第7話「得手不得手の問題だ」
「もうすぐ滝たちが戻ってくる。あいつらはすぐ気を張り詰めさせるから、ゆっくり休ませないとな。もしかしたらイーストは、人間たちが動きづらい時間をあえて狙ってきているのかもしれない。……睡眠や食事が必須であることに気づいたのかもな」
レーナが深々と頷くのを、リンは不思議な心地のまま見つめた。レーナは一体、自分がどの立場であると認識しているのだろう。
そう疑問に思いつつ、突として皆が空腹であることに気づく。もちろん、リンもだ。そうか、本来ならそろそろ夕食の時刻だ。けれども食事担当のレンカたちはまだ外にいる。
「じゃあ私たちが代わりに準備しましょう」
そこで忽然と声が上がる。後ろにいたジュリだ。リンが勢いよく振り返れば、満面の笑みを浮かべたジュリが隣のよつきの腕をぐいと引っ張っていた。突然のことに戸惑ったよつきは、眉尻を下げつつジュリを見下ろす。
「……え? わたくしもですか?」
「正確に言うと、私たちのチームです。リンさんたちは今晩待機ですから、武器を置いていくわけにはいかないでしょう? そうなると、私たちのチームで基地に残っている人たちが適任です」
ジュリは鷹揚と首を縦に振った。確かに、リンたち第二チームが本日の夜の待機当番だ。ジュリたち第三チームは明日の朝からの待機である。となると、今日はそのように臨機応変に対応した方がいいだろう。
疲れているレンカたちにこれから夕餉の支度をさせるのは、さすがに気が引ける。
「そうとなれば、レンカ先輩が戻ってくる前に動き出さないと駄目ですね。リンさんサホさん、ここはよろしくお願いします。すぐに食堂に向かいますので」
「はいはい、任されました。そっちはよろしく」
よつきの背を押すジュリへと、リンは苦笑を向けた。こういう時のジュリはなかなか強引だ。そこがよいところでもある。
扉の方へ向かうその後ろ姿を見送りながら、リンはにんまりと笑った。先ほどまでの空気はどこへ行ったのか。急に和やかな雰囲気が辺りへと満ち始める。
「そうそう、その調子。長い戦いになるのだから、切り替えが肝要だ」
レーナが笑顔でそう呟くのに、異を唱える気にはならなかった。リンたちは人間なので、どんなに努力したところで衣食住の悩みからは解放されない。それは無世界と神魔世界の行き来で身に染みるほど理解している。
「そうね。だからあなたもちゃんと休んでね」
大袈裟に肩をすくめたリンは、ちらとレーナへと一瞥をくれた。いつか面と向かって言おうと思っていたことだった。すると自分に返されるとは思っていなかったらしく、レーナはきょとりと目を丸くする。彼女を出し抜けたことに、リンは密やかに満足した。
「まさか自分はいつも例外だなんて、梅花みたいなこと言わないでよ?」
寝なくてもいい。食べなくてもいい。それはリンたちから見たら実に羨ましいことだ。しかしだからといって休息が不要とは考えにくい。ずっと神経を尖らせていられる生き物がいるとは思えない。
そんな思いで付言すれば、レーナは何か言いたそうな顔をしながらもそれを飲み込んだようだった。もしかしたらアースがじっとこちらを睨んでいたせいかもしれない。
彼女がいつでも力になってくれると信じ切れたわけではないが、それでも今の神技隊にとっては、命綱にも等しいことはわかっている。レーナの力、知識は必要だ。だから彼女に倒れられるようなことがあっては困る。
ジュリたちが中央制御室を出て行く姿を横目に、リンは胸を張った。噴き出すのを堪えたレーナは、観念したように相槌を打った。
灰色の塔からの眺めは相変わらずくすんでいた。煤けた大地を撫でる風の音がかすかに聞こえる程度で、ここにいるとまるで世界に自分一人きりのような気分になる。
しかし今日ばかりは違った。塔の最上部へと近づいてくる気があることに、イーストは口角を上げる。
この気はフェウスのものだ。色々な雑用を押しつけてしまっていたが、それもついに片付いたらしい。転移を使って飛んでこないということは、特に急ぐような情報は掴んでいないのだろう。
「イースト様」
「お帰り、フェウス」
部屋の前で足を止めたフェウスに向かって、イーストは声をかけた。この塔に扉というものはない。ゆっくり振り返れば、見慣れた顔がすぐに視界に入った。
「はい。ただいま戻りました」
明かりの乏しいこの塔では、フェウスの髪はほとんど黒に見える。瞳も深い黒だ。浅黒い肌の筋骨隆々とした見た目は、イーストの配下には相応しくないと揶揄されがちだったが。
しかしイーストにとっては大事な部下の一人だ。先の大戦で直属の部下を次々と失ったが、彼だけは生き残った。
「どうだった?」
「それなりに、です。イースト様の復活に皆が沸いています。少し浮き足立っているのが気がかりですね」
「ああ、そうだね」
近づいてきたフェウスはその場で片膝をついた。そうするように言いつけたことはなかったが、フェウスはそう振る舞うのを好む。それは他の魔族への示しなのだという。
指揮系統のない混沌の時代もよく知っている彼だからこその態度なのだろう。魔族内での諍いは、最も忌むべきものだ。
「ところで。ミスカーテが動いているようですが」
つとフェウスは顔を上げた。その黒い瞳に懸念と剣呑の色が宿っているのが、薄暗い部屋でもすぐに読み取れる。何よりも気が雄弁だった。
