第2話 罅割れる日々。(5)

 5.

 食器を返却口に戻して食堂から出ると表は初夏の日差しであふれていた。


「……暑い」


 雲一つない晴れやかな空を眺めながら浮かない顔の透哉は一人感想を述べる。

 突如逃げるように退出したホタルの行動に今一つ納得がいかないからだ。

 思い当たる理由はない。

 むしろあの場から逃げ出したかったのは透哉の方なのだ。まるで自分には見えない何かに怯えている、透哉の目にはそう写った。


(幽霊でも見たか……まさかな)


 下らない発想を自嘲する。

 幽霊はともかく、あの場には自分とホタルしかいなかったのだから。

 不調を訴えるホタルの所在を気にしつつ、同時に詰問から逃れられたことに安堵する。

 自分を食堂におびき出し何らかの策にはめようとしたことは明白だったが『今は』まだクラスメイトとして身を案じる。


『お兄様~! こんなところにいらっしゃったのですね!』


 渡り廊下の真下に差し掛かったところで声が上から降ってきた。

 声の方を見上げると二階の渡り廊下の手すりから身を乗り出した野ノ乃が小さな手をぶんぶん振っていた。


「めんどくせぇ、教室で寝るか」


 透哉はプイと顔を背け、歩幅を広げその場を立ち去ろうとした。


「今すぐそちらに参りますわ!」


 嫌な予感を察知した時にはすでに遅かった。満面の笑みを浮かべた野ノ乃は渡り廊下の手摺を何の躊躇もなく飛び越え、飼い主に飛びつく犬のような勢いで透哉目がけて落下してきた。


「なっ!」


 透哉は驚きつつもあることに気づき反射的に顔を背けた。それは野ノ乃の突拍子もない行動にではなく、無防備にはためくスカートに背徳感を覚えたからである。


「さすがお兄様。紳士ですわ」


 華麗に着地した野ノ乃は明後日の方に顔を向けた透哉の姿を見て嬉しそうに告げた。


「そんなんじゃねよ。きたねぇもん見せんな」

「まぁ、お兄様ったら照れているのですね?」


 実は見えてしまった手前、野ノ乃の真っ直ぐな眼差しが痛い。このまま黙っていようか、いや正直に言った方がいいだろうかと透哉の中で善と悪の攻防が続く。


「でもお兄様でしたらあたしはいつでもオッケーですわ」


 野ノ乃は頬を朱に染め、身悶えした後、スカートの裾を軽く摘まみながら柔和な笑みを浮かべる。一体、何がオッケーなのか、そんな疑問を抱く。

 本当になんでここまで好かれているのか、相変わらずわからなかった。


「それでは、いざ!」

「すぐ抱き付こうとするな! それより、おめぇ、連れがいるんじゃねーか?」


 透哉は人目を憚らず突進する野ノ乃を制し、渡り廊下を示す。そこには完全に置いてけぼりを食った野ノ乃の友人と思しき女子生徒がこちらをきょとんした顔で見下ろしていた。


「そうでしたわ!」


 はっと気づき、上空を仰ぎ見ると(やはり人目を憚らず)声を張り上げた。


「寧々音ー! あたしは野暮用ができましたのでこれで失礼しますわー!」


 野ノ乃に理解があるのか、寧々音と呼ばれた少女はやれやれと言った様子で肩を竦めるとそのまま校舎の中に入っていった。


「それはさておき、食堂からの帰りですの?」

「ああそうだ。そして、お前は今からでもさっきの奴のところに帰れ」


 当然のようについてくる野ノ乃は何かに気付いたのかしきりに辺りを嗅ぎ始めた。


「いやですわ。それにしてもお兄様から嫌な臭いがしますわ」

「嫌な臭い? さっきウンコ漏らしたからそのせいだろ」

「そんないいものではありませんわ。あえて言うならホタル臭? そうですわ、お兄様の体からホタルさんの臭いがしますわ!」


 なんだホタル臭って。

 隠すと余計に面倒なことに発展しそうなので昼休みの出来事(主にホタルと昼食を一緒に摂ったこと)を正直に話すことにした。


「――づぉ!? なんですって!? それは本当なんですかお兄様!?」

「ああ、確かに昼は源と一緒に食ったけど……野ノ乃?」


 それを聞くや否や、野ノ乃は驚きをあらわにして透哉に詰め寄る。

 余程衝撃的だったのか野ノ乃は軽く白目を剥いて固まっていた。


「――憎いですわ! その時教室でサンドイッチをかじっていた自分が!」


 しかし、たちどころに復帰するとホタルへの羨望と嫉妬で炎上する。主観的には落ち込んでいるのだろが、周囲の人間には到底そうは見えない。


「で、そのお邪魔虫はどちらに?」

「源のことか? だったら気分が優れないとかで先に出て行ったぞ」

「そうですか。それは天罰ですわね」


 なんかものすごい私怨を燃やしながら、ふふんと胸を張る。

 実はホタルと野ノ乃の不仲さは学園内では有名である。

 一見接点のない二人だが、野ノ乃も生徒会のメンバーなのだ。役職に就かない構成員ではあるが今年度の新入生の中では優秀な部類に入る。本人望まぬまま生徒会に籍を置いた就任当日、初対面のホタルと一悶着起こし今に至る。

