きみというひと

櫻井雪

きみというひと

「井沢歩が死んだ」

 その言葉は一瞬で校内に広まった。どこからその情報が漏れたのかは分からない。本来ならば、放課後に全校集会が開かれ、そこで伝えられるはずだった。しかし、その集会が開かれるまでもなく、「井沢歩が死んだ」はその日のビッグニュースとして知れ渡っていたのだ。

 井沢歩とは、高校二年生の女子生徒。みんなの人気者で、僕のガールフレンドだった。

 昨日、僕と彼女は一緒に下校している。その時はたしかに彼女は生きていた。帰り道に交通事故にでもあったのか、それとも襲われたのか。いや、そもそも「井沢歩が死んだ」というのは本当なのか。

「おい、秀人......大丈夫か?」

 呆然とする僕を見て、友人が声をかけてきた。井沢歩は僕のガールフレンドだから、彼が僕を心配するのも無理はない。

「うん、ごめん......ちょっと一人にさせて」

 僕がそう言うと、彼は「悪かった」と眉を下げて去っていった。

 ガールフレンドを失った可哀想な僕。僕は、上手く演じられただろうか?


 結論から言うと、「井沢歩が死んだ」という情報はたしかだった。彼女は僕と別れたあとに、線路から出られなくなった老人を助けようとして亡くなったらしい。彼女らしい死に方だ。

 噂が広まった次の日、僕たちの学校の生徒は、全員で彼女の葬儀に参列した。彼女は友だちが沢山いたから、会場は泣いている人ばかりだ。女子生徒だけでなく、男子生徒まで涙を流している。好かれる人だったから、なにもおかしいことはない。

 僕はお焼香の時に、棺に入った彼女を見た。電車に轢かれて亡くなったからか、体から顔にかけて大きな布がかけられている。残念だ、最後に顔を見ることもできないなんて。

「本日は歩のためにお集まりいただき、ありがとうございます。あの子もきっと天国で喜んでいます......」

 彼女の父親がそう言うと、周りの人々は次々に涙を流した。僕もそれに合わせてハンカチを目元に当てる。

「あの子はとても良い子でした。『みんなのために生きることのできる人になりなさい』という言いつけを守って、最後の最後まで......」

 そこまで言って、彼女の父親は堪えきれなくなったように涙を流した。嗚咽を噛み殺しながら、震える声で「みなさん、ありがとうございました」と締めくくる。

 葬儀の帰り道、みんなは一言も喋らなかった。もちろん僕もハンカチを握りしめたまま、なにも言わないで歩いていく。

 駅までの道路沿いは交通量が多い。歩道橋から流れるように走る車を見て、思わずここから飛び降りるやつでも出るんじゃないかと思った。それくらい、彼女はみんなにとって特別な存在だったのだ。

 井沢歩を一言で表すなら『良い子』。とても頭が良く、他人の気持ちが分かる少女だった。困っている人を見れば助けずにはいられない性分らしく、「階段で困っているおばあさんがいたから」「風船を失くした子がいたから」「道に迷っている人がいたから」という理由でしょっちゅう学校を遅刻していた。彼女が書いた反省文は十万字にものぼる。

 彼女の一番凄いところは、それを素でやってしまうところだ。普通の人間なら、自分がした善に対して何かしら見返りを求めるものである。しかし、彼女は二十万円が入った財布を交番に届けても、落とし主から礼金を一円たりとももらうことはなかった。

 付き合って分かったことだが、彼女はどこまでも純粋に「他人のためになりたい」という意識で動いている。正直に言えば理解不能、同じ人間とは思えない人だ。しかし、そんなところが周囲の人々を惹きつける。井沢歩はみんなに愛される人間だった。

 僕はそんな彼女をお手本としていた。『愛されるべき人間』になるために、彼女を追いかけていたのだ。

 僕を一言で表すなら『空っぽ』。自分でもよく分からないが、我というものがない人間らしい。僕は常に誰かをまねることで生きてきた。誰からも愛される自分を目指して、ただひたすらに理想を追い求めていた。