イーストは首を縦に振る。ミスカーテとフェウスの仲が特段悪かったという記憶はないが、ミスカーテは大概の魔族と相性が悪いから致し方のないことだろうか。
「ああ。私の下につきたいと言ってきたからね」
「大丈夫なのですか?」
フェウスの精悍な顔が歪んだ。その気から伝わってくるのは真に案じているという胸中だけだ。実際、危ういことなどイーストも自覚している。あの男はプレインの思想を継承しているだけでなく、周囲への影響を意に介さず動くのが厄介な点だ。
「あれは私がどうこう言って動かせる者じゃあないからね。勝手に動かれるよりは、一応報告を義務づけておいた方がましだろう。それに情報はくれるというから好きにさせている」
イーストは空色の髪を耳へとかけた。実際、ミスカーテの情報は既に役立っている。地球にいる技使いという存在のことを知れたのもミスカーテのおかげだ。
だからイーストはまず技使いについての情報を集め出した。星々に潜伏している魔族は多く、技使いから精神を集めようと躍起になっていた者たちもいたため、さほど時間はかからなかった。
「そうでしたか。さすがはイースト様」
「私は状況を把握してからでないと動けないからね。情報なくとも動けてしまうのはレシガくらいだろう。彼女はそれでも何とかしてしまうんだろうけど」
イーストが肩をすくめれば、まなじりをつり上げたフェウスが勢いよく頭を振った。その太い首に巻かれた布までがつられて揺れる。
「イースト様、そのような弱気な発言は……!」
「弱気とは違うよ、フェウス。得手不得手の問題だ」
微笑んだイーストは軽く腕を組んだ。フェウスはどこかイーストを絶対視している節があるが、そこだけは否定しなければならない。イーストは本来はただの配下であり、何者にも劣らぬ力を持っているような存在ではない。
「自分の力を正しく把握することは弱気とは言わない。レシガのあれは半分は勘だ。単に私にはそのようなものがないという話だよ」
イーストはついと窓の外へ一瞥をくれた。この薄暗い灰色の塔をも一気に華やかに彩ってしまう、彼の片割れ。彼女は存在そのものが今や魔族にとってのある種の象徴だ。ブラストを手懐け、ラグナを手玉に取ることができるのも彼女の特権である。
奔放であるのに最後には慈悲深く手を伸ばす彼女のことを、多くの者は救いのように思っている。彼女がもっと表に出れば事態は変わっただろう。そう思う場面は多くあった。
ただ彼女は極度の面倒くさがりなので、ほとんどいつも魔族界の奥に引っ込んでいる。
「だから私には情報が必要なんだ」
肩越しに振り向いたイーストは瞳を伏せた。彼女を動かすためにも情報は必須だ。彼女の興味を惹く何かを用意することが、彼の勤めといってもよい。そのことを理解している者はおそらく少数だろう。
「情報であれば、アスファルトに吐かせればよいのでは?」
突として、フェウスの声に鋭さが増した。フェウスはアスファルトのことを毛嫌いしている。かの科学者のイーストへの態度が気にくわないのだという。
イーストとしては致し方のないことだと思うのだが、フェウスには通じないようだった。
アスファルトは本来なら、イーストたちと同等の位置に立っていても不思議ではなかったというのに。――ただ彼も興味のないことには全く関心を示さない男だったという、それだけのことだ。
「アスファルトか……」
「あやつは地球に降り立ったのでしょう?」
「そうだね。でも彼を力尽くでどうこうするのは得策じゃないよ。嘘を吐かれても検証のしようがない。大体、こちらの戦力も整っていないんだ。無理をせずにレシガの復活を待った方がいい」
フェウスが苦い顔をするのはわかっていたが、そう答えるより他なかった。
地球で最も警戒しなければならないのはアスファルトの申し子たちだが、その情報をアスファルトがくれるとは到底思えなかった。彼は身内を売る真似を一番嫌がる。逆に言えば、そこに触れないようにすれば交渉の余地がある。
「レシガ様ですか。いつ目覚められるのでしょう」
「彼女なら近々蘇るよ。私にはわかる。だから目が覚めた彼女の機嫌を損ねないよう、準備が必要だね。そのために協力して欲しいんだ、フェウス。少し面倒なお願いになるけれど、引き受けてくれるかな?」
ふわりと微笑みかければ、フェウスの気に喜びが滲む。仕事を頼まれるのが嬉しいというのはイーストには理解できないことだったが、上司不在の期間をどう過ごしていたのかと考えれば、その気持ちを察することはできた。
イーストは長らく、バルセーナたちの顔を見ていない。その声を聞いていない。頼りとしていた上位の存在を失うのは、まるで足下が消えてしまうかのような不安感を生む。
あの穏やかな面差しから紡がれる言葉を、イーストたちはどれだけ切望していることか。ただそれだけのために、この長い戦いに身を投じているようなものだ。
「ただ会って話を聞きたい。何が起こっているのか知りたいだけなのにね」
独りごちるよう囁いた声は、フェウスの耳に届いただろうか? 不思議そうな視線を向けられ、イーストは自嘲気味に笑った。
これこそがまさに、フェウスが嫌う弱気なイーストだ。部下に見せてはならない姿だ。この思いを吐き出すことは止めようと誓ったのだが、それでも時折脳裏をよぎるのだけは止めようがなかった。
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