第四章 甘い勘ぐり

第1話「これだけ生きていて、何もないわけはない」

 早朝の風は一段と冷たい。屋上の手すりにもたれかかったレーナは、そっと鼻歌を口ずさんだ。

 いつ耳にしたのかさえ朧気になっている歌だ。どこかで出会った人間が街頭でずっと歌っていたものだったはず。それをこんな時に歌ってしまうのは、この景色が記憶を刺激するからだろう。

 一面に広がる緑の向こうには太陽が見える。朝を象徴する目映い輝きが、時の流れを告げている。この時刻になると大概屋上に出てくるのは、目に見える時間というものを確認するためだろうか。

 ともすれば希薄になるこの感覚。人間と共にいる間は決して忘れてはならないもの。夜に人の気配が途絶えると、急速に時間の流れが変わってしまう。それを正すための儀式のようなものだった。

「もう行く時間か?」

 だがそんな儀式を遮る者が現れた。背後に出現した気配を感じて、彼女はそう問いかける。振り返る必要はなかった。この気はこのところよく感じ取っている。

「目敏いな」

 彼女がゆっくりと振り返れば、屋上にたたずんだシリウスが苦笑を浮かべていた。朝の風に青い髪を揺らすその姿は、人間ではないことを如実に物語っている。

「言うつもりはなかったんだが」

 わざとらしく肩をすくめた彼を、彼女は笑いながら見つめる。そして手すりに背をもたせかけた。

 本気で黙ってこの星を出て行くつもりだったのであれば、こんなところには寄らない。いや、本当はそのつもりだったのかもしれないが、彼女が外にいたから好都合だと思ったのだろうか。

 ――本来の予定よりは少し早かった。まだ大会は十二日目だ。

「黙って出て行くつもりだったのか? つれないな」

 彼女は悪戯っぽく口の端を上げた。基地の中に入れば神技隊に気づかれるかもしれない。しかし外ならばその可能性は低い。この基地はホワイトニング合金、エメラルド鉱石を使用しているために、気が伝わりにくいのだ。大体、まだ早朝だ。この時刻に起きている人間は限られている。

「人間たちに気負わせても仕方がないからな」

「さすがはお優しいシリウス様だな」

 少しおどけてやれば、あからさまにうろんげな視線を向けられた。彼はこういう時、率直な表情を選ぶ。そうしてもこちらが気分を害することがないとわかっているせいだろう。

 彼の周りにいるのは、彼の言動に一喜一憂する者たちばかりだ。そういう場所では、妙な気遣いまでしなければならない。

「お前にそのように言われるのは気持ちが悪いな」

「ひどいなぁ。呼ばれ慣れてないわけではないだろう?」

 くつくつ笑い声を漏らすと、彼はますます嫌そうな顔をした。かつての呼び名を口にしてやってもよかったが、それは本題からずれるので止める。彼女が揺れる髪を手のひらで押さえれば、彼は小さなため息をこぼした。

「慣れの問題ではない。……お前がしおらしくしているなら、考えないでもないが」

「そんな言い方ひどいですね、ってか?」

 小首を傾げて彼女は破顔した。どうでもよい言葉ばかりを交わしているのは、ここが分岐点になるとわかっているからだ。彼が宇宙に発つ。つまり、ここから明確に時が動き出す。繰り返されているだけのように思えていた日々は本日で終わりだ。

 彼がこの星から姿を消したことは、いずれイーストにも伝わるだろう。その時魔族がどう動くのかが、今後の鍵だ。

「しおらしくしていて欲しいなら考慮しておこう」

 深く息を吸い込んだ彼女は、手すりから背を離した。そして肩越しに草原を見遣って口角を上げる。

 少しずつ昇りつつある太陽に染め上げられて、陽光を浴びた草木が揺れている。この向こうに多くの人々が暮らしているはずだ。ここで再び大戦が生じたら、この星は負の気で満たされることになるだろう。

「シリウス様がいなくなったら、彼らはさぞ狼狽えるだろうからな」

 振り返った彼女の言葉を、シリウスは苦虫でも噛みつぶしたかのような顔で聞いていた。それだけで、彼の交渉が決裂済みであることは明らかだった。あの頭の硬い神の説得に失敗したらしい。

