第二話

 次の日の事、少しやつれた母が病室にやって来た。服装は昨日と同じだ。それに違和感を覚えたが、そんな違和感なんて母が発した言葉で掻き消されてしまった。


「結衣……生命バンクって知ってる?」


 聞き慣れない言葉に私は少し戸惑う。重々しい雰囲気を醸し出す母は、何をこれから私に話し出すのだろう。そんな思いから少し身構えてしまう。


「何それ……? ドナーバンクみたいなもの?」

「その銀行では命のやり取りをしていると聞いたの。寿命を貸し出したり、借りたり出来るんだって……」


 私の問いに母はそう答えた。

 寿命を貸し出す? 寿命を借りる? 母は何を言っているのだろう。


「か、母さん、そんな事本当に信じてるの?」

「そこで寿命を借りる事が出来たら、結衣は死なずに済むのよ。生きて、ピアニストになる夢を叶える事が出来るのよ」


 私は母の言っている事が理解出来ない。目を見開き、歪んだ表情で母を見る事しか出来なかった。

 母は気でも狂ってしまったのだろうか。そんな話信じられるわけがない。そもそも現実的にありえない。寿命の貸し借りなんて。

 それでも母の目は真剣な色を帯びていた。


「正気に戻って。そんな話でたらめだよ」

「ほら、見て。銀行のパンフレットをもらってきたの」


 母はこちらの言う事に耳を貸そうともしない。斜め掛けのバッグから一冊の冊子を取り出す。

 生命バンク。いかにも怪しそうな宗教団体のパンフレットに見えた。母はこれを何処からもらってきたのだろう。


「ねえ母さん。命の貸し借りなんて出来るわけないでしょ? そんなのに騙されちゃダメだよ」

「お金は一切必要ないんだって。ほら、ここにも書いてある」


 母は、詳しい内容が書かれているページを開いて私に見せた。

 そこには確かにお金が必要ないと書かれている。しかし胡散臭さを拭う事は出来なかった。逆にますます胡散臭さを漂わせるだけだ。

「……こんなの、こんなのあるわけ……」

 私のその言葉を母が遮る。 

「結衣。さっき主治医の先生から聞いたんだけど、一週間後に外泊許可が出るらしいの」

「え? なんでいきなり?」

「それは……」

 ああ……そういう事か。私は母の言葉を聞かずとも、その理由がわかった。

 これが最初で最後の外泊許可だろう。家に帰れるのはこの機会が最後。そして私はもう二度と家には帰れない。それほど病気の進行具合が悪いという事だ。


「結衣、一週間後にここ行ってみない?」

「そんな怪しいとこに行きたくないよ」

「でも、結衣の体が良くなるかもしれないのよ?」

 母は意地でも引かないようだ。

「ね? 結衣は三ヶ月後に死なずに済むのよ? 生きられるのよ? どうしてそんなに躊躇うの?」

 私に差し迫る母。その表情には少し狂気を感じる。母が怖い、初めてそう思った。目の前にいる人は、本当に私の母なのだろうか。別人ではないのか。母そっくりの偽物ではないのか。そんな風に疑ってしまう。

 その狂気に圧倒されてしまい、私はこう答えてしまった。


「わ、わかった……行ってみるよ……」

 

 その言葉で、母の表情が一気に明るくなった。目を輝かせてこう言う。

「じゃあパンフレットここに置いていくわね。母さんまたこれから仕事だからもう行かないと。じゃあね、結衣」


 そう言って母は、慌ただしく病室を出ていった。

 ベッドに置かれたパンフレットを見つめる。こんなの絶対信じるものか、とその冊子に対する嫌悪感を隠せなかった。

 手を伸ばしパンフレットを手に取る。黒い表紙、そこに書かれた『生命バンク』という文字。そして『今、“死にたい”と思う貴方、“生きたい”と思う貴方。苦しみに苛まれているのなら、是非当銀行をご利用下さい。当銀行“生命バンク”は、貴方のご利用をお待ちしております。』と書かれている。

 絶対こんなの嘘だ。そう思いながら一枚ページをめくる。


 パンフレットの内容は大体こんな感じだった。

 まず一つ。この銀行は命の貸し借りが出来るという事。そして限られた人しか貸し借りが出来ないという事。次に寿命を借りた場合、来世の寿命で借りた分を返済するという事。また借りた場合、いかなる理由があってもその命を不意にしてはいけないという事……そんな事が書かれてあった。

 こんなの絶対に詐欺か何かだろう。お金は一切必要ないと書かれていても、その言葉を信じる要素がどこにある。


 ――でも。もし本当にこんな銀行があるのなら……


 ダメだ。こんな信用出来ない団体に縋っちゃ。向こうの思うツボだ。こんなのあるわけないのだから。

 私は意思を強く持たなくてはならない。一週間後、向こうに上手く丸め込まれないためにも。こんな風に気持ちが揺らいだままだったら、母と同様に騙されてしまうだろう。しかし……


 その日は、母が置いていったパンフレットをずっと読んでいた。こんなの真剣に読んだら負けだ。そう思いつつも、手を止める事は出来なかった。

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