『追憶』
――怖かった。
恐怖を拭い去りたかっただけだ。
赤い手、握られた透明の刀。
黒い煙、狭間から覗く灰色の空。
「う、あ……え、い……っ」
震えが止まらない。
犯した罪の重さに耐えかね両手が小刻みに震えている。
真実を疑うように手を見下ろしても赤い事実は覆らない。
無色の凶刃を伝う血潮が滴り、赤い波紋となって広がる。
しかし、これはほんの予兆。
この瞬間に始まってしまった。
惨状を目撃した誰かの悲鳴が響く。
一つの悲鳴が二人を惑わし、
二人の当惑が、四人を狂わせる。
混乱の波は瞬く間に一帯を飲み込み収拾のつかない殺戮への幕開けとなった。
かつて自分がいたウソのような現実。
少年は膝を抱えて空を見上げていた。
折り重なったコンクリートの隙間から覗く三角形の空は今にも落ちてきそうなほど黒く澱んでいる。
今日は快晴のはずだったが火災による黒煙と巻き上がった砂埃が厚い層をなして太陽を覆い隠していた。
身を潜めていた瓦礫の隙間から這い出ると熱風が頬を打つ。手の甲で擦ると煤で黒く汚れ、焦げた臭いと鉄錆の臭いがした。
少年は眉を顰めながら色のない瞳で周囲を見回し、足元から響いた水音に視線を転じる。乾く間際のその液体は異様な粘度で靴の裏に張り付き、赤い糸を引く。
実年齢より十歳は老けた顔でため息を漏らす。
最早誰のものか分からないまま引きはがし、今日一日で慣れてしまった臭いに今更何を思うこともできなかった。
逃げることを最優先し、防戦に徹し、必要最小限の戦闘でこの場所に駆け込むことができた。炎と瓦礫の中を駆けるその途中でどれほどの犠牲者を出したかなんてことも今更考える意味がなかった。
「二十人くらいか……俺が悪いのかな?」
指を折って数えていた手を休めぽつりと漏らす。命の重みを理解できていない愚かな呟きだったが、それを窘める者はいない。それほどに今のこの場所は荒み切っていた。
「でも、しょうがないよな……みんなが襲ってくるんだから」
少年は正当防衛と言う言葉を知らなかったが、現状における少年の行動理由は全てこれに当てはまる。
けれど、自らの保身を言い訳に少年の中で何かが壊れようとしていた。
崩れ落ちた校舎の残骸が堆積し、ありとあらゆるものが本来の役目を失った世界で正常を維持することは不可能だった。
縋るべき秩序も崩壊し、頼りにするべき親や教師と言った大人連中はこの場にはいない。
そもそも誰がこの場所に学校が存在したと信じるのか。空襲を受けたと言っても疑われない惨状がその事実までも飲み込みかけていた。
屋上から崩れ落ちてきた昇降口は地面に突き刺さり、給水タンクは空き缶のように無造作に転がっている。階段や手摺が前衛芸術のように散乱しているがここは中庭だったはずだ。
そして、そのいずれもが赤か黒で化粧を施されていた。
コンクリートに焼けついた誰かの何かは鍋にこびり付いた油汚れのように爛れ、熱に炙られ血臭を発している。
少し前まで阿鼻叫喚を奏でていた彼らの中を彷徨い歩む。
余りの損壊の激しさに吐き気と涙が同時に溢れ、堪らず膝をついて吐き出した。
唐突に張りつめていた意識が途切れたせいだった。
「おえっ! か、かはぁっ――」
所詮慣れた気になっていただけで、現実を受け入れられずにいる。
まだ終わりではないと自分に言って聞かせ、奮い立たせ、膝に力を込め立ち上がる。
けれど、気配はもうそれほど残ってはいない。
口の中の胃液を出し切り、涙を拭う。目尻に煤で隈取ができた。
濛々と立ち込める煙の奥に石塊となった校舎が沈んでいた。
この学園が謎の襲撃を受けてから半日。
混乱に起因した生徒同士の無益な殺し合いが始まって約四時間。
特殊な事情を持つ生徒たちの人知を超えた能力が事の終息を不可能にしていた。
今となっては見る影もないがこの国立
火災や校舎の破損の被害の多くは暴徒と化した生徒たちの影響が強く、ほとんどが人知を超えたエンチャンターとしての力による被害だった。
どこかからか響いた悲鳴を皮切りに狂気と殺意が波紋となって広がって取り返しのつかないほど拡大していった。
まだ年端もいかぬ子ども同士の殺し合いは互いが泣きわめきながら行われた。
恐怖から逃れる手段として振るわれる暴力に抑えなど聞くはずもなく、未熟ながらも強烈な殺戮となって同郷の仲間を次々と打ち壊した。秘めた魔力の行使による生徒同士の争いは激化の一途を辿る他なかった。
本来社会的に忌避されるエンチャンターを教育、保護、管理するのが夜ノ島学園の存在意義である。
ところが謎の襲撃による正体不明のほころびが原因で拠り所であり、学び舎であるこの場所で事件は起こってしまった。
巻き起こった破壊は学園敷地内のほぼ全域に飛び火し、死屍累々を残しながら急速に鎮静化しつつあった。
少年が壊れて止まった壁の時計をぼんやりと眺めていると、火花が爆ぜる音に混ざって声が聞こえた。煙幕の向こうからしたそれは悲鳴とも奇声とも聞こえ、男女の区別も曖昧だった。