 それでもシリウスは宇宙へ行くのだろう。――独断で、黙って。

「納得はしていないんだろう?」

「するわけがないだろ。強行突破だ」

 彼は軽く鼻を鳴らした。彼女は楽しげに笑いながら逆側へと首を傾け、そして一歩を踏み出す。風に煽られた髪がまた視界の端で揺れた。遠くでさえずる鳥の声が、不意にこちらまで届く。まるで待ちわびた朝を迎える喜びを歌うかのようだ。

「そうなるとアルティードは大変そうだな」

 彼女は空を仰いだ。苦労人代表のようなあの神が、さらに苦悩する姿が目に浮かぶようだ。シリウスが皮肉を口にしないところをみると、さすがにそのことは申し訳なく思っているらしい。

 もっとも、そう仕向けたのは彼女なのだから、他人事のような顔はできない。

「まあ大丈夫。こっちはどうにかする」

 視線を下げた彼女は頬を緩めた。彼にわざわざ地球を離れてもらうのだから、その分の危険性は全てこちらが引き受けるつもりだ。イーストがどこまで積極的に攻めてくるのかは、蓋を開けてみないとわからない。

「いや、今のお前にそこまで期待はしていない。せいぜい私が戻るまで時間稼ぎをしてくれればいい」

「ふぅん? お優しいシリウス様は、われの心配までしてくれるわけだ」

 また一歩、足を踏み出した彼女はにんまり笑った。シリウスは左右非対称に瞳を細めたが、否定はしなかった。確かに、彼から見たら現在の彼女は頼りなく思えることだろう。使える技に制限があるのは痛いところだ。

 彼女も今の自分に慣れるまで少々時間を要した。――ミスカーテの毒を浴びてしまったのは、昔の感覚が残っていたからだ。あのような失態はもう繰り返さない。

「馬鹿を言え。大体、ずいぶん回りくどいやり方をしているから見ていられないだけだ」

 呆れかえったような顔をして、シリウスは大袈裟に嘆息した。そう指摘されて彼女は振り返る。

 そんなつもりはなかったが、以前よりも慎重になっているのは確かかもしれない。何か生じた時に自分の力で手助けできる部分が限られているのだから、詮のないことだ。

「それはそうかもな」

 足を止めた彼女は、もう一度空を見上げた。この先にイーストたちがいる。そう思いながら見つめていても、この星の空が青くて高く、美しいことに変わりはなかった。魔族界で見る空の薄暗さとは違うし、神界のあの白い空とも違う。ここが人の住む場所であると知らしめてくれる色だ。

「……われは、あれから変わっていないか?」

 ついそんな疑問が口をついて出たのは、かつて様々な星で見た空を思い出すからだろうか。どの星も地球に似せた環境が作られていたが、それでも空の色は微妙に異なる。この抜けるような青はここでしか見られない。地球の象徴のようだった。

「少なくとも、私からはそうは見えないが」

 怪訝そうなシリウスの声に引き寄せられるよう、彼女は視線を戻した。探るような彼の様子に、心底安堵する。彼の目に決定的な変化が映らないのならば一安心だ。彼女はゆっくり首を縦に振った。

「それなら大丈夫だ」

 変化はいつだって誰にでも訪れる。時の流れから取り残されているように見える神や魔族にだって、決定的な瞬間というものはある。もちろん未成生物物体にも。

 長く生きていればどうしようもない別れや傷は増えるばかりだし、至らなさを痛感することも多い。人間たちは不老不死に憧れるようだが、うまく忘れることができる力を持った者だけが幸福になれるのだ。その他の大半の者は、手のひらからこぼれ落ちたものにばかり気をとられていく。

「大丈夫だから、そんな顔をするな」

 ふわりと微笑めば、彼はなんとも言いがたい複雑そうな面持ちになった。いけないなと彼女は反省する。

 強い神や魔族というのは、得てして気の変化に聡い。つまり、相手の感情にも敏感だ。強すぎる感情は周囲をも揺さぶる。伝染する。それは時としてとんでもない連鎖を生み出す。

「――何かあったのか?」

 問いかける彼の声音がわずかに強ばった。どんなに毒を吐いたところで最後にはこうして気に掛けてくるのだから、かの後輩たちから慕われてしまうのだろう。根本的なところが優しいのは、負の気を浴びやすい者の定めなのかもしれない。

