夢少女の人生攻略法

上道 光陽

第1話

 昔忘れてしまった夢を、ふと思い出した。


 ここで言っている『夢』というのは将来の指針としてのという意味ではなく、単に眠っている時に見るものだ。

 いつの夢なのだろう、と少女は疑問に思ったが、そこまでは思い出せなかった。何せ、憶えていない夢など幾らでもある。それどころか、忘れたことさえ忘れて「夢は見なかった」と処理されていることだって多々ある。

 少女は少し考えた後、そこまで思い出す必要は無い、と判断した。

 問題は内容だ。

 確か、写真集を見ていたんだった。

(真っ白な空間の中で一人、アルバムのような形の写真集を見ていて……)

 と、ここまで思い出して彼女は首を捻る。

(真っ白な空間……?)

 はて、そうだったろうか。

 いや、あくまで夢だ。きっと、詳しい形など取っていなかっただろう。もしかしたら白ではなく黒だったかもしれないし、森だったかもしれない。果ては映画に出てくるようなマーブルの異空間だったという可能性すらある。

 あるいはその全てか。

(……まあ、いいや)

 ここでも少女は思い出すことをやめた。

場所にきっと意味は無いし、今はとにかく内容だ。

 偶然思い出した夢だし、また次の瞬間忘れてしまうかもしれない。

(そうだ)

(私は写真集を見て)

 ……写真を一つずつ、なぞっていたのだった。

 どれも知らない写真だった。筈だ。

 いや、夢に出てくる以上、知識内にはある筈なのだが、その夢の少女はそれらを知らないものと思っていたと思う。

そして、彼女はそれら一つ一つを、まるで思い出を懐かしむようにつるりとした写真達の表面をゆっくりと撫でていた。

(ああ、そうだ、でも)

 水に浮いた泡を掴むように記憶を探る。やはり曖昧な記憶なのか、気を抜くと忘れてしまいそうになる。

(そう……そうだ)

(確か、確か)

 そう。

 その写真達は、少女が指で触れ、なぞった瞬間、その色を失ってしまっていた。鮮やかなカラーだった写真は絵の具を水で流してしまったようにモノクロになってしまった。

 それだけではない。写真の表面を走らせる指が、その写真の端まで行ったときには、もう線も消え去り、モノクロ写真どころかただの紙になってしまうのだ。

(私はそれが酷く哀しくて)

(次の写真をなぞり、ページをめくりを繰り返していた)

 写真集にはページ制限が無かった。

 どうしてか、いつまでも尽きることは無く、ページをめくれば新たな写真達がいた。それが嬉しくも、消してしまうことに悲しみを覚えた。それでもやめることなく延々と繰り返し……。

(そして、私は朝を迎えたんだっけ)

 当時は起きた瞬間に忘れた夢だったのだけれど。今日、何故か思い出した。

 どうして今思い出したかは分からなかった。

 でも、あの夢の意味は分かっていた。

 それがどういう事なのか。

 あれが何なのか。

 何を意味しているのか。


(……全部分かっている)







人が他者を殺める理由は大まかに分けて二種類あるという。

(一つ)

 単純に、その被害者を殺す目的が明確にあり、恨み、辛み、その他諸々の感情や事情があって殺す、というパターン。この殺人は加害者と被害者の間に繫がりがあり、加害者は一般人から暗殺者まで幅広い。

(二つ)

 諸説あるが、人間は本質的に『死』を求める傾向にあるという。生き返る能力があるとしたら、人間、一度は自殺をしてみたくなるとか。しかし、当然ながら人生は一度切り。命は一つしかない。

 とここで、一部の人間の思想として『自分が死ねないならば他人に死んでもらおう』という考えに発展するらしい。『とりあえず誰か殺したかった』と供述する通り魔とかも、無意識下で同じような状況にあるという説もある。自殺するほどのストレスを感じるが、自分が死ぬのは嫌だから他人に死んでもらう、という事だ。

 勿論、この二つの理論は所詮『諸説』の内の一つの仮説であり、正しいという訳ではない。

 ただ。

 岸井衣織がぼんやりとどこかの本に書かれていたこの理論を思い出したのは、彼女の今の状況を考えるのに、都合が良かったから、と言う理由だった。

 そう、ぼんやりと。

 ぼんやり。

 はっきりとしない。

 曖昧。

(ずっと、そんな感じだった、っけ)

 思い返してみれば、自分の短い人生はずっとそんな感じだったな、と思う。

 ずっと、ずっとずっと、ぼんやり、曖昧に生きてきた。たった十七年の人生を思い返そうとしても、うまくいかない。何せ、彼女には特に思い出す価値のある何かは無かったのだから。

 良かったこと?

 悪かったこと?

 嬉しかったこと?

 嫌だったこと?

(――そんなものの区切り、そもそも無かった、気が、する)

 曖昧。

 死んでいるように生きていて。

 生きているのに死んでいた。

 達観、ではない。

 強いて言うなら、彼女は初めから達観の域に有り、それを普通として生きてきた。

(死にたい、とか皆良く軽く口にするけど)

(何で『生きたい』って思ったことが無いのに『死にたい』なんて言うんだろう)

 生きていないのなら、死んでないだけだろう、と。

 そのくせ、何らかの理由で死に際になったら多分みんな『生きたい』って叫ぶんだろう。くだらない、と衣織は思う。侮蔑ではない。ただの、事実として。

(そろそろ、みんな気づけばいいのに)

 生きた感覚など無くたって、証なんて、価値なんて無くても。

(自分たちは、初めから『生きてたんだ』って)

 何でみんな私とは違って普通なのに、『私と同じような事』を思うんだろう――――


なんて、意味のない事を、ぼんやりと考えている彼女に、今。

 死が、迫っていた。


「●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●――――――――ッ!!!!」


 よく分からない事を叫んでいる男性が短い折り畳みナイフで自分の制服を、肌を斬りつけているのが明確に分かる。

 時間は深夜。

 場所は広い間隔のせいで街灯がその役割を果たしていない、道路の暗闇部分。

 二十代前半位だろうか。

 スーツと思しき服装の男性が衣織を道路に押し倒し、ナイフでめった切りにしていた。

 学校が終わり、家に帰り、何となく深夜の散歩に洒落込もうとしたら、こんな風になった。一応、背後から怪しい男性が追ってきた時、逃げたことには逃げたのだけれど、特に部活等もやっていない、素晴らしき万年帰宅部の彼女が逃げられるはずもなかった。

(い、痛たたたた……)

 追いつかれた瞬間、殴りつけられるように左肘の部分を切られた。痛みと衝撃で倒れたところで強引に仰向けにされ、のしかかられたと知覚する前に今度は肩を素手で殴りつけられた。

 そうして、制服を裂かれ、各部位を斬りつけられたが何故か衣織はまだ生存していた。

 男がどうしてか、腹や胸、首といった急所を刺さず、腕や脚、服などを斬りつけていたからである。しかし、ずたずたになった黒い制服はその色と暗闇故見えないが、ぐっしょりと何かで濡れているだろう。

(でも、多分、このままじゃ、出血多量? で死んじゃう、かな、あ)

 既に大量の血を流している身、朦朧とする意識の中で衣織は思考する。最早岸井衣織は痛みをあまり感じなくなっていた。ただただ、熱い、という感覚があり、そのくせ中身からどんどん熱が失われていく気がした。

(さっ、き、の理論で考えると、この人、は、『その二』の無差別殺人の方、かな、?)

