x²-8x+7
@suzumetarou
x=0 僕は------①
僕はゆっくりと柵の上に身を乗り出した。白色に塗られている柵は所々剥げており、握っていた手には錆が付着した。ベランダと空の境界線はこの柵一枚しか隔てられてないというのに、どこか不安定だ。僕が今にでも手を離せば、重力にならい落ちていくだろう。きっとこの高さであれば死ねるはずだ。
これまで何度も躊躇ってきたが、足元には誰一人おらず、飛び降りるには絶好の機会だと僕は思った。
息を止めながら僕は、涙が徐々に流れていることに気がつき、柵から手を離した。
授業中が一番心安らぐ時間だった。
高校生において学校での一番嫌な事柄は勉強に違いないだろう。毎日、好きでもない教科に打ち込んで、成績の向上を目指している。当然、ランクの高い大学に行くには相当な量の勉強は必須であり、興味がなくともやらなければならない。授業中も教師の話に耳を傾け、黒板の記述をノートに写し、勉強に励まなければならなかった。
僕も別段、勉強を好きだとは思っていなかったが、先生が教壇の前で授業を行うことに対しては深く安堵していた。
勉強中は周囲から僕への攻撃が全くなくなるからだった。ここはある程度格式の高い高校でこれまで勉強に人一倍熱を注いできた奴らばかりだ。僕もその一員であり、だからこそ彼らは大学もより良い場所を目指すし、僕もその目標を掲げなければならなかった。
この高校を入学する際には、まさか自分がいじめの対象になるとは思っていなかった。いや、これをいじめと呼ぶのか自分には判別が付かない。夏休みを挟めば、お互いの誤解は解け、何事もなかったかのように思えるかもしれない。
だが、本心では僕はいじめが終わる日が来るとはおもっていなかった。
授業が終われば丸められた紙くずを投げられた。消しかすを頭にかけられた。不当に持ち物を奪われ、ゴミ箱にゴールを決める様に投げられたこともあった。授業が始まれば、クラスの喧騒が収まると同時にいじめは一応姿を消していく。
教師の目が介入すると、彼らだって大人しくなるのだ。内申書に響き、目指す大学の推薦がなくなってしまう場合だってある。先生の話を聞きそびれて、テストの点を下げるのも彼らは好ましく思わない。
しかし、いじめによる有様を教師が勘づかないわけがない。現に目の前で教鞭を垂れている数学の先生だってその空気には気がついているのだ。教室の扉を開くときに、いじめの痕跡を見ているはずだ。ゴミ箱から自分の散乱した筆箱の中身を取り出す奴が何処にいるだろう。誤って落としたとでも言うのだろうか。その光景を数学の担当である田中は一瞥もせずに黒板の前へと向かっていくのだった。彼らの思うままだったに違いない。
自分を大人しく扱いにくい生徒だとは思っているかもしれない。授業中、名指しで回答を求めても僕は首を振るだけで潔い意志を見せない。他の声のでかい生徒に解を求めれば、実際に答えらなくとも気立ての良い反応を見せ、授業の進行も滞ることはないだろう。
「4n²+6n+7=0」「cosx²+sinx²」「x²-8x+7」
黒板に綴られる問題はどれだって分かっている。けれど、声を大きく出して言うのはとても勇気がいる事だった。自分の中では出しているつもりでも、何度も聞き返され段々と声が無意識に小さくなっていく。しん、と静まり返った教室の中で、自分の声だけが教室を支配するのがたまらなく嫌だった。教師の目や周囲の目もとても耐えられるものではなかった。
以前、担任にも相談したことがあった。相談といっても直接的にいじめという言葉は口にせず、友人関係が上手くいかないと助けを求めた。要領を得ない説明だったと思う。
先生は軽くは相談に乗ってくれた。しかし、先生は僕の心持ちのせいだと考え、具体策は講じてくれなかった。高校生になってまだ半年も経っておらず、心身ともに高校生活に慣れていないのだろうと担任は言った。
事の発端が何か自分には分からない。気がつけば周囲の当たりが強くなり、LINEでは自分の悪口が書かれるようになった。教室では一部からしか危害はなかったが、LINEではほとんどの人が自分について悪態を述べていた。
きもい、死ね、気色悪い、ブサイク、どうしてこの学校にいるのか、一緒の空気を吸うだけで吐き気がする。
それでも、言葉や身体的な暴力はまだ耐えられることができた。まだいじめが始まって日が浅いからかもしれない。あと少しで夏休みが始まるからかもしれない。夏休みが始まっても課外が数週間に渡って組まれてはいるが、普段よりはどれだけマシだろうか。
