わし87歳、異世界に行く
いんびじ
前編
原因なんて無い、老衰である。
87歳まで生きた体は、ただ生きることですら荷が重い。
「……お父さん」
誰の声だろうか。
最後の力を振り絞り、重い瞼を開ける。
無機質な白い天井に、管が刺さっている自分の腕。左手は娘に両手で固く握られていた。
ベッドに横たわる自分の周りで、もう立派な大人に成長した息子や娘、孫たちが心配そうな顔をしている。
ははっ、弟子たちもおるわい。
誰かに見取られながら死ぬ。
それだけで、自分は何て恵まれているのだ、と思う。
ああ、振り返ってみると色々大変な事もあったが。
――良い人生じゃった。
「……!? お父さん!? しっかりして!! お父さん!!」
「おい、……もうやめろ。ははっ、笑顔でむこうに行っちまいやがって……なあ親父」
その日。
この世界からまた一つ、命の灯火が消えた。
*
「はい、じゃあこの紙に必要事項を書いて下さいね」
「いやもう少し詳しく説明してくれんかの」
目が覚めると、わしは雲の上にいた。
ここが天国か、畳の方が雲より居心地が良いのお、と思ってぶらぶら歩いていると、白い翼が生えた可愛らしい女の子と出会った。
いわゆる天使というやつだ。
天使はわしを見つけるや否や、近寄ってきて何やら紙を渡してきたのだ。
はあどれどれ――来世出願票?
なんじゃこれ?
「ここは来世を決める場所です。そしてそれは来世出願票。名前の通り、あなたの来世をその紙で決めることができます。主にまた同じ世界で人生をやり直すルート、天国に行ってのほほんと暮らすルートに、異世界に転生するルートがあります。さあどれでもどうぞ!」
「さっぱりなんじゃが」
返事を聞いた天使が肩をがっくりと落とす。
もうちょい年寄りにも分かるように説明してくれんかの。いっぺんに言われると頭の中がこんがらがってしもうて。
「うーん、地球で生まれ変わりたいか、天国行きたいか、例えば魔法とかバーッ!って飛び交う別の世界で生まれ変わりたいか、どれですか? ってことです。あなたの望みは何ですか?」
天使がさっきよりは分かりやすく説明してくれた。ありがたい。
特に最後の台詞が分かりやすい。
望み、望みか……。
「死んだ妻に、会いたいかの……」
「えっ?」
妻の
ある日重度のガンに侵されていたことが発覚し、運悪くその日の内にぽっくりとわしを置いていきよった。
……ああ、くそ。
「いやいやいや。ご自身が亡くなった原因思い出して下さい、老衰ですよ老衰。今ここでは平気ですけど、また転生してもお体はもう……」
「妻に会いたいのお」
「ううっ」
返事を聞いた天使は、しばし考え込む。
やがてため息をつくと。
「……分かりました。本人がそう言うのであれば仕方ありません。奥さんについて教えてくれませんか? もう生まれ変わっている可能性が高いと思いますが、今どこで何しているか調べますので」
天使らしい可愛い笑顔でそう言った。
*
あの後どこかへ消えていった天使が、大きい本を持って帰ってきた。
「ただいま戻りました! この本は今まで亡くなった人達の来世が記録された本です、ちょっと待っていて下さい」
「おーそりゃあすごい本じゃあ」
天使は雲の上に本を置き、ペラペラとめくり始める。
わしの両親の来世がどうなっているのかも後で聞いてみようかの。
「えー奥さんの千恵子さんの来世は、と……あ、ありました。……はあ!?」
天使が急に素っ頓狂な声を上げた。
年寄りの近くで大声を出すでないわ、耳に響く。
「どうしたんじゃ、千恵子はどこにおる?」
「……ち、千恵子さんは人間と魔族が戦争している世界『アミブズラ』で」
「――現在魔王討伐をやっています」
「はあッッッ!?」
自分の大声で耳が痛くなった。
*
「いいですか。あなたの体はもうボロボロで、本来なら現世についた途端死にますが、私の力で五分だけ自由に動けるようにしました。いいですか五分ですよ」
衝撃の告白から少し時間が経った後。
天使がわしの娘みたいに念入りに釘を刺して説明してくる。
「はいはい分かったけえ分かったけえ」
「本当ですか? ……じゃあ今から魔王の部屋へ直接転生させます。準備は良いですか?」
わしの周囲に変な模様の光が出てくる。
……あ、忘れておった。
「なあお主、名は何と言う?」
「私の名前ですか? 私はレデンヤ・アルクィエルです。ほらもう行きますよ」
名前がごちゃごちゃして何と言ったのかさっぱり分からん。
「あー、レなんちゃら。……ありがとう」
天使はそれを聞いて少し驚くと。
「いいえ、礼には及びません。では、ご武運を祈っています」
わしは体が浮く不思議な感覚に包み込まれた。
そして視界は暗転し、意識は世界を越える。
「……この仕事をして、憎まれ口はあれど、感謝の言葉なんて初めてです。もう」
一人残った少女は、そう呟いて微笑んだ。
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