洗濯ときみ

@kenmika

第1話

 わずかなアラームの振動で、ゆっくりと目を開けた。日が昇るのを感じながら待ちわびていた、午前五時三十分。むくりと起きて、布団の温かさを抜け出した途端に襲ってくる冷気に一つ、身震いする。合宿所での朝は冷え込むものだ。

 抜き足差し足で洗面台に近づき、静かに蛇口を回した。手のひらに溜まるほどの水を顔にかけ、一番近くにあったタオルを見ずにつかみ、とりあえず拭く。よく見ると、この可愛い花柄のは、先輩のだ。あとで謝らなければと頭の中でメモを残し、おそるおそる鏡を見上げた。

 案の定、ひどい顔だ。反転世界の自分に触れて、思わずため息をついた。あちこち飛び跳ねている剽軽なくせっ毛に、重苦しく痕を残す目の下の隈。指で頬をぐにっと押し上げ、笑顔を作ってみる。色が入らない雪色の笑みは、気のせいか少しやつれていて、とてもではないけれど健康的とはいえなかった。指をそっと離すと、押し上げられていた口角はそっと落ちる。へたくそな笑顔だ。

 椅子にかかったパーカーをひっつかみ、洗面台の端にあった鍵を取る。大きなあくびを一つして、洗濯物を担いで下に降りて行った。

 今日もまた、彼は来るのだろう。


 **


 百円玉の二枚目を投入したところで、彼はやっぱりやってきた。寝癖は、うち以上だ。

 「はよ。」

 「・・・はよ。」

 不機嫌、というより単純に眠そうな声で彼が言う。手には大きな洗濯ネット。

 「今日はいつもに増して量多いね。」

 ちらっと自分の手元を見て、彼は小さなため息をついた。

 「他の部屋のやつらに一緒にやれって、頼まれた。」

 「なにそれ、お駄賃は。」

 ふざけて聞くと、彼はニヤリとして答えた。

 「バナナ1本。いい取引だと思わないか、マネージャーさん。」

 子供っぽい笑みをこぼす彼に、私は心臓が早まるのを感じた。ちゃりんちゃりんと、硬貨が落ちるのとは対照的な、暖かくて優しい音の加速だ。

 五十分スタートという文字が点滅し、カウントダウンを開始する。最初はゆっくり、次第に大きくなっていく振動を床に鳴り響かせる洗濯機に、彼は背中を預け、寄りかかるようにして地面に座った。そのとき若干顔が引きつったことに、気づかないわけがなかった。

「怪我、増えてきたね。」

 さっと体を見渡すだけでも、十か所ほどの擦り傷や切り傷、三か所のテーピング、そして二か所のカッピング痕。一週間の合宿の五日目、彼含め部員は全員満身創痍だ。彼は恥ずかしそうに肩のカッピング痕を隠した。

「これくらい、どうってことない。ラグビーやってれば、これくらい当然。」

「当然じゃないよ。ほんと、よく耐えられるよね、そんなの。」

 指さした彼の膝は、扱い注意のワレモノのように分厚くテーピングで保護されていた。ここ数日、彼の膝の調子が麗しくないことくらいは、知っていた。ついでに、メディカルトレーナーには渋い顔をされながらも、頼み込んでなんとか毎日ガチガチに固定してもらってプレーしていることも。本当は、限界がかなり近いことも。

 彼がふいにそっぽを向く。

「平気だ」

 私は彼に詰め寄る。

「平気じゃないよ」

 彼が頭をガシガシ掻いて言う。

「おれが耐えればみんな迷惑しない」

 私は必死に訴える。

「あなた自身が苦しむでしょ」

 彼が唇をきゅっと結ぶ。

「別にそれはどうでもいい」

 私がうつむく。

「そんなことない」

 彼が小さな声でささやく。

「誰もそんな心配しない」

 私はもっと小さな声でささやく。

「するから」

 彼が柔らかい目でこちらを見る。

「・・・じゃあ、誰が?」

 ほぼ声にならないような静かな声が、鼓膜を震わすか震わさないかの瀬戸際にあるような声が、洗濯室に放たれた。大音量の咆哮で洗濯を回し続ける機械の音にかき消されそうな、本当に細々した心の叫び。

 でも、彼の声を、私が拾えないわけがなかった。

 彼のほうを振り向いて、じっと目を合わせて。手を伸ばし、彼のつんつんした寝癖を直してあげて。その強くて脆くていまにも崩壊してしまいそうな彼のことを抱きしめて。私が、と言いかけて。

 息が詰まった。ゆっくり開く口を、またそっと閉じて。その言葉は、心の奥底に仕舞って。本当に言うべきことを取り出して。笑いのマスクを宛がって。

「あなたの、彼女でしょ」 

 彼は、黙って私を見る。諦めと悲しみと、そしてなぜだろう、どこか裏切られたような顔もしていた。絶対に顔を崩してはだめだ。崩したら、きっと泣く。

「きっと今も心配してるよ、彼大丈夫かなーって。ちゃんと連絡してあげてるの、しなきゃだめだよ。」

 にっこり笑って言う私を見て、彼は静かに立ち上がった。あの弱そうな彼はもう消え去っていた。いつも通りのポーカーフェイスで、今日も一日、無理して頑張っていくのだろう。

「悪かったな」

 そう呟くとともに洗濯機は無慈悲なアラーム音をたてて止まる。彼の洗濯機のほうだ。

「えー、なにが?謝るようなこと、してないでしょ」

 ふざけようとしてきっと震えていたであろう私の声を、彼はしばらくなにも言わずに、ただただ受け止めた。そして洗濯物を回収すると、洗濯室のドアに手をかけた。

「ほんと、へたくそな笑顔だ。」

 寂しそうなその声は、むなしく部屋中に響き、そして消えていった。

 彼が出ていくと、私は長い息を漏らして顔を膝にうずめた。考えずには、いられなかった。

 ああ、もし私と彼が、選手とマネージャーという立場でなければ。もし、部内の立場とか関係とか、全部無視できたとしたら。もし、彼の彼女みたいに、なんの縛りもない私だったら。

 彼は私を、選んでくれたのだろうか。

 私の洗濯は、いつまでも終わりそうになかった。

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