 そう言えば、最近、ここらで無差別殺人が横行してるとかで、部活が禁止になっていた気がする、と今更のように衣織は思い出した。

 何でそんな時分に深夜であろうだなんて思ったのか。

 我ながらバカだなあ、と彼女はまたぼんやりと考えた。

「あ、あーあ、」

 衣織は、何となく声に出して、そう言ってみた。

 こんな状況にあってもなお、彼女はいつも通り、ぼんやり、としていた。

 あーあ。

 と、全く無念でもなんでもなさそうに、ただ言ってみただけ、といった感じで。

 すると。

 何の効果があったのか、男はぴたりと口を閉ざし衣織の上から立ち上がり、ふらふらとあらぬ方向に歩き始めた。

「…………?」

 今のが何か、あの男に影響を及ぼしたのだろうか。依織はとっさに傷だらけの体を動かそうとして。

 瞬間。

「ッ、……んぁあがああああああぁあああッ……!?」

 ごう、と全身の傷がまるで体内からマグマが噴き出したかのように爆発的に痛み出した。たまらず衣織は道路に再び倒れこむ。その衝撃で更に傷が燃え上がる。

「う、うううぅうううぅ」

 さっきまでの無痛感覚は何だったのか。

 全身が痛覚神経になったかのように、痛みが体を支配していた。

 それでも。

 衣織は傷だらけの体を起こす。

(あ、あー……)

(どうして私、こんなことしてるんだろう)

 辛うじて無傷の右手を地面に着くと、ぬるり、とした感覚が伝わってくる。

 そして、衣織は周囲一メートルほどの範囲が自分の血で染まっているのを、確認した。どうやらさっきまで隠れていた月が出て来たらしい。道路はてらてらと濡れた赤に輝いている。

(生きているようで、死んでいる)

 ぼんやりとした、自分の人生。

(なのに、まだ、意外にも生に執着があるのか)

(分からない)

(分からないけど)

(痛い、なあ)


 ――――。


 ふ、と何とか上体を起こした姿勢で振り向くと、

「●●●●●●●●●●●●●●●●――――?」

 歩いてどっかに行ってしまうはずだった男が、再びこちらを向いている。

 俯き気味のその表情は影になって見えない。だが、だらりと腕が下がった状態のそれは、幽鬼そのものだった。

(……………………あ)

 今度こそ、死んだ。

 あの男は次こそ自分のどこかしらの急所を刺し、絶命させるだろう、と直感が告げていた。

「…………」

 男が自分のすぐそばまで来る。

 そして短い、しかし人を殺すには十分のナイフを振りかぶり、


「ん? あり、同業者か?」


 と。

 どこからか、声が聞こえた瞬間、

「――はいよっと」

 ッドン!!!

 という激音と共に、男の体が横に吹っ飛び、盛大な音を立てて家の石塀に衝突した。

 ぽかん、と衣織が口を開けて呆然としていると、唐突に彼女のすぐ右横から声がかかる。

「やっほー」

「…………」

 にこやかな笑みを浮かべ、しゃがんでこちらに目線を合わせる少年がいた。

 自分と同年代くらいだろうか。月明かりに照らされた顔は中性的で、黒く細めの髪はよく似合っていた。黒いカーゴパンツに同色のパーカーを羽織っている。

「んでもってお嬢さん。あれ、何?」

「……え」

 あれ、と言って少年が指さすのは石塀まで吹っ飛ばされた例の男だった。

 どうやら、この目の前の少年は全身血まみれ傷まみれの自分を前にして、今現在の状況を訊いているらしい。

「え、えっと、その、み、道を歩いてたら」

 衣織が全身を苛む激痛に意識を持ってかれないよう、必死に耐えながら話そうとすると、少年はそれを片手で制して、

「あー、すまん。そうだな、はいorいいえで応えてくれ」

 目の前の少女を慮るようにそう提案した。

「まず一つ。アンタがそんな風になっているのは、アレのせいか」

 そんな風、と言うのは今の衣織の状態で、アレ、というのはあの男のことだろう。

「は、い」

「ふんふん。んじゃあ二つ目。アレはあんたの知り合いかなんか? でなくとも、何か殺されるような事した?」

 衣織は必死だった。

 もはや、視界の半分は見えなくなっている。

 それでも、この目の前の少年の質問には答えなくては、という謎の脅迫観念があった。

「……いいえ」

「んじゃあ、アレかー。無差別って奴かー。うん、そいつはいただけない。何がいただけないって非常にいただけない」

 少年はすっ、と立ち上がって、そんなことを言いながら。歩き始めた。

「…………?」

 体を動かす気力もないため、目で追うしかないが、少年はあの男の方に向かって歩いている。

「はあ -  別はい   ねえ。そ つは駄 だぜ、  さんよそれに、そいつ 俺が に をつ てた だ  さあ」

 倒れた男の傍で、少年が何かを言っているのが聞こえる。

 だが、そこが限界だった。


 衣織は再び自分の血で光るアスファルトに倒れる。

 そして、薄れゆく意識の中で、


(……同業者……?)

(なんだろう、それ)


 そこまで考えたところで、岸井衣織の意識は完全に落ちた。





 夢は見なかった。


「い、ででででであきゃああああああ!!??」

 そんなこんなで。

 岸井衣織はモットーである『ぼんやり』目覚める事は叶わず、寝返りを打つときに全身に走った激痛で目覚めた。衣織はしばらくのたうち回ったが、大人しくした方が痛みはまだしも少ないと気づき、ぱたん、と仰向けに寝る。

「っはーッ、はーっ、はーッ!」

 荒い息を吐きながらぐったりと布団に沈み込む。

 と、そこで気づく。

(……布団?)

