肉塊の叫びは届かない

雨蛙

第1話

「おはよう、朝だよ。」


そんな声とともにカーテンが開き、朝の爽やかな日差しが暗い部屋に差し込む。カーテンを開いた女は日の光に目を細めた。その顔には笑みがうかんでいたが、どこか虚ろな目をしていた。女の髪は雑にくくられていて、目の下には酷い隈があり、頬は痩せこけている。そんな女が発した言葉はこれ以上ないほど明るく、楽しげだ。そのアンバランスな言動は今にも壊れてしまいそうな脆さと危うさを感じさせる。


「気持ちいい朝だよ。起きて。」


女はもう一度部屋の奥に向けて声を放った。日の光によって照らされた殺風景な部屋。奥にあった「それ」に向かって女は声を発したのだろう。

部屋の奥は異様な雰囲気だった。辺りに立ち込めるのは強烈な死の臭い。思わず恐怖すら覚えるような、普段は絶対に嗅ぐことのない臭い。生き物が腐っていく臭い。その中心にいたのが、「それ」だった。かろうじて人であること、いや、人であったことがわかる形をしている。しかし、顔であろう部分は崩れ、左腕は腐り落ちたのか存在していない。壁に寄りかかって座る「それ」は明らかに、生きてはいないように見える。


「ーーー」


「それ」は女の声に反応してピクリと動くと、声をあげた。獣の鳴き声のような声だ。そうして、ゆっくりと瞼を押し開け、色の変わった瞳を女に向けた。女は「それ」と目が合うと、満足そうな表情で近づく。


「起きたね、◯◯君。一緒に日向ぼっこしようよ。」


女は大切な人と話すトーンで◯◯、と呼んだ。まるで儀式のようだ。きっとこの行為は「それ」を「彼」にするためには必要なことなのだろう。彼は半ば強引に窓の傍に引き出された。女は窓を開け、彼の隣に座って、笑顔でベランダの植物を眺めている。


「ーーー」

「◯◯君も気持ちいいの?よかった。」


彼と女はしばらくそこで座っていた。どのくらいの時間がたっただろうか。女は急に口を開いた。


「あのね、この前ね、友達にもう世話をするのはやめろって言われたの。彼はもう死んでいるんだって。」


女は少し俯く。言葉を切りつつ話を続ける。


「ひどいよね。死んでなんかないのに。身体は確かに死んだかもしれない。けど、こうして私の話を聞いてくれる。動ける。心は生きているのに。」

「ーーー」


彼は声を出した。どこか温かみのある、しかし泣いているような声だった。女はその声を聞いて、ハッとしたように笑顔をつくる。慰めようとして女に触れかけた彼の手を避けて女は勢いよく立ち上がった。それに驚いた彼は体勢を崩し、後ろに倒れた。


「ごめん、大丈夫?」


女は焦って彼を抱き起す。ゆっくりと起き上がったとき、何かがこぼれ落ちた。それは、彼の眼球。ドロっと溶けた眼球は女の腕の上に落ちた。一瞬、女は目を見開き、真顔で固まった。しかし、すぐに彼を心配する表情に戻る。


「本当にごめん!ちょっと手を洗ってくるから待ってて。戻ったらすぐに処置するから!」


そうして、出ていこうとする女の後ろから声がした。


「ーーー」


彼は女のことをじっと見ていたが、女は慌ただしく部屋を出ていった。


「ただいまー、手当しようか。」


女が扉を開けて入ってくる。ひんやりとした風がカーテンを揺らしている。女の声に反応するものは誰もいなかった。


















「おはよう、朝だよ。」


彼女の声が聞こえる。暗かった部屋が急に明るくなった。目をつぶっていても眩しく感じる。身体が死んで一ヶ月、今までよりも光に弱くなった気がする。


「気持ちいい朝だよ、起きて。」


空虚な明るい声だ。僕のために明るく振舞ってくれているのだろうけど、自分を鼓舞するためのようにも思える。負担をかけていることに心が痛む。


「おはよう。」


僕は今日も君に届かない言葉を発する。精一杯の力で顔を上げて、目を開けた。僕の目に映った彼女は美しかった頃が嘘のように疲れた顔をしていた。また痩せたな。食べていないのかもしれない。ごめん。何度目かわからない謝罪を心の中でした。

