笛吹けども踊らない
蟻野 くう子
毒を食らわば皿を割られる
第1話
_神は死んだ。
この世の創造主たる神はもういない。
人間と、それを循環させる為に数々の子を創り出した母なる神は。
そしてこの世界において唯一の神は、もういない。
なんとも奇怪なことに。
_死因は過労死である。
ここは旧時計塔、と呼ばれているらしい。廃れてしまったが相当手の込んだ、この街の象徴として造られたものだったようだ。
剥き出しになって錆びれた鉄筋コンクリートに触れれば、赤茶色の破片がばりばりと飛び散った。
私の身長よりも大きな歯車の群は、もう止まってしまってはいるが、複雑に絡み合っている。
初めて見たときはその構造に美を感じて興奮した。見慣れた光景になった今ではただの背景である。
それを横目に、飛翔。
舞い上がった先には曇天。
力に物を言わせ地面にのめり込ませたパラソルの先を軽く蹴って角度を整える。そこにしゃがんで、ポケットを探り、くしゃりとした箱を無造作に開け、ジュポッという音と共に煙草に火をつけた。
それを手に預け、口付ける。
煙をふはぁと吹き出して、ふわりと舞う白いもやを見やる。
お前って煙草みたいだよな。
誰かの無神経すぎる言葉が脳裏に蘇って、ああなるほど天使に見えんこともないなと苦笑した。
吸い込むものより有害物質の多く含まれたその副流煙が、神の啓示を届ける存在であると "信じられていた" 「天使」だなんて、なんという皮肉、なんというブラックジョークであろうか。
久しぶりに会ったらとりあえず顔を一発殴りたい。
パラソルの陰で、先ほど購入した雑誌をめくる。
「いやあ、相変わらずカラー写真が綺麗なもんだよな」
月刊誌であるそれを眺める時、それは至高の時間だ。なんたって馬の写りがいい。毛並みがはっきりしていて、艶やかで、疾走感が溢れ出ている。
なんとまあ毎月、美的なものにあまり興味のない私であるが、惚れ惚れとする写真技術である。
写真の提供者の名はいつも伏せてあるが、写真集なんてものが出たらどれだけかかろうとも金を叩いて購入したいほどだ。
_時間を忘れ、ひたすら耽る。
一筋の強い風が吹いて、写真の馬が暴れる。羽ばたこうとするページを抑えて、ふと我に帰れば、何か足りないような気がしていたのを思い出した。
「しまった、忘れてた」
これを酒肴にして呑むのはとても良い、良いものなのだ。
さあ取りに行くか、スルメイカは残っていたっけ、
と、ひと伸びしようとして_
「_
ひと伸びしようとして、顔あげた先に、人がいた。_人間がいた。
「は、……えっと?」
脳が混乱して唖然とした声が出た。
私の孤高の城である、この旧時計塔という場所の、目の前にいるはまさしく人間であり、悪魔でも天使でもない。
街を見渡すことのできるほど高いこの塔のしかも頂上へ登ってくるには、かなりの時間を有する。内部の、下層から空まで突き抜けた穴により、翼を持つ種族である天使の私は移動しているが、翼を隠している気配もない彼はまさしく人間であるはず、なのだ。
どうやってここまで、という声は驚きで喉に詰まってしまう。年齢は三十路後半あたりだろうか、たまに見かけるあの制服に身を包んだ目前の男は極めて冷徹な声で話を続ける。
「
ああ。うん。
色々と、もうそりゃあ様々と、悟る。
彼が着ている制服は、
よって、私は。
「まず、不退去罪。
旧シンボルタワー、俗に旧時計塔内にての不当に住居、管理者に退去を迫られるも中央にかかっていた梯子を壊して登らせないようにして、それを拒否。梯子の破壊により器物破損罪も追加される。
後、カップ酒専用自販機を禁止されている魔法を利用して壊し、塔内に持ち込む。特定魔法使用禁止法を犯し、窃盗罪にも課せられる。そして_」
そう、取り締まられる側なのだ。
言い終わるのを待たず、消していた翼を大きく広げる。パラソルをも凌駕するほどの、煙草の煙なんぞに例えられた純白のそれを羽ばたかせ、後方に吹き飛ぶ。巨塔から落ちながら、またここもダメになったか、新しい住居を探さなければと考えていると、何かが、
何か人の形をしたものが、広い曇天を背景に……高速で_え、
高速で落下、してくる。
「嘘、嘘でしょ、有翼人じゃないだろ!?