「…………」

 別に。

 衣織は小説展開のようにショックで昨日のことを忘れた、というわけではない。

 夜中で歩いて襲われ、男にめった切りにされたこと。

 そしてその男が吹っ飛ばされ、謎の少年が現れたこと。

 全部、憶えている。

(それよりも)

「生きてる……」

 ちらり、目だけ動かして衣織は自分の体を見る。脚、腕、手、その他各所。昨晩、傷つけられた場所全てに包帯が巻かれるなどして、処置が施されている。掛布団はかけられていなかったため、痛々しいそれらが無残に晒されている。

「何で、生きてるんだろう」

 いや、冷静に考えて、あの少年がきっと助けてくれてからだろう。そして、幸運にも助かったらしいことは分かる。

 しかし、問題は場所だ。

 起きた瞬間、てっきり病院かと思ったのだが、どうもそうではない。

 衣織が寝ているのは大体広さ八畳くらいの和室だった。日に焼けた畳が敷かれ、その部屋の中心に衣織は寝かされている。

 そもそもあの少年は誰なのだ、と動けない体でそんなことを考えていると、

 がちゃり、と扉の開閉音が響いた。そして

「ん? あれ、起きてるし。いや、もうちっと寝ててもいいんだけどね」

 襖を開けながら、件の少年が入ってきた。買い物帰りか、両手にビニール袋を提げている。

「はーあ。寒いなおい。まだ十一月だぜ?」

なんて言いながらごきごきと首を鳴らしながら衣織の枕元にどっかりと座る。何やら色々入っているビニール袋を脚の上に乗せ、がさごそと中をあさる。

「なあ、アンタ、何か食べ物に好き嫌いとかある? サンドイッチとか弁当とか色々買ってきたけど。あ、レトルトもあるぜい」

 衣織は少し迷った後、

「と、特にない、ですけど」

 と答えた。

「おう、そうかい。んー、じゃあ食べやすいもんがいいよなあ。サンドイッチで良いか?」

 衣織が黙って軽く首肯すると少年は傍らにビニール袋から取り出したサンドイッチを置き、上機嫌に自分の分を選び始めた。

「…………」

「はっはー。最近はコンビニも捨てたもんじゃないねえ。バリエーションが豊富でさ。欲を言えば、食品だけじゃなくて食材もそろえてくれると嬉しいんだよね。俺って結構料理する方でさ」

 ……非常に良く喋る少年だった。

 よくもここまで口が回るものだ、と衣織は何となく感心してしまった。彼女は口べたな方ではないので、どうしたらここまで喋れるか全くもって不明だった。

 と、今はそう言う事ではなく。

「あ、あの」

「ん? おうよ。何さ」

 にい、と実に快活な笑みを浮かべる少年。実にモテそう。ただし彼の場合イケメン、と言うよりは美少年、と言った方が正しいだろう。

 そんな美少年に対し、衣織は何故か気後れしながらも、おずおずと口を開いた。

「どうして私、ここにいるんです?」

「は? そりゃ、俺が昨晩運んできたからだろ」

 当然とばかりに即答する少年。

 …………。

 いや、それは、確かにそうなのだけれど。

「い、いや、その。こ、ここってあなたの家、ですよね」

「ん? あーあーあー。つまりアレか。何で病院に運び込まなかったかって事か。んだよー。初めからそう訊けっての」

「い、いえその」

 もちろん、衣織とてそうしたかったのだが、今の状況を鑑みるにこの少年が彼女を助けたのは明白。だから『病院に連れてけよ』なんて事は言えなかった訳で。

 それに、衣織は病院に連れて行って欲しかったのではなく、何故病院に連れて行かなかったのかが知りたかったのだ。普通はそうするだろうと。

 その旨を少年に伝えると、

「あー、俺も本当はそうしたかったんだがなあ」

と少年は少し考える仕草をする

「うん、アンタさ。ぶっちゃけ言って、病院に運び込まれたらヤバかったんじゃないかなって」

「…………、」

「だって多分、アンタ病院に連れて行って、んで事件だって警察に連れてかれてもケロッとしてるだろ、きっと」

 …………、

「……………え、と」

「うん、今起きたアンタの様子を見て確信したんだけど。えっと、昨晩、俺がアンタの場所が分かったのはアンタの悲鳴を聞いたからなんだけど」

 ああ、あの時か、と衣織は思い出す。

 急に痛覚が目覚めたかのように傷が痛みだした、あの時だ。

「アンタ、あのとき『怖くて』『痛い』から叫んでたんじゃなくて、単に『痛い』から叫んでたろ」

「――――」

 衣織は絶句する。

 少年の言ったことがあまりにも、図星だったからだ。

 そう。あの時。

 服を破られ、肌を切り裂かれ、ナイフを突き立てられても、『恐怖』なんて。

――微塵も無かったのだ。

 そう。

 あの時岸井衣織に有ったのは『ぼんやり』とした意識だった。

『ぼんやり』と、自分のことをまるで他人のように俯瞰していた。

「現に今、アンタ滅茶苦茶落ち着いてるし。普通、あんな事あったら恐怖で気が狂ってもおかしくないぜ、普通は」

 普通、と二回強調して言う少年。

「これさ、多分警察に話とか訊かれてもロクな会話できないよ、アンタ。いや、『ロクな会話ができるから』マズいかもな。とにかく、確実に精神病院行きになるよ。まだ高校生だろ? んな若い身空で精神病院生活とか、嫌じゃね?」

 ああ、確かに、それはまずい。

 と、ぼんやり、それを考えたところで、

「……ああ、なるほど、だから、まずいんですね」

 少年の理論は完璧に異常者に対するそれだ。それに普通に納得してしまう自分は確かにまともではない。

「――そうですね、確かにそれは、ありがたい、かもしれないですけど」

「あ、あと単に俺がアンタみたいなのを精神病院に送り、ないしは診断とかされるのが気に食わんってのもある」

「……さいですか」

 大体よー、と言いながら少年は思い出したようにビニール袋をあさる。衣織への説明でいつの間にか手が止まっていたのだろう。一個一個、何を買ったか思い出すように手に取っては戻している。

「アンタの『それ』別に後天性じゃなくて先天性のものだろ?」

『それ』とは衣織にとっての『ぼんやり』の事だろう。

「どうして分かるんですか?」

 衣織が訊くと、少年は「分かるさ」と即答した。しかしふと、少年は何かを思い出したように一瞬黙り、頭を掻きながら弁明するように口を開いた。

「――いや、すまん、嘘ついた。本当は分からん。憶測だしな。そんなもんをアンタに押し付けんのも駄目だ。アンタ自身も分からない事かもしれないし。アレだぞ、アンタも俺が間違ってたら怒っていいからな」