少し前まではあちこちで聞こえた生者たちの狂騒もすでに疎ら。
煙幕が不自然に揺れ、その中から焼け爛れたボロを纏った少女が身の丈ほどある鉄骨を振り上げ襲い掛かってきた。
「ぎっぎゃあぁ!」
言葉とは程遠い絶叫が少女の最後の言葉となる。
少年は自分に迫ってくる少女を無関心な目で見据え、手元に意識を集中して、
一振り。
少女は二つに裂けるとすでにこと切れた仲間のもとに落ちた。枯葉の山に枯葉を混ぜても見分けがつかないのと一緒で残骸に紛れ見分けがつかなくなった。
遅れて落ちてきた鉄骨が墓標のように地面に突き立つ。
羽虫を払うように人を殺したにもかかわらず何の感慨も覚えなくなっていた。
最早反射的に出る破壊は出来過ぎた防衛システムのような正確さだった。
同時に、殺人と思えないほど熱を欠いていた。
それほどに少年の精神は疲弊して擦り減ってしまっていた。
――初めは同体型の男子だった。
――次は下級生らしき女子だった。
――その次は、もう思い出せなかった。
最初の内は赤く塗れた手に震え上がった。
涙を流しながら謝罪の言葉が否応なく出た。
しかし、一振り二振り血を浴びるごと、一人二人と屍を重ねるごとに手の震えは収まり、殺戮は鮮麗されていった。
少年が手を振るうだけで肉が裂け、紅が咲いた。
身を守ることで必死だった。
迫る恐怖を払うだけだった。
しかし、少年はその過程で殺人に順応し、その力と才を開花させていった。
残り少ない生者たちが、一か所に集まり始める。彼らは引き寄せられるように出くわし、この場に残るに足る破壊をもって殺到する。
しかし、
「――、」
コンクリート片を担ぐ剛腕の男子生徒が、
手の中に炎を振りかざし猛る少女が、
瞬足の迫撃を見せる上級生が、
少年を前にあまりに無力に散っていく。
守勢のための刃は血を浴びすぎたせいで数多を屠る凶刃へと変貌していた。
自分を襲う者たちが消え失せたとき、少年は深紅の円の中にいた。
少年を中心に同心円状に広がった赤い飛沫が苛烈な花となって大輪を咲かせていた。
少年の力の権化である透明の刃は、血塗られることで形を現し、暗にその在り方を主張しているようにも見えた。
少年が軽く手を振ると血の残滓を空中に残しあっさりと刃は消え去った。
そして、終わりを告げるかのように雨が降り始めた。
浴びた血を洗い流し、その反面、罪をじっくりと浸透させるように少年の体に降り注いだ。
――どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
手首を伝う朱色の雨水を眺めながら他人事のように思っていた。逃避的に思考することで冷静になろうとしていた。
こうして冷静にものを考える余裕ができたのも、敵がいなくなったから。
辺りは閑散としていて人の声は聞こえない。
激しさを増す雨が火災の熱を冷まし、血を洗い流し、充満していた狂気を鎮めていく。
少年は生き残ってしまった。あるいは、取り残されてしまった。
降りしきる雨に紛れて声が響く。
「魔力を結晶化する能力か」
突然の声に少年は振り返り瓦礫の頂に立つ奇妙な姿を見た。
痩身に白衣を着たメガネの青年だ。
初めてみる顔だったが少年の脳は男が即座に人間ではないと理解した。
一見して医者に見える出立が崩壊の巷に目もくれず少年を一点に見下ろしている。
最早条件反射で透明の刃を構えた。
しかし、振るうことを躊躇した。
同じ学園の友を正当防衛が理由とは言え殺しつくした少年が、今になって刃を躊躇した。
恐怖したのだ。
目の前の男に。
無意識の内に命乞いしたのだ。
「なるほど、物を見る目はあるようだな」
男は感心した風に言って瓦礫の頂から姿を消失させ、少年の眼前に瞬間的に移動した。
「――っ!」
「君は惨劇の生存者で、被害者で、加害者だ」
自分のことを表すいくつもの言葉に目を瞬かせる。
少年は男が自分を罰しに来たと思っていたが違った。
男からはさっきまで受けていた殺気のような物が一切感じられなかった。
悪鬼と揶揄されてもおかしくない姿の少年には男の言葉が響いた。
そして、この惨状を前に全く動じない男に改めて恐怖し、男の存在そのものがさらに深い闇であると悟った。
「もし、君がこの先の未来を生きたいと望むなら、同じ悲劇を繰り返したくないと思うなら私と来なさい」
少年は首を縦に振った。
「今日から私が君を管理する。だから君はこれから私が作る学園を管理しろ」
その日、学園にいた生徒教職員全てが死に、学園は破滅し、廃校に追いやられた。
後にこの惨劇は『
不確かな生存者たちは〈
世間にエンチャンターの恐ろしさを知らしめる事件として後世に語り継がれ、黒歴史として刻まれた。
そして、八年の歳月を経て、その地に新たな学園が開校した。
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