彼女は僕に近づいて、言った。


「起きたね、◯◯君。一緒に日向ぼっこしようよ。」


僕はこの瞬間が一番好きだ。自分はまだ彼女に人間だと思われていると実感するから。たとえ、彼女が自分に言い聞かせるように僕の名前を呼んだとしても。それにしても、日向ぼっこか。この体になってから、僕は日の光に弱くなった。今までの数倍熱く感じるから。正直、今の僕にとっては日向ぼっこは拷問にも等しい。


「熱い。」

「◯◯君も気持ちいいの? よかった。」


どんなに辛くても僕はそれを彼女に伝えられない。彼女の笑顔が僕を突き放す。熱い。痛い。身体が燃えているみたいだ。


何時間にも感じる時間の後、彼女は突然口を開いた。話をする彼女の顔は苦しそうに歪んでいた。頭を支配していた熱さなんて一瞬にして忘れた。心が押しつぶされそうだ。こんな身体じゃなければ、彼女を抱きしめることができるのに。ただ、悔しくて、情けない。彼女を苦しめているのは他の誰でもない、僕だ。


「ごめん。」


やっと絞り出した言葉も情けない。しかも、彼女に気を使わせてしまった。痛々しい笑顔を彼女はみせる。何とかして慰めようと手を伸ばす。


しかし、彼女は突然立ち上がった。バランスを崩した僕は後ろに倒れる。真っ白な天井が見えた。焦った様子で彼女は僕を起こしてくれた。

その時、何かが頬を伝った。視界が狭まった。眼だった。僕の眼が落ちたのだと気がついた。恐る恐る彼女の表情をうかがう。彼女は笑顔だった。けれど、確かにその目には恐れが、嫌悪が映っていた。彼女が何か言っている。だけど、内容が全然入ってこない。


僕は目を背けていただけだった。本当は知っていた。彼女の目にはあきらめの色があることを。僕を世話することに対する後悔の念が頭の隅に巣食っていることを。僕が動くたびに彼女の体がこわばるのを。僕は認めたくなかったんだ。彼女の気持ちが変わっていることを。

それでも、彼女は優しいから、自分の身を削ってでも僕の世話をしてくれるのだろう。ただ、僕がこの先声を上げることも、この醜い身体を動かすこともできなくなったとき、彼女は「僕」のことを「僕」だと、人間だと思う事ができるだろうか。


この身体になって二週間、部屋から家具が一切なくなった。机や照明、ベッドでさえも。何かにぶつかって身体が崩れることを防ぐためだ。けれど、この部屋は僕が人として生活する空間ではなくなってしまった。

この身体になって三週間、明らかに会話が減った。前はくだらない話だってしてくれたのに、必要最低限のことしか話さなくなった。

彼女は少しずつ、無意識に、僕を人だと思えなくなっている。僕は何の反応もできなくなったとしても、きっと優しい彼女は何度も、何度も、これは僕なんだと言い聞かせるのだろう。長い間苦しむことになるだろう。それでも遂には、僕は彼女の中でただの肉の塊として処理されるんだ。


だから、僕がまだ、君の愛する「人」であるあるうちに。君の憎むべき「モノ」になる前に。僕はずっと考えていた計画を実行しようと決めた。部屋から出て行こうとしている彼女の背中に言う。


「大好きだよ。」


扉は閉まった。痛みに耐えて重い身体を動かす。ベランダまでの数メートルがとても長く感じた。ようやくたどり着いて、遠い地面を見つめる。身体は死んでいても、やっぱり怖かった。彼女の足音が聞こえる。もう時間はないみたいだ。息を吐いて。眼を瞑る。少し前に体を倒せば、僕の体は簡単に柵を越えて、宙に投げ出された。


あーあ、最後に彼女の本当の笑顔が見たかった。







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肉塊の叫びは届かない 雨蛙 @ama_gaeru

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