「はあ」

「ま、ともかく。アンタのそれが先天性だとして。だとしたら、それがアンタにとっての『普通』なんだろ? 例え周囲との乖離を感じていたとしても、アンタにとっての『それ』が『普通』なら、精神病院なんてもんに送り込んでわざわざ『異常』だと診断する必要なんて皆無だ」

 少年が選んだのは結局カップ麺だった。立ち上がって、キッチンでやかんに水を入れて、お湯を沸かす。その間に少年は手際よくフィルムを剥がし、カップの中に薬味などを入れてゆく。しゅんしゅんとやかんが鳴り始めた頃、少年は再び衣織の枕元に座った。

「あー、嫌かもしれないけどさ、アンタ、一般から見てかなりの『異常』持ちだぜ? ま、一般なんて俺は知らんけどな」

 異常性。

 いつも通り、ぼんやりと頭を働かせて衣織は考える。

 無差別殺人者に襲われても恐怖を感じない異常性。

 その次の日に、いつも通りの思考回路、精神状態を維持できる異常性。

「まあ……そうですね。自覚は、あります」

「だよなあ……はあ。難儀だねえ。さぞ、生きにくかろうに」

 はあ、とため息を吐きながら古臭い台詞を吐く少年。さっきから気になってはいたが、この少年は年齢と見た目に相反して妙に古臭い話し方をするのだ。いや、口調自体はやや乱暴な若者言葉だが、雰囲気が老輩のそれだ。

「……ところで」

 喋るのを止めた少年に代わって、今度は衣織の方から声をかける。

「ん? 何?」

「私をこの部屋まで運んだ理由、本当にそれだけ、ですか?」

「…………」

 今までの会話で、この少年は意外にもきちんと自分の事を相手の事を分けて考えているような発言が見られた。そんな彼が、「気に食わない」という理由を入れるとは思えない、と衣織は感じたのだった。

「あー……、うん。まあ、そう、だな」

 少年は目を逸らしながら言いにくそうにしている。

「まあ……言いたくないなら言わなくても大丈夫ですけど……。曲りなりとも、助けていただいた身ですし。素人目に見ても、私の治療は完璧っぽい、気がします」

「あ、それに関しては大丈夫だ。俺はこう見えても医学関係に関する知識は完璧にマスターしている。ぶっちゃけ、環境さえ整ってくれれば軽いオペくらいならできるぞ」

 それはすごい、と衣織は素直に感心した。

 だが、今訊くべきはそこではない。

「でも、一つだけ教えてください。――私を襲った人は、今どうなっていますか」

 その質問に。

 当然のように、さらりと、何でもない事のように、


「――殺したよ、俺が」


 と言った。

「…………」

「ま、相手が弱かったよ、ありゃ。俺はそこそこ戦闘系スキルが高くてさ。まあ、生かして止められなかったんだから三流だけどな」

「……あなたが、殺したんですか」

「ああ、そうだよ。……相手のナイフを使ってな」

 その事は後悔したように頭をがしがしと掻く少年。岸井衣織はそんな少年を見つめた後、「そういうことですか」と静かに呟いた。

「つまり、あなたが私を病院に送りたくなかったのは」

 事件として扱われた時、その犯人が死んでいた理由。

 そして、その凶器は犯人のナイフ。

 それは、ともすれば、岸井衣織が犯人を殺したように見えてしまうから。

 正当防衛に加えて異常性。間違いなく尋常ではない者として扱われる。それを、少年は避けた。

「でも、分からない事があります」

 一呼吸置いて、少女は疑問を投げる。

「……あなたは、どうしてあの場にいたのですか」

 たまたま深夜に居て。たまたま少女が殺人鬼に襲われている場面に遭遇し。たまたま少年の戦闘スキルが高くて衣織を助けた?

 なんだそれは。

 事実は小説より奇なり、と言うが。それにしたって限度というものがある。

 そんなご都合主義など、存在しない。


――――『ん? あり、同業者か?』


 この少年は、昨晩、そう言った。

 つまり、少年が病院に行ってはいけなかった理由。

 それは、

「私は、私を襲った人が最近この辺で横行している無差別殺人の犯人だと思ってました」

 だが、違った。

 そもそも、何故この少年は危険な深夜に出歩いていたのか。

 そんなことするのはそれこそ、異常者の衣織かあるいは――犯人くらいなものだ。

 つまり。


「無差別殺人の方は、――あなただった」


 衣織は、ぼんやりとそう言った。

 少年は黙った。

 少女も黙った。

 沈黙が流れる。

「…………」

「――――」

 そして、その沈黙を裂くように、湧いたお湯が入ったやかんが甲高くなり始めた。少年は無言で立ち上がり、キッチンに置いてあるカップ麺にお湯を注ぐ。

 そして少年は再び衣織の枕元に座り、

「ああ、そうだよ」

 と言った。

 その素っ気ない言い方に、衣織は何故か少し笑ってしまった。

「――別に、だからどうって訳じゃありません。私は、異常者ですし。あなたが無差別殺人者だったところで、気にしません」

 元より、この少年に救われなければとっくに自分は死んでいるのだ。

「まあ、そうか」

「それにしても、人殺しが人を救いますか、普通」

「ああ、なんだ駄目か?」

「いえ、全く。普通に――普通な事です」

 笑った拍子に、顔の傷が痛む。

 突然走った激痛にちょっと涙目。

「傷は、多いが深くはない。多分、二週間もあれば治るんじゃないか?」

「そうですか……」

 衣織は改めて自分の体を目だけで見る。裂かれた黒の制服の穴のあちこちから見える包帯は、医者がやったのと遜色なく、きちんと巻かれている。

(これなら、病院行っても同じですね)

