費用がかかる。大金をすぐに用意出来るほど、私の家は裕福ではなかった。
手術をしなければあと三ヶ月の命。命尽きるまで私は病室のベッドに縛られ、たくさんの管を体に付けて日々を過ごす事になる。そして病気に悶え苦しみながら死んでいくのだ。
この命も薬と点滴で延命しているに過ぎない。死ぬのを先延ばしにしている、ただそれだけだ。生きていたって苦しいだけなのに。どうせ死ぬのなら、延命治療なんて今すぐ止めてほしかった。
私は病室のベッドで、ぼんやりと先ほどの先生と母の会話を思い出していた。とうとう私は死ぬんだ。しかしその実感があまり沸いてこないというのが、率直な感想である。突然の事で理解が追いついていないだけなのか、それとも生きる事をもう諦めているのか……私はそのどちらの考えに当てはまるのだろうか。
布団を握りしめる。今着ている水色の入院着が恨めしい。死ぬという事が決まっているのなら、もう入院する必要もないのに。
「結衣……起きてるの?」
そんな事を考えていると、病室に母が入ってきた。目は若干腫れていて、顔色がなんだか優れない様子だった。無理もない、あんな話を聞いた後だ。
なんだかしわも増えた気がする。灰色のカーディガンを羽織り、青いジーンズを履いた母の姿は、以前よりもとても老けて見えた。五十代だから仕方のない事かもしれないが、以前のような明るさはなかった。
それでも私の前では明るく振る舞おうとし、ぎこちない笑顔を浮かべていた。見ていても痛々しいだけなのに。そんな演技する必要ないと言いたかった。
母は私に近付き声を掛ける。
「結衣、体の具合はどう? 昨日よりは良くなっているみたいね……」
「……うん。薬のおかげで、今はだいぶいいの……」
「そう……このままいい状態が続けば、外泊も許可されるかもしれないわね……母さん、結衣のピアノまた聞きたいわ……」
母は泣きそうな顔をしながらそう言った。それに釣られて私も泣きそうになる。
しかし二人は泣かなかった。きっと言わずとも、双方の想いは伝わっているだろう。もしかしたら母は、私がさっきの会話を聞いていた事に気付いているのかもしれない。
「一昨年……だっけ。結衣のピアノがコンクールで賞を取ったの。あの時の結衣、すごく嬉しそうにしてたわね……」
母は遠い目をしながらそう言った。私はその思い出話に黙って耳を傾ける事しか出来なかった。
「何度も何度も練習して……結衣の頑張りは母さん一番よく知ってたから……あの時、結衣よりも母さんの方がはしゃいでいたわね……でも嬉しかったんですもの。娘が晴れ舞台で、素晴らしい演奏をして、それを皆に賞賛されている事が……」
ピアノ。もう随分と弾いてない。今ではコンクールで弾いたあの曲も弾けなくなっているかもしれない。そんな思いが頭に浮かぶ。
私はずっと俯いていた。どうしても母と顔を合わせる事が出来なかった。
「結衣は……結衣は素晴らしいピアニストになれるわ……母さん保証する。だから病気に勝って、母さんに……またあのピアノの音色を……聞かせて欲しいの……」
――そんな事出来ないと、母さんが一番よく知ってるくせに。
残酷な事を母は口にする。きっと悪意はないのだろう。しかし母の発する言葉が容赦なく心を刺す。思い出話とか止めてほしい。この世に、生きる事に未練が残ってしまうではないか。
「…………母さん、もう私長くないのでしょう?」
意を決して尋ねてみる。重い沈黙が流れ、母は目を見開いてこちらを見ていた。しかし私はその目をあえて逸らし、窓に目を向ける。
窓の外から見える、葉を落とした木をなんとなく見ていた。もう綺麗な紅葉は見えない。空は灰色でお日様は見えなかった。
「結衣、もしかして……さっきの話聞いて……」
「自分でもわかるの。もうすぐ私は死ぬんだって。意識が飛んじゃったり熱で一日動けないなんて事、最近しょっちゅうだもの。だからね……覚悟してたんだ……」
母の目から涙が溢れる。私は必死に目を背けようとしたが、どうしても視界に入ってしまう。こんな母の姿を見たら、私まで泣きたくなる。
「母さん、私ね、苦しんで死にたくないの。痛いのは嫌なの。だからね、どうせ死ぬのなら楽に死にたい」
私の言葉が指すのは安楽死だ。薬で安らかに苦しまずに死ねる方法。ゆっくりと眠るように死んでいける、死にたいと思う人にとっては夢のような方法。
病気で苦しんだ分、せめて最期は苦しまないで死にたい。あの痛みに苦しみながら死ぬのは嫌だ。私は早く解放されて楽になりたい。
「結衣……! そんな、そんな悲しい事……」
「仕方ないんだよ、もう。潔く死ぬしかないの」
母は泣いていた。茶色の斜め掛けのバッグからハンカチを取りだし、目を覆う。私はそんな母を見るのに耐えられなくて、目を逸らし続けた。母の顔を見たら、自分まで泣いてしまいそうだったから。
私は母の前では泣かない、そう心に決めていた。泣いてもどうしようもないのだから。それに、親の前でみっともない姿を見せたくないという思いもあった。
こんな時くらい母に弱さを見せてもいいのに。しかし自分の中の意地の悪いプライドがそれを邪魔した。
その日は母とたくさん話をした。相変わらず母は涙を溢し、私は目線を窓に向けたりベッドに向けたりしていたが。それでも母と話しているだけで、気持ちが少し落ち着いた気がする。
夜になると母は帰り、私は病室に一人取り残された。私以外に誰もいない、閑散とした真っ白な部屋。
そこで私は静かに泣いた。誰にも気付かれぬよう、声を圧し殺して。自分の弱い部分を母に打ち明けられたらどんなに楽だろう。でも私はそうしなかった。そう出来なかった。私の中に後悔の念が残る。
その夜は泣いて過ごした。
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