ただ、物をなくすのだけはやめて欲しかった。僕がいじめられていることが親に知られてしまうのが一番怖かった。身体のあざや傷なら隠せても、制服につけられた足跡や不自然なほつれは、徹底的に隠さなければ母さんの目につくのだ。
両親は離婚し、自分には母さんしか居なかった。昼間は仕事をし、夜は家事に勤しんでくれている。昼夜自分の為に働いてくれて疲れていたとしても、息子の異変にはすぐに気がついてしまうのだ。
「また制服が破けているけど、大丈夫なの……?」
何が大丈夫なのか、母さんは言わなかった。母さんの優しさはそこに表れているのかもしれなかった。
「大丈夫だよ。友達とさ、おにごこっこをしているといつも引っ張て捕まえようとしてくるんだよ」
「そう、それなら良いけど……」
なるべく自分で縫ったりしていじめの跡は隠しているものの、たまに怪しまれていることもあった。母さんに僕は何事もなかったように言うけれど、母さんがいじめによって破けられた体操服や制服を縫う姿を夜中見てしまうと、申し訳ない気持ちになった。
母さんは少ない給料で、僕が行きたかった私立の高校へと行かせてくれている。中学の頃夢見て、勉強して入った高校だ。
心配はかけたくなかった歳もあるだろうが、母さんの顔に刻まれていくしわを見るたびに絶対に負担はなるべくかけたくないと僕は思った。
だから、学校に入学して数か月も経たないうちに学校をやめたいなどと、母さんには言えるわけがなかった。
夏休みに入る前に、本当に気が滅入ってしまって一日休んでしまった。体調は全く元気なのだけれど、周囲の圧力に少し我慢ができなくなった。母さんには風邪気味だと伝え、心配されたが病院に連れていかれるのだけは断った。
日中は気が楽で学校に行かなかったことに安らぎを覚えた。LINEのグループでは僕のことを誰も触れてはおらず、意識の範疇から僕は逸れたのかと思った。
しかし、四時ごろになると、自分の中に焦りが生まれ始めた。自分以外はいつも通りに登校し、授業を受け、部活などをこなし、帰宅するのだ。そして、明日も学校生活を遂行するために学校に向かう。そのルーティンワークを考えると、鼓動が早くなった。
今日休めたとしても、僕は明日には学校に行かなければならない。見るからに快調な僕を母親は不審がり、日が開けば開くほど学校へ向かう足取りは重くなるに違いなかった。教室の扉をくぐるときの視線、囁かれる陰口、誰が最初に僕に喋りかけてくるのか。その際に話す内容は想像もしたくない。
吐きそうになった。
「……嫌だ。学校になんて行きたくない……」
徐々に窓から見える景観が暗くなっていく。自分しかいない部屋が、明かり無しでは見えなくなっていき、しかし、自分以外誰も電気をつける者はいない。
仕方なく電気を点灯させ、なるべく笑えそうなテレビ番組を見るが、少しも気は晴れなかった。涙がどんどん零れて、母親が帰ってくる八時過ぎには僕は死のうと考えたのだった。
その日は結局死ねなかった。決断した頃には、ベランダから見る空は闇しかなく、自分は恐怖を覚えた。母さんもちょうど帰宅し、その日は踏みとどまったのだ。
当たり前に次の日も学校に向かう気力はなかった。
その日は金曜日で、明日明後日には土日が待っていた。その日は幾分か気持ちは楽になったが、ベランダから柵を乗り越えようと努力した。だが、いくら頑張っても母さんが都合よく帰ってくるし、足元には大勢の人が行きかうことが多々あり、踏み込めずにいた。
月曜日は学校に行った。僕は勇気を振り絞った。誰もLINEでは僕のことを触れていなかったから大丈夫だと思ったのだ。
しかし、何も変わっていなかった。
周囲の対応は何一つ休む前と変わらなかった。夏休みまで僕は耐え続けた。家のトイレで吐き続けた。枕元では何度も涙を流した。
「暗くて気持ち悪い奴だ」
毎日言われた言葉だった。
もう、何もかもが駄目だった。耐えられなかった。明日から学校があると思うと、全身が総じて気だるくなって、もう何もかもが嫌になった。
死ぬのも怖かった。
それでも、このまま生きているよりはどれだけ楽だろうか。
そして、僕は柵を乗り越え飛び降りた。
落ちながら僕は、何度も母さんに謝った。
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