 いや、少年の言った通り、事件の参考人として呼ばれたらまずいことになるから、こっちの方が良さそうだ。

「あの、一つだけお願いがあるんですけど」

「あん? なんだよ」

「私、一人暮らしでして。そんでもって今月の家賃、もう払えないんですよね」

「はあ」

「で、しばらくここに居ちゃ駄目ですか」

「駄目」

「家賃払います」

「ねえんだろ?」

 そうだった。

 むう、と衣織は考えてそれならば、と提案する。

「ええと、泊めてくれないと通報しちゃうぞ、みたいな」

「そん時はアンタの命もここまでだな」

「ですよねー……」

 提案、否、脅迫も通じないらしい。当然だが。

 衣織が何とか打開策を模索していると、少年は大きくため息を吐いて、

「もういい……どうせ、傷が治るまでここに居させるつもりだったしな……」

「お? 小説であるあるの『傷が治るまで居ろ』パターンですね。これはずるずると私がここに残るパターンかと」

「残念、俺の方から出て行くさ。俺は殺人者だからな。一月に一度は寝床を変える。あ、そうだ。ここの家賃、わりかし安いから俺が消えた後、使ったらどうだ」

 それはいいですね、と衣織はぼんやりと呟いた。





「何ですか、これ」

「まあ、見ての通りゲームの攻略本だ。――ただし、『リアル』人生ゲームの、な」


 岸井衣織が少年の部屋に居候してから早一週間が経過していた。衣織が襲われた次の日、テレビによると襲った方の男は無差別殺人の『被害者』として処理されていた。

加害者が被害者になるとは、と衣織はある意味感心したりしたのだが、少年の方は不機嫌そうに「全く、殺されたからって罪が帳消しになるとはな」なんて言ったりした。(無差別殺人者が何を言うか、と思ったが衣織は黙っておいた)

少年の言った通り、衣織の傷は多くはあったが深くはなかった。少年の治療が適切だったのか、浅い傷はほぼ全て治っていた。

そんな折、唐突に少年が衣織に渡したのがその本だった。


「リアル人生ゲームって……要は現実世界って事ですか?」

 衣織は布団の上で壁を背に座りながらしげしげと手にある本を見つめる。

「ああ。要は高性能な人生ガイドみたいなものだ」

 衣織の手の中にあるのは薄い辞書位の大きさの本だった。ずっしりとした重さが両手にかかる。表紙にはゴシック体で『ひねくれ☆人生がいど! ~完全版~』と書いてある。

「……とても高性能には見えないですけど」

 誰が書いたんだか、と著者欄を見てみると『著者:不詳 だよん』と書いてある。つくづくふざけている。少年の方を見ると、困ったようにこめかみを抑えている。

「ちなみに、どこで手に入れたんですか」

 よもや、ロクな書店で売っているものではあるまいて、と衣織が少年の方を半目で見ると、

「……姉貴から貰った」

 と、非常に言いにくそうに言った。

「…………つまり著者は」

「……………………姉貴だな」

 成程、と衣織は頷く。

「つまり、この本に従った所、あなたは殺人鬼になったと」

「違うわ!!」

 少年がとんでもないという顔で叫んだ。

 ちなみに少年は現在学ランという変な格好になっていた。(「何でそんな恰好なんですか」「これしか着る物が無くてねえ」「さいで」)そして衣織は相変わらずのずたぼろ制服姿だった(着替え位用意してくれ、と文句を言ったのだが女物なんぞ持ってるかと切り返された)が、特に彼女自身は気にはしてなかった。

「俺の殺人は趣味だ!」

「趣味でも困りますが……」

 まあ、ともかく、と衣織は本の表紙を埃を払うように撫でる。

「――何で私にこれを?」

 衣織がそう言うと、少年は言いにくそうに頭を掻いた。ふーむ、と考えるようにする少年。こういう風にハッキリしない少年は珍しい、と思った。

「……そうだな、それは俺のスーパーウルトラ捻くれ姉貴が気まぐれで書いた総ページ数六百を超す大作だが」

「随分とありますね」

「――まあ、俺の姉貴はかなーり頭が良くてだな。それの内容、かなりガチなんだよ。で、結局その本、俺には必要無いんだよ」

 何せ、俺は無差別殺人者だからな。

「装丁もちゃんとしてるしもったいねえじゃん? だから読むべき人に渡した方がいいと思ってね」

 読むべき人?

 衣織は首を捻る。

「どういう意味です?」

『ひねくれ☆人生がいど! ~完全版~』と書かれた本を眺める衣織。どう見ても胡散臭すぎる。

「読めば分かるかもな」

「何ですか、それ」

 衣織は苦笑して本の一ページ目を開いた。目を走らせ、まずは目次欄を見る。


『・其の一 周囲の人間と無駄な軋轢を生まない、「偽物」の信頼の作り方☆ P6~18』


「…………」

「…………」

 沈黙が流れた。

『重い空気』というものをリアルで体験した衣織は静かに口を開く。

「――――ひねくれてますね」

「…………だろ?」

『偽物』の文字が赤字になっている辺り、明確な悪意を感じる。

 衣織は重い空気を振り払うようにページを繰り、『学校編』と書かれたページを読む。

『クラスで周囲との軋轢を生まない方法を説明する。まず、もし友達を多くしたいなら、あなたは努力をしないことをお勧めする』


「……すいません、初っ端から何ですかコレ」

「読めば分かる、読めば分かるさ……」

 沈痛な面持ちの少年を横に、衣織は読み進める。


『学校と言う機関における友情は殆どが慣れ合いである。精神状態が幼いため、この状態は必然である。が、故にこそ、危険でもある』

『何故なら、その慣れ合いに入れなかったものは徹底的に排除されるからである。これは小中学生を中心に多く見られる』

『いわゆる、「嫌がらせ以上いじめ未満」という状況である』


「あなたのお姉さん、何考えて生きてたんでしょうね……」

「あ、その先えぐいぞ」

「?」

 衣織が首を傾げてページをめくる。すると。


『例えば』

『給食を少なめに盛られるとか消しゴム忘れても貸してもらえないとか二人組作ってと言われて一人余るとか体の接触を異様に避けられるとかお喋りの枠に入れないとか授業中に先生に褒められると恨まれるとか持って来た本のしおりを抜かれたりとか靴を隠されるとか着替えの時にスタイルを嗤われるとか男子にあらぬ噂を流されたりとか教科書を濡らされるとか雨の日に傘を持ってかれるとか机を露骨に離されるとか好きな男の子を大声で叫ばれるとかドッジボールで集中的に狙われるとか』