どうするつもりだ、お前!」
すると、彼は身を翻して、空中を落下しながらも塔に近づいて、出っ張っていた部分のコンクリートを掴み、急停止する。そして、こう叫んだのである。
「手を離すぞ、ここで止まらなければ貴様は殺人の罪も問われることになるからな!」
殺人_思考が否が応でも身体を止める。ぎゅん、と翼を広げ、急降下をやめ全ての重力を受け止める。ものすごい負荷であったが、空中浮遊をなんとか続けるしかなかった。だって、今この男が発した言葉、それの全てが問題だ。
思わず叫ぶ、
「はあああ!?!?!?
自殺だろ完璧に、ていうか超人か!?
そのスピードで落ちてんのに止まれるのはおかしいでしょ!?」
「逃げるなら離すぞ。はい、3、2_」
「まだ1のカウントしてないでしょなんで手を離してんだ!?」
数も数えられないのかフライングで、ぱっ、と呆気なく手を離したその男は、重力に身を任せ落下を再開する。
ほんとに、ほんとにか、こいつ。
嘘だろ、と目を擦るが落ちているのは事実なのだ、あっという間に私を抜いた男はどんどんどんどん、考えている間にも街並に近づいて行く。
確かに、私がこの塔に住み着いているのは少なくとも近隣住民は知っている。彼が知っていたと言うことはお偉いさんもある程度情報を掴んでいるのだろう。そしてこの塔へ派遣された男が落下死_それは、読み取られるものは。すでに罪だらけの私に心証などない、信じてもらえるわけもないのだ。
_ああ、もう__わかったよ!
地面に向かって力強く飛翔、翼に魔力を回す。風を切るように飛ぶものの_男が落ちるスピードは増していくだけだ。
「しまった、間に合うか_!?」
今になって焦り出しても遅い、この高さで落ちたならば天使も悪魔も死ぬ、もちろん人間は即死だ。
しかし、そいつは相変わらず無表情で、青の飾り紐が揺らめく、塔に刺さっていた真っ赤な旗、その棒の部分を_いやどういう握力と精神をしているんだ!? ぶら下がった。棒は木製だった、まばたき数回分もない、ほんの数秒でもちろん折れた。
_だが数秒、数秒稼げた。
建物の屋根に直撃する直前、ほんのすれすれのところで、
「届けッ!」
無防備にだらんとした男の、制服の首根っこをグッと掴むことに、成功した。
成功したのはよかった。
「重たッ!」
片手だけじゃ足りず、両手で首根っこを掴むもの、じわじわと、そして着々と、彼は低い呻き声をあげる。
これは持ち方を変えるべきか、と考えて、ああ、そうか。本来の目的を思い出す。別にこいつを塔の上に戻す必要もない、私は自殺願望ましましのようなこいつから、殺さずに逃げたいだけなのである。小癪な奴め。
ならば、ということで。
予告なしに、両手をパッと離す。
「うがッ」
汚いものに触れた時のように手をぱんぱん、とはたく。驚いたような、苦しみから解放されたような声をあげた男に満足して、着地寸前のそれから逃れるため羽をぐっと伸ばして、男に背を向けた。
その時、目の端を掠めた風景を、私は忘れないだろう。
それは、信じられないスピードで振り返った。空中なはずなのに、身をぐるりと翻して、そして、腕をぐっと伸ばしたのだ。伸ばしたのだ_!
「な、なっ、」
足を、何かに掴まれる。
男の体重が、飛ぼうと準備をしていた私にかかる。それは、考えをしていなかったことで、身構えていたわけでなく、女の身である私が急なその重みに耐えられるわけもなく、
「ぎゃッ」
短い悲鳴をあげるとともに、瓦の欠ける音が、がしゃんと鳴る。だが、痛みはない。目の前が真っ暗で、何が起きたかわからない。まさか今の衝撃で、私は死んだのか、
_いや、死んでいたほうがよかったらしい。
背に温もりを感じる。羽の下に、それは腕を通して、私にかかるはずであった衝撃を吸収していたようだ。わからないが、多分そうなのであろう、そうでないと目の前に男の顔があるわけがなく、その鮮血のような赤の瞳に覗き込まれてるわけもなく、いや近い近い近い!
「捕まえたぞ、話を聞いてもらう。
まだ罪状と、用事が残っているからな」
「……は、はあ」
_のちに、私はこう語る。
息がかかるほどの距離であったが、驚くほどときめきなど感じなかった。もうなんか呆れというか理解できないという気持ちに覆われていた。理解できないことをする相手への怖さもだいぶあった。
そして、だ。
多分あいつ、助けなくても生き延びてたわ。自分が愚かで笑いが出るわ_と。
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