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「今年こそ渡しなよ、って……。優ちゃんは軽く言うけど、こっちは命がけなんだよ。そう簡単に渡せたら苦労はしないよ」
夜行遠足のあらましを思い出し、香魚は自分の両腕を抱いてぶるりと身震いした。
四年片想いをしてきたからこそ、行動に移せないことだってある。まして相手は中学時代もろくに話したことはなく、部の三年生が引退してからは副キャプテンを務めているような、人望も実力もある人だ。クラスも違うし、選択授業だってかぶらない。そもそもの接点がないのに加え、悲しいことに、いくら同じ中学出身とはいっても向こうは香魚のことを知らない可能性だって十分にある。
それくらい香魚は、昔から目立たない女子だった。なんとも致命的な欠点である。しかも、去年の夜行遠足のときも本命お守りを作ったものの、自分の鞄に入れて持ち歩くだけで精いっぱいだったという消極ぶりだ。
もちろん今年も作るだけ作ってみるつもりではある。けれど、お守りを渡そうなんて、なんて私は身の程をわきまえていないんだと自分でもおおいに納得してしまうほど、香魚の消極ぶりは見事に徹底されているのである。
……渡せない、とても。
まして本命なんて。
「私が渡さなくても、どうせもらうよ、一松くんは。だってモテるじゃん、格好いいじゃん。もし万が一、お守りを渡せたとしても、きっと私にはりんごは返ってこないよ」
はあ、とひとつため息をこぼし、顔だけこちらを向いている優紀に力なく笑う。
悠馬は実際、けっこうモテる。
ずば抜けて容姿がいいというわけではないけれど、気さくで明るい人柄が男女ともから好かれていて、しかも、ひとたび剣道着に身を包み、面をつけて竹刀を握れば、とたんに雰囲気が変わって、めちゃめちゃ格好よくなるのだ。ギャップ萌えというやつだ。つくづくタチが悪いこと、この上ない。
性格がよくてギャップもあるとか、少女漫画で言うところの王道の王子様か。
帰宅部女子の中には毎日のように第二体育館の武道場に見学に行き、悠馬の練習風景にきゃーきゃーと黄色い声を上げ、練習試合も見に行く熱心な女子生徒もいると聞くから、その人気ぶりは火を見るよりも明らかだ。
それくらい悠馬はモテる。バレンタインより重要な夜行遠足が十日後に差し迫っている今なら、勝負をかけに行く女子も中にはきっといるだろう。そういうわけで、香魚の本命はもとから競争率が高いのが現状なのだ。
「もう。またそんなこと言って。去年は本命をもらっても誰にもりんごを返さなかったみたいだけど、今年はどうなるかわかんないんだよ? 噂では一年の女子マネといい感じだって聞くし、そしたらいよいよ、渡せるチャンスもなくなっちゃうじゃん。香魚の気持ちもわかるけど、もうちょっと頑張んなよ」
「……」
言われて香魚は、うっと押し黙る。図星だから反論する気さえ沸いてこない。
だが、優紀にそう言われるのも無理はないが、現実は漫画のようにはいかないのだ。
すべては、四年も想っていながら、尻込みしてなにもしてこなかった香魚が悪い。けれど、ため息だって出るし、卑屈な考えにだってなる。なにせ悠馬が正真正銘の初恋の相手だ。具体的にどうすればいいかなんて、恋愛超ど素人の香魚にわかるはずもない。
「……わかってるよ」
苦し紛れに言ってみるも、実際は頑張り方もわからないまま想う年月だけが過ぎ、こうして今に至ってしまっているというのが、香魚が抱えるもうひとつの現状だ。
悠馬のために作った本命お守りを持ち歩くだけで精いっぱいだった自分に、いったいなにができるというのだろうか。どうせ今年も去年と同じに決まっているのに。
見兼ねて助言をしてくれる気持ちは嬉しいし有難いけれど、香魚の気持ちはすでに、そんなふうに固まってしまっているのだった。
「まあ、とりあえず、お守りの生地でも買いに行こっか。どうせ今年も作るんでしょ? それはそれ、これはこれ、ってね」
聞かれて香魚は「うん」と頷く。渡すにしろ、渡せないにしろ、三年間本命お守りを作り続けるだろうことだけは、入学した当時から漠然と思っている。こういうところだけ、香魚は妙に頑固者なのだ。それをわかった上で誘ってくれた優紀に感謝である。
「そっちに行くから、ちょっと待ってて」
そう言って踵を返す香魚の背中を、緩い秋風が撫でる。教室に入ると、すでに自分の鞄を肩に下げていた優紀が、香魚のぶんの鞄を差し出してくれた。それを「ありがとう」と受け取り、ふたり並んで教室を出る。
校舎のあちこちからは、吹奏楽部の楽器の音や、教室でだべっている生徒の笑い声、部活に精を出す野球部やサッカー部などの野太い声に混じって、テニス部女子の高い声も校舎の分厚い壁をすり抜けて響いてくる。
混じり合って、溶け合って、ひとつの音、ひとつの空間。剣道部が外周から戻ってくれば、彼らの声や竹刀の音も、じきにこの空間の中に溶けてひとつになるだろう。
香魚は一日の中で、この時間が特に好きだった。なにがというわけではないけれど、なんとなく、ああ、私も女子高生をやっているんだなあ、という気がしてくるのだ。
「そういえば、なんで私は優ちゃんを待ってたんだっけ? 先生に用事でもあった?」
廊下を歩きながら優紀に尋ねる。香魚も優紀も、入学以来ずっと帰宅部だ。特に用事がない日は掃除が終わったら剣道部に寄り道せずにすぐに帰るのがふたりの習慣なのだが、放課後に少し残るなんて、珍しい。そのおかげで今日は悠馬の格好いい剣道着姿を見ることができ、まさに眼福と言うほかなかったのだが、しかしそもそもの残る理由が、香魚にはどうしても思い出せなかった。
「……ああ、うん」
ん?
しかし優紀は、明らかに歯切れが悪かった。ぽりぽりと頬を掻きながら、つつつと視線を逸らし、困り顔でへらりと笑う。普段からサバサバした性格をしている優紀だけに、その反応は予想外で、とても意外だった。
――なにかあるな。
香魚の中の女の勘が鋭く働く。
「え。なになに、どうしたの」
「いや、香魚の前で言っていいのかどうか、わかんないんだけど……。……その、本命が欲しいって言われちゃって」
「え!? 誰に!?」
「……同じクラスの、
「ほんとーっ!?」
だんだんと声が大きくなってしまいながらも本能に抗えずに急き込んで尋ねる香魚に、優紀が頬を赤くしながらぽそぽそ答える。
どうやら優紀は、さっきまで朝倉くんから本命お守りの打診を受けていたらしい。
香魚たち二年生には、告白するなら十一月の修学旅行という手もある。しかし夜行遠足は、それをもいとも簡単に凌駕してしまう、いわば蓮高最大の胸キュン行事だ。
「香魚、声大きいって!」
そう言って口の前でしきりに人差し指を立てる優紀に「……ご、ごめん」と謝りつつも、香魚の頬はみるみるうちに緩んでいく。
――そうだそうだ、夜行遠足には、こういうパターンもあったんだった!
香魚はお守りを作ることだけしか考えていなかったので、ほとんど忘れかけていたが、夜行遠足の時期が近づけば、こうした探り合いも水面下で行われるようになる。
バレンタインに当てはめると、逆チョコといったところだろうか。意中の女の子から本命お守りをもらうことも、男子の中で完歩に向けての大きな原動力になっているのだ。
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