第4話
ライラは暫くすると件の小辞典を写本し終え、床へとついた。因みに彼女は朕をベッドに置いて、部屋を半分に仕切るカーテンのような薄布の向こうで、タライに汲んだ冷水にて身を清めた。律儀というかなんというか。まぁ、朕、オスだしのう。
ライラが眠りにつくと、朕は部屋の外へと出た。
外はもちろん深夜だ。
そこから段々と坂を下るに連れて見える屋根が住む者達の財力に比例するように瓦や石とセメント、またタイル葺等に変わっていく。ライラの住むアパルトメントは木製チップの屋根の上にセメントでコーティングしたタイル葺屋根であり、ここから西の建物は大体がタイル葺であった。中心街との距離的にも下町のような場所なのだろう。
朕はまるで積み木箱にギュウギュウに詰められたように狭い間隔で建てられた建物の屋根を伝って、丘の上の中心街へと向かった。偵察である。この街の事を知るには、高いところから見下ろすに限るし、この街の地理的情報を得るにも中心街の方が何かと情報もあるであろう。何よりこの街が何処なのかが知りたい。何処の国の所属かが判れば政治体制もわかるし、社会的上昇の方法も見当がつくというもの。何より朕が死してどれだけ経ったのかが解らぬ。
因みに、ライラとの帰路の途中、見かけた看板や標識から、この街の名前は『トシュケル』と言うらしい。規模から言って、地方都市、といった所か。
しかし、見る限り行政府の様な建物が見える事から考えると、領主が居る都市、と言うわけでもないらしい。直轄領の商業都市、といった所であるかの。
因みに、朕はこのトシュケルと言う街を知らん。朕の死後に出来た街か、朕の生前は朕の聞き及ぶような都市ではなかったのかもしれぬ。まぁ、朕の領土は広大であった故、一々各都市の名前など覚えとりゃせぬ。
建物と建物の間は数キュベル――肘から中指の先までが1キュベル――程度しか無く、飛び移って移動するのは簡単である。猫の体ということも有るが、途中40ショーク――大人の足で大股の一歩分が1ショークで約3キュベル――程度の大路を迂回したり休憩したりしながらでも中心街に辿り着くまで四半刻程しかかからなかった。直線距離的には4オクス――1オクスは重騎兵が全力騎兵突撃を行える基礎単位距離で、約900ショーク――程度、5オクスは無いと思われる。因みに長さの単位は標識を見る限り朕の生前と変わっておらぬようである。
うむ。割りと早めに走って飛んで、しかしそれ程の疲れも息切れもない。猫の体は素晴らしいな。
途中、何匹か野良猫が絡んできたが、取り敢えず無視した。しつこい奴は足元の屋根の摩擦力を限りなく小さくしてやったら――碩術の基本技術の一つ、印付による
幾つかの屋根を踏み台にして、ライラの卒業した幼年学校の校舎の屋根に立つ。学校の大きさはあまり大きくはない。幼年学校だし、あまり土地事情もよくなさそうなので仕方ないの。
ライラのアパルトメントとは比べるべくもないが、敷地としては200ショーク×120ショーク程度だ。朕の知る学校というものに比べれば特段小規模といえる。建物はライラが儀式を行ったドーム状のホールに、4階建ての校舎。それに幾つかの倉庫らしき建屋が有るだけである。運庭の様な広場はない。まぁ、碩術師養成学校ならば必要ない施設ではあるしの。
学校の名前はサンク・マグダラ碩術幼年学校と言うらしい。門扉にそう書いてある。だがマグダラと言う名前に心当たりはない、と言うかかなりポピュラーな名前でもある。まぁ、この地域の偉人か何かなのであろう。特に興味もないので次に行くことにする。
朕はそこから更に屋根伝いに一際目立つ
天井は
一番奥の
夜目が利く猫の目をもってしても中が暗くてあまりよく見えないが、神像が持つ特徴的な神器は見間違う筈が無い。やはり、宗教というものは時が経っても大きくは変わらぬものであるな。
中央に鎮座するのは『秩序の書』を持つ女神にして主神・ヘーリヴィーネ。
左右を固めるのは右が巨大な杖を持つ叡智の神・ゾフィル。碩学の神でもある。
左が男根が誇張され、葡萄酒の壺を抱えた豊穣の神・ココペルニ。農業と子孫繁栄の神だ。