「何もないわけがない。色々ある。それはお前だってわかるだろう? これだけ生きていて、何もないわけはない」

 だから彼女はそう答えるにとどめた。宇宙で人と交わりながら動いていれば、いつ何が起きたとしても不思議ではないと。あくまで一般論で。

 それでも伝わってしまうものはあったようで、彼の双眸には依然として懸念の色があった。余計な情報を与えてしまったと、彼女はかすかに後悔する。それでどうこうなる彼ではないが、それでも気遣いなど減らしておきたいところなのに。

 これ以上の言葉は全て失言になる。ふわりと一歩を踏み出して、彼女は彼の腕にぽんと触れた。そしてその横をすり抜ける。

「ありがとうな」

 肩越しに振り返りそれだけを言い残せば、彼が大仰に首をすくめる気配があった。こちらが詳細を語るつもりなどないことは、とうにわかっているのだろう。

 過去の話を蒸し返すことに意味はない。傷をなめ合うことにも意味はない。今必要なのは、未来に向けた決心だけだ。そこにいらぬ不純物を混ぜてはいけなかった。

「宇宙は任せた。お前なら特に問題がないと信頼している。ここに戻ってくるまでには、神技隊をもっと強くしておくよ」

 ひらりと振った指先に、髪の先が触れた。彼が何か言いたげに口を開くのはわかったが、彼女はあえて無視して前方を見据える。

 朝を迎えた世界で、次々と鳥たちが動き出している。青空を行く小さな点が増えていくのを目にして、彼女は口角を上げた。どんなに不安に思っても時は止まらない。生き物は眠り、目覚め、動き、腹を満たそうとする。人あらざるものたちは――精神を満たそうとする。

「愛情の……振りまきか……」

 ぽつりと背中に降りかかる呟きにも、彼女は気づかない振りをした。幸いにも気まぐれに吹き荒んだ風が、その声をすぐに押し流してくれた。




 柱にもたれてぼんやりと庭を眺める時間は、数少ない安らぎの時だった。

 朗らかな光を浴びて輝く白い庭を、ミケルダはなんら感慨もなく目に入れていた。何かを考えようとすればするほど余計な思考が湧き上がってくる。それらを振り払おうとすると、どうしても頭を空っぽにする必要があった。

「ミーケ! なんか元気ない?」

 そこへ突然場違いに元気な声が頭上から降り落ちてきた。驚いて視線を転じれば、回廊の上に浮かんだカルマラがこちらを見下ろしている。短い髪が逆立って奇妙なことになっているが、彼女は気にした素振りもない。

 降りるようにと目で合図すれば、彼女は一回転して着地した。軽やかな靴音が白い床で反響する。

「カール。いきなりそんなところから現れるなよ。びっくりするだろ」

「でも気は隠してないわよ? ミケがぼーっとしてるのが悪いんでしょ」

 一応注意をしておけば、左手を腰に当てた彼女はびしりと人差し指を突きつけてきた。その指摘はもっともだ。お互い気を隠していないのだから、探す気になればどこにいるかなどすぐにわかる。単に彼が気を探ることもしていなかっただけだ。

 ごまかすように頬を掻きつつ、彼はそっと視線を逸らした。

「あーうん。ぼうっとしてたな」

「うん。珍しいからこっちこそびっくりした。最近こき使われてる? 大丈夫?」

 彼女は大袈裟に首を捻った。珍しくも本当に案じているらしかった。彼女の言う通り、彼に割り振られる仕事の多さは夏頃から増える一方だった。『下』があれだけ騒がしいのだから仕方ないと納得はしているが、疲労が溜まっているのは隠しきれない。彼はぎこちなく口の端を上げた。

「それを言うなら最近の話じゃないさ」

 わずかに混ぜた皮肉も、おそらく彼女には通じない。ラウジングが怪我をしがちになってからというもの、ミケルダの負担は増える一方だった。彼女に頭を使う仕事を任せられない以上、そうなってしまうのも詮のないことだ。元々ミケルダは人との間を取り持つのも得意だったから、なおさらだろう。

「前から忙しかったって? ミケはすぐさぼるからその分が回るだけでしょ」

「あ、言うな。でもさぼる話ならカールだって」

 チクリと刺してやれば、聞こえないとばかりに彼女はそっぽを向いた。彼は胸を張る。

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