『そういうものである』


「リアル! リアルですよ! これ、絶対に実体験ですよね!! ですよねえ!!」

「ああ、クソ……俺があの時いじめっ子を皆殺しにしてれば……」


『なお、各行為のリストは巻末付録に掲載する。また、それらに対する対処法は対応するページを読むこと』


 衣織が機械めいた動作で後ろページを開く。

「…………」

 そこには、実に196項目に上る量の『嫌がらせ行為』が書かれている。少年姉の怨讐恐るべし。衣織がめまいを覚えるほどには怨念がこもっていた

「い、一応、一つぐらい対処方を見ますか……」

 衣織は現実逃避するように№23、『靴を隠された時→P154』に従ってページを開け、書かれている内容を読み上げた。


『靴を隠された時、まず、あなたにある程度人望があるなら一緒に探してくれる人を募集しよう』

『まず七割方、犯人はその中にいる』

『何故なら、犯人というのは必然的に現場を離れたがらない習性がある。故に、捜索隊の一人として参加するはずである』

『なお、犯人は「嫌がらせ」程度に考えているため、大ごとになるのを避ける』

『見つからないとなると、適度な頃合いを図って自ら見つけたと申告するはずである。つまり、捜索が長引いた時は見つけてきた者が犯人の可能性が高い』


 現実逃避の筈が、思いっきり現実的な対処法を提示された。

衣織は最早何も語らず、本編の方にページを戻した。


『さて、慣れ合いに入れなかったリスクはさておき、本題に戻るとする』

『なぜ努力をしてはいけないのか、である』


 そう言えば、話の中心はそれだった、と衣織は思い出す。『嫌がらせ』のリアルさに圧倒されたが、そもそもの話は対処ではなく予防であった。


『学生のみならず、人間は基本的に「優越感」「劣等感」を原因として徒党を組む場合が多い。そして、学生は特にその影響が大きい』

『自分より能力が高い人間を敵視、羨望する』

『つまり、人より優れていることは『駄目』なのである』


 まあ、そうだろうな、と衣織は思う。

 隣の芝生は青いというか。とかく、他人の幸福を手放しで喜べる人間など少ないものだ。人間はなんだかんだ言って、自分を何より大切にするのだから。


『つまり、読者がすべきは、学力レベルなどを、周囲の人間に合わせて調節することである』

『ベストなのは、「得意教科」と「不得意教科」を明確に作り(例えそれらが無くとも作ろう)相手に『これは負けるけどこれは勝てる』という感覚を持たせることで、優越感と劣等感をうまく調整することだ』

『いわゆる、疑似的な「みんなちがってみんないい」みたいな状況を作ることである』


「本っっっ当にひねくれてますね、この方……」

「だろ? 自慢の姉だよ……フフフ」

 自嘲気味に笑う少年。こんな姉を持ったらさぞ大変だろうと衣織は思う。少なくとも、自分が持ったら恐らく確実に毒されて二人揃って不気味に嗤う根暗シスターズが完成すること間違いなしだ。

 はあ、とため息を吐いてページをめくる衣織。

 そこには、赤――ではなく青文字で、『裏技』と書かれてあった。


『ただし』

『馴れ合いなぞいらぬ、自分は我が道を行き、自分に嘘を吐かずに生きる』

『という読者へ』

『努力を推奨する』

『だが、孤独の道に走ることは勧めない』

『必ず一人、ないしは二人か三人程度』

『年上でも、年下でも、先生でもいい』

『「味方」を作ろう』

『読者は先に記したような悲惨な状況になり』

『世界に一人だけになったような気分になるかもしれない』

『間違いでは断じてない』

『その通りだ』

『あなたは初めから、世界にたった一人しか居ない、あなただ』

『決して、「みんな」の枠組みの一人ではない』

『「苦しいのはお前だけじゃない」などという言葉を吐くつもりは毛頭ない』

『あなたの苦しみは、哀しみは、絶望は、あなただけのものである』

『だが』

『その苦しみを、哀しみを、絶望を、せめて聞いてくれる人を作ろう』

『勘違いしてはいけないのは』

『「理解者」などという都合の良い生き物はこの世に存在しないという事』

『あなたのものは、あなただけのものだ』

『しかし』

『もしも、あなたの話を黙って聞いてくれる人がいたら』

『もしかしたら、少しは楽になるかもしれない』

『「味方」を作ろう』

『ただただ居るだけの、「味方」を作ろう』

『味方ができたところで、あなたの絶望や悲嘆や嘆きは一ミリも解決しない』

『だが』

『あなたは一人であっても』

『孤独でなくなることはできる』

『なので』

『是非とも、頑張って絶望してください』


「…………」

 それらの『攻略法』否、『裏技』は。

 しっかりとした、黒文字で書かれていた。

「あなたのお姉さんは」

「ん」

「……何なんですかね」

「おい!」

 大袈裟な仕草で反応する少年。どうやら何かしら言われることを期待していたらしい。

「ただ……まあ、何だ。別に、ここに書かれてる事は大したことじゃねえよ。多分、本人もそんなに大切なことと思って書いてねえ。だからほら、ちゃんと最後に書いてあるだろ」

 衣織が文章の最後を見ると、


『なお、これらは方法の一つにすぎない』

『強制ではなく、あくまで「提案」の一つをして考えてください』

『メディアリテラシーを守って、他の著書、ネットで調べてきちんと判断しよう』


 と書かれていた。

「何と言うか、レポートを作る時に言われる内容みたいですね……」

「そりゃそうさ。そのつもりで作ったんだろ」

 ただ。

 少なくともこの本は、ただひねくれているだけのものではないらしい。

 ふ、と息を吐いて、衣織は本を閉じた。

「あれ、もう読まねえの?」

「読みますよ。ただ、こんなもの、読めば読むほど疲れますから。それに今は眠いので寝ます。あ、寝込みを襲ったら殺します」

「りょーかい。んじゃあ俺は外に出ていよう」

 外に出る。

「――――」

 衣織は殆ど何もない部屋の壁、そこにかかっている時計に目を移した。楕円形のギリシャ数字の時計。窓側にかかっているそれを見る。

 一時。

 午後ではない。午前一時、深夜だ。

「…………」

 ところで。

 何でもなく、どうでもいい事なのだが。


 ――無差別殺人はまだ横行していた。


 警察の必死の捜査・警備等々にも関わらず、まだ捕まっていなかった。今や、深夜に外に出る人間などゼロに等しいというのに、そのゼロではない隙間、それらを狙って凄惨たる殺人は行われた。

 行われ続けた。

 大体、殺人は三日に一度くらいのペースで行われている。

 お陰で高校は登校禁止になっている。故に、衣織の傷の露見や出席日数等々の問題は発生しなくなっているのだが。

 それにしても。

「――そろそろ、捕まるんじゃないですか?」

「それならそれで。まあ、そうなったらアンタの事はただの共犯者として供述するさ」

「やめてください」

「冗談だよ」

 なはは、と笑いながら少年は玄関の扉を開いて出て行った。



 衣織はその背を、動機はなく、目的はなく、恨みもなく、条理もなく、利益もなく、後悔もなく、ただひたすらに、それこそが我が存在意義と言わんばかりに人を殺す、殺人鬼を見送った。