 その理想を叶えるためのお手本は、もう崩れてしまったのだけれど。


 東京都世田谷区。そこに彼女の墓はあった。ボーイフレンドだった僕は、葬式の後に呼び出され、墓の場所を教えられた。「どうかお墓参りをしてほしい」と懇願されてしまえば、断る手立てはない。僕は花を持ちながら、『井沢家』と書かれた墓石の前に立っていた。

「......こんにちは」

 返事が返ってくるわけでもないが、僕はとりあえずそう呟いてみた。ここに彼女の骨があるのだと考えると、なんだか妙な気分になる。

 菊やら金仙花やらを墓前において、僕は墓石を眺めた。

「一応来てみたけど、きみはこんなことされて嬉しいのかな?」

 しん、と沈黙が流れる。当たり前だ、ここには僕の他に誰もいない。平日の昼間だから、しばらくは誰もやってこないだろう。

「きみは僕の『お手本』だったんだよ。それなのに死んじゃって......これからどうすればいいのさ」

 すでに死んでしまったというのに僕に文句なんて言われて。彼女も可哀想な人だ。

「もしかして、気づいてたかな? 聡明なきみのことだし、まあ、きっと気づいてたんだろうね。僕が可哀想だから、きみは僕と付き合ったんだ」

 井沢歩は困っている人を助けずにはいられない性分だった。中学へ入学した直後、かつてお手本としていた母が亡くなり、困っている僕に寄り添ったのは彼女だった。

「きみが亡くなってから、毎日がお通夜だよ。先生たちも暗い顔してさ」

 彼女が亡くなってからは、生徒だけでなく、教師らも明らかに落ち込んだ様子を見せていた。それもそうだ。彼女より優秀な生徒はいなかったのだから。

「きみの後追い自殺をするやつも出てくるんじゃないかって、そんなことまで言われてるんだよ」

 おおげさな話だ。自分が好きだった人が死んだからといって、その後を追うなんて理解できない。

「それに......きみは僕なんかと最後まで一緒にいて良かったの? 家族とか、友だちとかと一緒にいたかったんじゃなかったの?」

 僕と彼女は毎日一緒に下校していた。駆け寄ってくるクラスメイトを「ごめんね、秀人くんと帰るから」と断っていたのは、いつも彼女だった。僕はそれを横目で見ながら、良い人もすぎる、と思ったことを覚えている。

「きみは僕のことを好きだと言ったけど......それも同情からだよね」

「私、秀人くんが好き」と告げられたのは、中学三年生のころだった。二人とも同じ高校への進学が決まってからすぐのことだ。頬をわずかに赤らめた彼女は、僕を上目遣いに見上げる。少し戸惑いながら了承したことを思い出した。

「馬鹿だな、同情なんかで僕と付き合うなんて。もう死んじゃったからやり直すこともできないんだよ?」

 本当に彼女は僕にはもったいない人間だった。『お手本』にするためだけに僕は彼女と付き合っていたし、彼女は僕を憐れんで付き合っていた。なんて歪な関係だろう。もし彼女が僕と関わらなければ、こんなにも早い死を迎えることもなかっただろうに。

「きみのことは嫌いじゃなかった。......どちらかといえば好きだったかもしれない。こんな『空っぽ』の僕に言われても、嬉しくもなんともないだろうけどね」

 彼女は最後までなにも言わなかった。きっと彼女は僕が全てを偽っている『空っぽ』な人間だと分かっていた。でも、それを理解しながらもなにも言わなかったのだ。僕がそれを望んでいたから。

「今でも全然涙が出てこないんだ。薄情な人間だね。本当に」

 僕はきみが死んで悲しい、悲しいよ、多分。周りの人間と同じように涙を流すことはないけれど、きっと、おそらく、悲しいんだ。

「『お手本』のきみがいなくなったから......僕は一人で生きていかなきゃなくなった。大変だ、どんな困難が待っているんだろうね」

 僕は墓前に置いてあった花を持って、立ち上がった。改めて『井沢家』という文字を見つめてみても、涙は出てこない。しょうがない、これが僕だから。

「じゃあ、またね」

 僕はそれだけ言って、一人の帰り道を歩き出した。

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きみというひと 櫻井雪 @sakuraiyuki

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