 主に突っかかっていくのは野ノ乃だが、それに対して引くことを知らないホタル。互いに望んで対立しているわけではない(と思われる)が対面すると激突必死なのである。


「とは言え、あのホタルさんが体調不良……恐らく生理ですわね」

「ぶっ」

「そうでなければ食い過ぎでゲロでも吐いているのですわ」

「お前も一応、女なんだから言葉遣い考えろよ」


 例え野ノ乃が可愛らしい後輩の皮をかぶった変態ストーカーでも一応は、一応は女の子なわけだから透哉としては余り下品な言葉を連発してほしくない。


「はっ! つ、つつつまりですわ! 今あたしはお兄様と二人っきり! げぼぉ!?」

「人の話を聞けよ! ったく……どうした?」


 今の今まで宝石を見るような目で自分を見ていた野ノ乃が台所でゴキブリでも見つけたような顔で上空を仰ぎ見ていた。

 何だろう? 透哉が思ったまさにそのときだった。


『うっひゃひゃひゃぁあぁぁあぁあ~!!!』


 上空からその奇声が聞こえてきたのは。その場にいた誰もが声のした方を見上げ、聞きなれた声に耳を傾けた。

 視線の先には屋上から落下してくる直径二メートルを超える巨大な紅の塊。

 塊の輪郭からは陽炎が立ち、周囲の景色をゆらゆらと揺らす。それが凄まじい熱量を持っていることは容易に想像できた。小型の太陽と言って何の遜色もない。

 そして、その小型太陽は透哉と野ノ乃の眼前に着弾した。

 瞬間、小型太陽は形を大きく変形させ、爆風と熱の衝撃波となって間もなく風船のようにはじけ飛んだ。

 校舎の窓ガラスはガタガタと大きく振動し、木々は激しくざわめく。

 爆心地の間近にいた透哉たちは手慣れた調子でその熱風をやり過ごすと衝撃波の中心にたたずむ七奈豪々吾の方に向き直る。


「うへはははぁ!! こんなところにいやがったかぁ!?」


 豪々吾は周囲への迷惑など全く気にかけず、まるで現世に蘇った恐竜のように轟々とした雄叫びを上げる。

 自身が発する熱気で金髪は獅子のたてがみのように逆立ち、周囲の草木も上昇気流に沿って縦に泳ぐ。豪々吾は獰猛に見開かれた目で透哉を捉えると口元に歪な笑みを浮かべた。


「人違いだ。他を当たってくれ」


 透哉はたまたまポケットに入っていた鼻眼鏡(髭付き)を装着すると他人の振りをする。


「クソ兄貴は放っておいてあたしたちは校舎裏にでも……っ! お兄様がいつの間にか見知らぬヒゲメガネに!? 本物のお兄様はどこに行ってしまいましたの!?」

(こいつ馬鹿だ)

「さぁ、ブラザー今朝のリターンマッチだ! って、どこに行きやがった!? たった今までここに……おい、ヒゲメガネ、ブラザーを知らねぇか!?」

(こいつら馬鹿だ)


 なんだか罪悪感が込み上げてきたので鼻眼鏡(髭付き)を外す。


「お兄様いつからそこに!?」

「もう逃がさねぇぜ!?」


 揃って愉快な七奈兄妹である。


「とにもかくにも、ブラザー! 今日こそお前に勝って学園最強の座、奪還させてもらうぜ!」


 豪々吾は高らかに宣言すると哄笑した。

 今から一年前。

 当時二年生だった七奈豪々吾は絵にかいたような不良学生だった。生徒たちは愚か教師に至るまで学園内の誰もが恐れていた。

 理由は単純。その喧嘩っ早さに起因した度重なる暴動の数々。入学して間もないときから誰彼構わずいちゃもんをつけまくり、二年生に進級した時には学園最強最悪と謳われていた。