 彼はテレビで謳われているような狂気に満ちた快楽殺人者とは程遠い存在に見える。フレンドリーな無差別殺人者などアレだが、実際彼はそれだった。いや、そもそも『無差別殺人者は狂気に満ちてなくてはならない』という理論が偏見なのかもしれない。

(そう、偏見だ)

(人殺者に偏見など、と人々は言うかもしれない)

(いや、そんな理屈ではなく)

 単純に、

(人殺しとしての、『イメージ』の問題、だ)

(きっと)

(人にとって殺人鬼などという存在は)


 狂っていれば狂っているほど、恐ろしければ恐ろしいほど『都合がいい』


 何故なら、

(その方が)

(完璧に『悪』と断じることができるから)

(悪がいれば、それに憤る自分は『正しく』『なる』のだから)

 人は正しくありたい。

 詳しく言えば、人間は何かの意見に縋りたいのだ、と衣織は思う。あの本にも書かれていた通りに。

誰もが、あの『裏技』に耐えられるわけではない。

 何でもいい、基準となるもの、支えとなるもの。

 本来、答え無き筈のその疑問に『自分なり』の答えをつけることによって己の支えとした。

(……別に、否定するわけじゃない)

(永遠に絶望してそれでも疑問し続けるなんて無理な人がほとんどだ)

 答えが無ければ、自分を見失ってしまうから。己が『在る』と実感できないから。

どこか、あるいは何かに傾倒してでも、それが己の自己満足だと分かっていても、それが欲しかった。

衣織は畳に置いた本の表紙を何となく撫でる。この本に欠点があるとしたら、それはこの本が『不器用で生きづらい異端な人向けの本』であるという事だ。

 衣織は壁に付けていた背をずるずると下げ、布団の中に潜り込む。ぼんやり、と部屋を眺めた。目をつむる。そして、微睡んできた意識の中で、最後にこんな疑問を持った。


(でも)

 自分を見失うと生きていけないのなら、

 あの殺人鬼は。

(そして私は)


 一体、どこに在るというのだろうか。







 あの少女の直感というのはどうやら当たるらしい。

 少年はひたすらに暗闇の中、その更に物陰を選んで走りながら、そんな事を思った。

「――ぐう……ッ!」

 ズグン! と電流が走ったよな痛みが左足に走る。思わず転びそうになるが、何とか耐え、むしろ速度を上げてひた走る。

「クソ……市街地で発砲とか、馬鹿かあの警官……!」

 少年は、今夜に限っては殺傷をするつもりは無かった。

 だが、遭遇してしまった。

 ただの人間ならスルーするのだが、それが巡回中の警官となれば話は別。こちらの姿を見、少年を無差別殺人犯と特定したと分かった瞬間、少年は手持ちの軍用ナイフで首を一刺しして殺した。

 だが、仲間がいた。

 二十代前半くらいの、若い警官。

 そいつが、何を血迷ったのか、こちらに向かって発砲して来た。

「本ッ当、馬鹿か! 市街地だぞ、ここは!」

無差別殺人者が何を言うか、と衣織が聞いたら思いそうなセリフを叫ぶ少年。自分の事を棚に上げた天性の素晴らしすぎる突っ込み体質である。

 が、その弾丸は少年に当たった。

 少年は発砲者を殺すか一瞬迷った後、逃走を選択した。恐らくあの警官は逃げる。この傷で追っても不利になるだけと判断したためだった。しかも当たった場所が最悪なことに脚だった。

「~~~~ッ!」

 少年は自分の左太ももを見る。

 黒い学ランは、ぬるりとした液体でぐっしょりと濡れていた。光を当てれば、少年にとっては見慣れた赤に染まっている事だろう。

「『そろそろ捕まるんじゃないですか?』……とか! あーもう、フラグ回収お疲れ様だよ俺は!」

 とりあえずアパートに戻ろう、と考えたところで、少年はぴたりと足を止めた。恐らく、もうここら一帯を逃げおおせるのは不可能だろう。そうなると。

「…………」

 岸井衣織が、まずい。

『アレ』が演技に長けた人間ならまだ希望はある。

 それらしい嘘をいざとなったら吐けるだろう。

 だが、今少年がかくまっている(?)のはよりもよって『アレ』だ。あんな死体より死体みたいな目をした少女に希望など一縷も望むことはできない。

 少年は一度街灯の光が薄っすら届く場所に出て、改めて脚の傷を見る。

「あ――」

 まずい、と少年は直感した。

 思った以上に、出血が多い。

「これは、死ぬ、なあ」

 我が人生、ここまでか、と諦める。

 …………。

 ……………………。


「ああ、クソがッ!!」


 思い出すのは姉が書いたあの本。

 岸井衣織にアレを渡したのは、一重に彼女が『まずい』と思ったからだ。このまま彼女が生きたら、恐らく大変なことになる。そうなる前に、何とかしたかった。

(他人をどうにかしようとしてるくせにテメエは生きるの諦めるとか、カッコ悪すぎるわボケ)

 何とか自分を保たせ、少年は再び走る。彼とてあの本を読んだ身だ。『ひねくれた生き汚さ』は本人からも著書からも散々叩き込まれている。


(死にゆく身)

(何ができるかなんて、限られている)

 ならば意地を通してみよう、と少年は足を進めた。







「ぎゃあああああ!! 何ですかあ、その傷は!」

「お、おー。意外に心配してくれんのな。な、ははは。ありがたいぜ」

 結局、少年は朝日が昇る前、アパートに帰ってきた。

 少女は血まみれの脚を引きずって、帰ってきた少年に、当然の如く寝起きの衣織は悲鳴を上げた。

「ど、どうしたんですか。一体」

「撃たれた。まあ、死にそうだが、取り敢えず行けるところまで逃げる。アンタもこの後、すぐアパート離れろ。ああ、あと、その本はやる。読め、以上」

「は、はあ」

 少年はふらふらと部屋の中に入り、持ち出す物を持ち出す。少ない上に、必要ない物が大半だが、それでも少年は『いつも通り』居所を変える準備をした。

 これは完全に意地だ。

 自分は根無し草の無差別殺人者として生き、どこにでもいる少年として死ぬ。

 いつ決めた?