更にその左右を、槍と弓を持ち肩に大鷲をとまらせた狩りと戦の神・ハカペルに、クッションのような大きな四角い帽子を被り小石を繋いだ紐の束――古代の計算機である――を持つ商業と旅人の神・アリアドネが控えている。
懐かしい顔ぶれであった。その薄暗い闇の中でも燦然と浮かび上がる美しき女神の像はかなり腕の良い職人の手によるものだとは分かるが、実物に比べると少々見劣りするのが面白い。
典型的なエールスリーべ教団の教会である。
朕の生前はエールスリーべは主に地上世界のカプスライリャ大陸北西からグレンコア大陸全土で普及していた宗教である。非常にメジャーな宗教ではあるが、カプスライリャ大陸南西や中央、東方、ユラヴァ大陸ではあまり信仰されることが少なかった。
空を見上げれば、視差で約45度方向に
まぁ、ライラ達の話す言葉や標識を見るにエスト語が使われていたから、大体グレンコア北部であろうとは予想を付けておったのでそれが証明されただけなのだが。
因みにエスト語はグレンコア北部地域の人族に広く使われる言語だ。人族以外にも認知度が高いが、南部のベド語とは別体系なのでほとんど通じない。またカプスライリャ西方では言い回しや単語の読み方、若干の語法が違うだけで基本的には同系統のクラグス語が使われている。またカプスライリャ中央に行くと文法から何から何まで全く違うタルキ語が主流になる。因みに朕はどの言語も理解できるし話すことすらできる。まぁ、世界中の言語くらいは、嗜み程度に押さえておかねばならぬ身の上であったしの。
グレンコア大陸北部、緯度的には北緯45度付近の国は何処だったかの。大きいので言えばエルメリア連邦、キャール王国、クロクッド首長国辺りか。昼であれば経度までわかったのだが。
朕は教会の屋根から降りると、今度は先ほど見えた行政府に向かった。暗闇でも漆喰塗りの白い建屋は目立つ。すぐに辿り着くことが出来た。
テルミナトル帝国デル・マーバ管区直轄領トシュケル行政府。
という石造りの館銘板が鉄の門扉に掲げてあった。テルミナトル帝国等という国名を朕は知らぬ。統廃合でもあったのか、と思いつつ庁舎の屋根を見上げれば、白地に朱と碧のダブルクロスに金地の鷲が大きく翼を開いた旗がはためいていた。
白地に朱と碧のダブルクロスはエルメリア連邦の国旗であった筈。朕の死後に政変か、戦争によって新国家が樹立したようである。国旗を見るにエルメリア連邦を基礎とした帝政国家の様だ。エルメリア連邦は公選で選出される首長を立てる立憲君主国家であった筈だが、もしかしたら戦争などの統廃合で王権が強化されたのやも知れぬ。
更には、館銘板のデル・マーバ管区という地名から察するに、それは朕の記憶が確かならグレンコア大陸東海岸中部に突き出した鉤鼻のような形の巨大な半島の名前だ。元、エルメリア連邦領でもある。緯度的にも合致する。
朕は青銅製の門扉の隙間を抜けて庁舎の雨樋を登り、出窓から上階の出窓へ、更には屋根の上へと上がった。屋根は総銅葺きの豪華な作りである。歩く度に爪が嫌な音を立てるので注意してしまっておく。
周囲を見回せば街の全貌が見渡せた。街の屋根がその材質によって綺麗にグラデーションをなしているのが面白い。まるで水面の波紋の如く広がって行く屋根の輪を見回すと、街の北側に黒塗りにされた太い線が見えた。大河だ。
かなり緩やかに流れるその大河は何という河だったか、流石の朕も思い出せない。1オクスから1オクス半程度のかなりの川幅が有る。
街の外壁はその大河に接する辺りで途切れており、そこが港なのだと知れた。港の左右にはハッキリとした色分けがなされていない屋根が立ち並ぶ街区が見え、その雑多な色形の屋根は吹き零れるように外壁の外にまで溢れている。多分、港が存在することで雑多な人の行き来が有る為に出来たスラムと言ったところだろう。港の東側には市場のような広場が朕の居る中心街の足元まで広がっており、西側には商館街と思しき大きな建物が集中していた。