 そして、迎えた新入生の入学式の日。

 その日からと言うもの豪々吾は強そうな一年を見るや否やなりふり構わず喧嘩を吹っ掛け、学園最強の看板をより堅固で確実なものにすることに奔走していた。

 向かってくる者を蹴散らし、気に入らない者を排撃し、一世を築いていた豪々吾の黄金期。

 夜ノ島学園の頂点に名実ともに君臨する、その野望を成就させることが学園内における豪々吾のアイデンティティーだった。

 しかし、その悲願の間際になって豪々吾は二人の一年生と激突した。

一人目は御波透哉。


『ひゃっはー! ここを通って食堂に行きたければ俺様を倒してからにしな!』

ドカンバキンボコン。

『ぐ、まさかこの俺が負けるとは!?――お、覚えてろよ!?』


 業炎を纏い襲い掛かってきた豪々吾を透哉は素手で殴り飛ばし、いとも容易く撃退した。

 二人目は源ホタル。


『ひゃっはー! ここを通って女子便所に行きたければ俺様を倒してからにしな!』

 ビリビリチュドーン。


 同様にホタルを強襲した豪々吾は羞恥で顔を染めるホタルに校舎の外壁ごと吹き飛ばされた。

 この二度の大敗で校内最強だった豪々吾の立場は新入生にボコボコにされる雑魚キャラにまで陥落した。

 逆に透哉は問題児として周囲から意図せず恐れられ、ホタルは悪を撃退する戦乙女として広く憧憬を向けられることとなった。

 行いが同じでも周囲の認識と評に差が生まれたのは男女の扱いの違いだろう。

 以来豪々吾の矛先は大敗の原因である透哉とホタルに絞られ、無意味な下級生へのいちゃもんはなくなった。

 そして、今日も王者奪還を目論む豪々吾の雪辱戦の日々は連戦連敗と言う形で繰り返されている。


「とりあえずもう少し静かに現れてくれ」


 豪々吾の派手な登場が原因で周囲には人だかりができ始めている。


「うっははは! 騒がせちまったかぁ!? だがよー、最っ強を求める俺様にふさわしい登場の仕方だろぉ!? そうだろ? ブラザー!?」


 関わらずにやり過ごすため明後日の方向を眺めていた透哉に熱く同意を求める。


「ああ、俺もそう思うよ。すごくかっこいい。そして、ブラザー言うな」


 透哉は半眼を作り、面倒な先輩を睨む。


「へへ、照れるじゃねぇか」


 豪々吾は透哉の皮肉を素直に受け止め、鼻をかき、再度宣言する。


「我が宿敵、御波透哉! 今日こそお前をギャフンと言わせて学園最っ強の座を頂くぜぇ!?」

「いつも言っているが俺はそんなものに興味はない。学園最強を名乗りたければ好きに名乗ればいいだろ?」


 透哉は豪々吾の熱意をさらっと受け流し、言葉通り興味なさそうに言い返した。額面通り透哉は最強の座に興味はないし、豪々吾の喧嘩に興じているのも向かってくるから迎撃している程度の認識でしかない。


「ふっざけんじゃねぇ! 最っ強の称号はよぉ!? 与えられもんじゃなくて奪い取るもんなんだよ!!」


 透哉の素っ気ない態度に豪々吾は怒気を孕んだ声を上げ、地団太を踏んだ。その地団太さえも熱を持ち、周囲を揺らす。


「相変わらず人の話を聞かないな……」


 透哉はこめかみを指で押さえ、困ったように唸る。

 けれど、豪々吾を前にして臆する気配はない。じゃれついてくる犬をあしらうような余裕さえ見受けられる。


「俺様を敵に回したことを今日こそ後悔させてやるぜ! エーンチャァーント!!」


 豪々吾は言い終えると手の中の魔力を滾らせ、炎を顕現させる。


「兄妹そろってめんどくせぇな……ん?」


 透哉は緊張感なく呟き、気付いた。兄である豪々吾が現れて以降一言も喋っていない野ノ乃が静かに動き始めていることに。


「おお?」


 すたすたと肩で風を切って歩く野ノ乃は強張った表情で豪々吾に近付き……


「……妹の恋路を邪魔するな! クソ兄貴がぁあぁぁぁ!!!」


 豪々吾の襟首を掴むと、そのまま強引に引き寄せ豪快に投げ飛ばした。

 この予想外の展開に透哉は呆気に取られた様子で口をポカンと開く。


「……あー」


 いくら腕力を魔力で向上させているとはいえ、自分より一回りは大きい豪々吾を片手で放り投げる様はシュールの一言である。


「げっえぇふぅうぅぅう!?」


 投げ飛ばされた豪々吾は緩やかな放物線を描いた後、実習棟正面のごみ捨て場に頭から着地した。


「全く、バカな兄を持つと妹は苦労します」


 兄豪々吾の断末魔を背に、野ノ乃は軽く肩を回しながら再び透哉に向き合う。


「さて、お兄様、これで今度こそ二人きり……ん? どうかしましたか?」

「あーあ、やっちまった……」


 透哉がくたびれた声で言う。


「やっちまいたいだなんて……お兄様意外に大胆ですわねっ」

「冗談言っている場合かよ。このままで済むと思うのか?」


 野ノ乃の冗談には付き合わず、透哉は恐る恐る豪々吾の方を見る。


「人の恋路を邪魔する輩への制裁ですわ」

「オメェの言い分も分かるが向こうにも事情ってもんがあるだろ」


 野ノ乃が自分に向ける恋と呼ぶには汚れた感情はさておき、決闘を邪魔された豪々吾がこのまま引き下がると考えられない。


「別に構いませんわ。ともかく場所を移しましょう」


 けれど、透哉を引き連れ去ろうとする野ノ乃を豪々吾の怒声が引き止める。

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