 今だ。

「えっと、じゃあ」

「……ああ。警官が来る前に、逃げろ。髪の毛とかは、一応毎日掃除してたから残らないと思うぞ。アンタの髪、長いから残るとすぐ見つかるだろ」

「じゃあ」

「ああ。それじゃ、強く生きろ」

 と言って、少年は慌ただしくアパートを出る。

 すると、岸井衣織は。


「――じゃ、どこ行きます?」


 当然のように、ついていく事を宣言した。

 少年は一瞬、信じられないモノを見る目で少女を見た後、

「――そうだな、取り敢えず、逃げられるところまで、逃げよう」

 あえてそれを、受け入れた。

「ははあ、駆け落ちというヤツですね?」

「何でアンタ、そんなに楽しそうなんだ……」

「だって、あなた、笑ってますし」

 ――――。

 成程、と少年は納得した。

「……アンタ、俺についてくるのはいいが、捕まることは覚悟しとけよ」

「では、あなたの人質というシナリオでどうでしょう」

「な、ははは。いいだろう」

 つくづく、変な少女だ、と少年は思った。

 あの夜、男に襲われた時、少女の眼にあったのは恐怖ではなく、ただただ『ぼんやり』とした虚ろだった。

 それを見た時、少年は直感的に『まずい』と感じた。何が、と言われても答えようがないが、とにかく『まずい』と思った。

 この少女は、徹底的にまずい。

 もし岸井衣織が社会に出たら、彼女は恐らく『終わる』

 その実例を、既に少年は知っている。

彼の姉だ。

どうしようもなく、どうしようもなくなってしまった彼女を、少年はどうする頃もできなかった。

 ああ、ある意味これは。

 贖罪、というヤツなのかもしれない。


 気を抜くと落ちそうになる意識を何とか保ちながら、少年は笑った。







 終わりの場所は、とある河の橋、その高架下だった。

 コンクリートの柱を背に、少年と少女は隣り合って座る。少女は体育座りで本を抱き。少年は片膝を立て、もう片方の足と腕を投げだした風に座っている。

段々と空が白み始めていた。対岸に見える街は影を持ち始め、川面は幻想的に光り始めていた。

 少年に血の気は無く、目を閉じて死人だと言われれば納得してしまいそうな、そんな図型だった。

 ぼんやりと朝日を眺めながら、岸井衣織は口を開いた。

「――何か、話しましょうか」

「……そう、だな。何か、くだらない、どうでもいい話をしてくれ」

 少年は笑いながら、かすれた声でそう言った。

 明らかに死に際の少年を見ながらも、衣織の心持ちは酷く静かだった。

一週間と、少しくらい。共に過ごした仲だった。が、ここで自分が哀しむのは何か違う、と思っていた。この少年は、自分の死を、なんでもなく、どうでもいい事として見送られる事を望んでいる気がしたから。そして、衣織がそれをできるからこそ、彼は彼女がついてくることを良しとしたのだと思った。



「どうにもならない、夢の、話です」

 少女は胸に抱いた本に力を込めながら、そう切り出した。

「大切な物を、確かめたくて、それらが形になったものに触れました」

 どこか、知らない場所にあった、一冊のアルバム。

 一枚一枚、触れていくごとに消え、散っていったそれ。

「きっと私は、恐れていた。今まで信じていたもの、確かには無くとも漠然と存在していた何か」

 それを『人間性』と呼ぶのか、『普遍性』と呼ぶのか、あるいは名前など付いていないのか。衣織には分からなかったが、それが人間として生きる上で、大切な物である気がしてならなかった。

「だから、片っ端からそれらを確かめました」

 失うのが恐くて、恐ろしくて、ただ、アルバムのページを繰り、失っていくごとに、それらの感情すらも消えていって。

 残ったのは、ただただ『ぼんやり』とした、漠然の世界。

 いつしか、ページをめくることにも疲れてしまって、とうとうアルバムごと消してしまった、『それ』

「――私は、どうなるんでしょうね」

 つまるところ、岸井衣織はその存在、それ自体が『ぼんやり』としていた。曖昧だったのは、世界ではなく、彼女自身。

 それが、どこに行くのか。

 それを、衣織は知りたかった。

「――――、」

 少年は、それを聞いて。

 その、何でもない、くだらない事を聞いて。

「な、ははは。そいつは、確かに、どうにもならねえ、な」

 少女は黙って、その続きの言葉を待った。


「――じゃあ、見つけようぜ、答え」


「…………は?」

 呆然、とした顔の衣織を、まるでいたずらが成功した幼い子供の様な顔で見返す少年。

「『答えなんて無い。そんなもの、求める事に意味はない』――そう言うと思ったろ」

「ち、違うん、ですか」

「もうひねくれにひねくれた理論なんて姉貴でウンザリなんだよ、俺は。ひねくれすぎて一周してるっつーの」

 少年は顔を上げ、段々と昇る朝日を眺めながら、

「いいだろ、別に」

 と言った。

「無い答え求めたって、意味が無くたって、それが自己満足に過ぎねえって自分を嗤って答えを探そうぜ? 次の日にはもう忘れちまうような答えだって、――いいよ」

 答えを出せないことを言い訳にするな。

「どこに行くかなんて、何を探すなんて、んなもん適当に決めろ。適当に決めるのが嫌なら永遠に悩め。女々しく悩んで、頭掻きむしって、何が悪い」

「…………」

「大人とかの偉そうな人間の言葉なんて、全部無視していい。必要な事は、選べる答えは、全部、――それに入ってるよ」

 と言って、少女が抱いている本を目線で指す少年。

「それに、その本も絶対じゃ、ない」

 その言葉を聞いて、少女は――岸井衣織は、少し笑ってしまった。

「ふふ……結局、何が言いたいんですか、あなたは」

 その言葉に、少年は苦笑し、

「答えは、無いんじゃ、ない。……無限にありすぎて、選べない、だけだ。どれを選ぶかなんて、アンタ自身にすら決められ、ないかも、しれない」

 だけど、と少年は薄っすらと笑みを浮かべ、こう言った。


「――どちらにせよ、生きるのは、大変、だぜ?」


「…………」

 朝日が昇る。

 少年目に光は無い。その黒い瞳は、ただ朝日を無機質に反射していた。

「おやすみなさい、ですかね。こういう時は」

 衣織は、首を傾げて、そう言った。彼は、本当に眠るように死んでいたから。

 少女はしばらく、どうしようか、と佇んでいた。

 だけど、このまま居て警察に見つかったりしたら、少年の遺志に反することになる。

「それは、嫌ですねー……」

 じゃあ、歩こうかな、と衣織は決めた。

「うん、そうしよう」

 とりあえず、歩こう。


 ――とりあえず、今まで通り『ぼんやり』と、『生き始め』てみよう――




 少女は全く変わらず歩き、

 少年の遺志はだが継がれた。



 少女は本を抱き、朝日を浴びて、歩き始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夢少女の人生攻略法 上道 光陽 @ryakushiki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る