港には櫂船に混じって外輪船が停泊しているのが見える。形状から見て蒸気式と思われた。川の上流と下流を結ぶ運搬船であろう。港は川の蛇行部分の上流側に作られており、船も全てそこに集まっている事から考えれば、このトシュケルという街は上流の大都市と下流の都市を結ぶ中継地点なのかもしれない。
エルメリア連邦の首都はかなり内陸側であったから、レーヴェ海――カプスライリャ大陸とグレンコア大陸の間に広がる海――からエルメリア連邦中枢へと河川を使って伸びる交易拠点の一つであるように見えた。停泊している外輪船が蒸気式だけなのもそのせいだ。これがレーヴェ海にもっと近ければ、航続距離の関係から停泊している船舶は皆、巨大なマストを持つ帆船か碩術式の外洋船になるはずだ。煙突の有無を見ればすぐに分かる。
しかし、交易路なれば戦略情報としても重要である。朕がこのトシュケルを知らぬとなれば、やはり朕が死んでから相当の年月が経っていそうである。うーん。どっかに
街の南側は広大な森が広がっていた。広がっているというより、このトシュケルと言う街は大河の蛇行と洪水によってできた堆積地に建てられた街のようである。森は大河とある程度の距離を保ちながら大河に沿うように伸びており、対岸を見れば対岸にも平地を覆う広大な森とそれほど標高の高くない山々が遠くに見える。街の南側にも緩やかな傾斜を覆う森が続き、遠くにやはりそれ程標高が高そうには見えない山々が見えた。
森の植生は背の高い高木、見たところオークが主となっているようであり、森の方から港まで大路――先ほど迂回した40ショーク程の道だ――が通っていることから考えると、この街の輸出品にはオーク材が含まれていると見て間違いないだろう。
森に面した一帯には木工所と思しき作業場を備えた建物が集まっており、外壁は途中で無くなって建設途中となっていることから、トシュケルはいまだもって拡大中の様である。
トシュケルの街は南北に細長く、東西は10オクス程度の街のようであった。かなり大きな街であるな。それこそ河川交易路の中継都市の一つかもしれぬ。
偵察はこの位でよいであろう。朕は行政府の屋根から降りると、今度は街路を通ってライラのアパルトメントへ帰ることにする。
街路は中心街から1オクス程度はまっすぐな作りと石畳であったが、先程迂回した大路を境に石畳が浮き石が目立つ細道となり極端に蛇行を繰り返すようになった。
石畳の目が急に不揃いになり、補修したのであろうレンガや木片が埋められているのも散見できるようになる。多分この大路が、最初に街が作られた際の街の境界であったのであろう。町並みもガラリと変わり、例の水面に浮かぶ波紋のように建物の雰囲気が段々と庶民的になってくるのが面白かった。建物と建物の間隔もドンドン狭まっていき、ライラのアパルトメントに辿り着いた時には正にギュウギュウに押し込まれたような間隔で建物が建てられていた。
街路を辿ってみて分かったのは、このトシュケルという街は、街の南北方向は商業地であり、そこで働く者たちが住むのが東西の住宅地の様であった。所々、一階が店舗になっている建物を見かけたが、大抵は居住用の建物のようで、中心街から離れれば離れるほどその傾向は強かった。店舗の種類を見れば一応、住宅街の中だけで生活もできるようだが、パン屋は見れど生鮮食品を扱う店が極端に少なく、服屋なども見られない。
週に一度は港の市場まで出かけなければならないようである。ライラの歳では重労働であろうが、アパルトメントの家賃はその分安そうである。まぁ、物の値段とは手間を金銭で代替したものなのだから致し方ない。
朕としては近々にライラの生活を向上させてやりたいところでは有るが、その為にはまずライラに金を稼ぐ術を教えねばならぬ。幾らか検討は付いているが、その為にも一刻も早く意思疎通の手段を考えなければならない。うーむ。参った。
朕はその方法を検討吟味しつつ、ライラのアパルトメントの屋根まで登り、元来た通り明り取りから室内に入ると、物音を立てないようにそっとライラの枕元で丸くなった。
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