第7話「少しは周囲に任せてくださいね」

「そうですね。滝先輩に倒れられたら困ります。少しは周囲に任せてくださいね」

「……それを梅花に言われるとオレも言葉がないんだが」

 続いて梅花にも神妙な顔で付け加えられ、滝は眉をひそめた。無理をしているように見えるのだろうか?

 確かに頭が重い問題ばかり積み上がっているようには感じていた。が、今さらの話だ。こうして彼が中央制御室にこもっているのも奇妙なことなのだろうが、誰もが最後は彼に意見を求めてくるので致し方がない。

「まあ、なんでオレなんだろうなとは思う」

 正直に滝はそう告げた。別に誰かに頼まれたわけでもないし、神技隊をまとめ上げろと命じられたわけでもない。だがいつしかそう扱われていた。

 元若長だったからという理由で、そこまで認識されるものだろうか? ここにはウィンの旋風やジナルの神童までいるのに。

「それはもちろん、滝先輩ならって皆が思ってるからですよ」

 そこで何故かリンが得意げに腰に手を当てた。なんとはなしに気恥ずかしさを覚えた滝は、冷めかけた珈琲をまたすする。口の中に広がる苦みが、もやもやと絡み合う思考をほぐしてくれるような気がした。

 その信頼は一体どこから来るのか? 以前シリウスから聞いた疑問が蘇る。人は何を根拠に誰を信用し、頼るのか――。

「滝先輩の判断ならって、皆が思ってるからですよ。大事なことですよ? いつばらばらになってもおかしくないこの状況で、誰もがそう思えるのって」

 リンのしみじみとした声が室内の空気を揺らす。それはありがたいことなのかどうか。つまり、滝の行動がそれだけ周囲に影響を与えるということだ。

 急に肩や背が重くなったような心地になりつつ、彼は瞳をすがめた。ならば、今の彼にできることは何なのだろう。彼が望む方向に進むためにはどうしたらいいのか。

「そうですね。それが滝先輩が今まで積み上げてきたものということです」

 頷く梅花を横目に、滝は思案した。誰かを死なせないために、傷つく人を減らすためには、何ができるのだろう。そのまま手にした「説明書」へと一瞥をくれ、彼は唇を引き結んだ。やるべきことが少しだけ、見えてきた気がした。




 この建物の窓はどれも小さい。技からの防壁という意味では当然なのだが、それでも窮屈に感じる時はあった。

 しとしとと降る雨を自室から眺めて、青葉はため息を吐く。仮決めとしていた部屋が結局そのままそれぞれの部屋になり、現在に至る。彼は私物がほとんどないため、本当に寝るためだけの場所となっていた。

 それなのに、そこに今は梅花がいる。それが大問題だった。

 今朝方、宮殿から帰ってきた梅花の顔色が悪かった。早朝のことで、雨に濡れたままになっていた彼女と出くわしたのは本当に幸運なことだ。

 慌てて大浴場に押し込んだのはいいが、その後も彼女の顔は真っ青なまま。任せられる人も見つからずに、結局は自室に連れ込むという最悪の事態に陥った。

 これはよろしくないの一言に尽きる。何度目かのため息を飲み込み、彼はちらとベッドの方を見遣った。先ほどよりも幾分か人間らしい顔色になった彼女は、シーツにくるまって穏やかな寝息を立てている。

 ここが誰の部屋でどういう状況なのかということは全く考えていない寝顔だ。安堵しきっているといってもよいかもしれない。

「そりゃまあ、親戚だけど」

 ぽつりとこぼした声が静かな部屋に染み入る。彼は窓に触れて肩を落とした。二人きりという時間を壊したくない気持ちと、今すぐ誰かに来て欲しいという気持ちがない交ぜになる。

「なんでこんなことに」

 この部屋に初めて足を踏み入れた時は、まさかこんな日常が待っているとは思わなかった。不透明な未来と、宮殿からの無慈悲な要請に、どうしようもないやるせなさと嫌悪感が渦巻いていた。

 しかし蓋を開ければ予想外。魔族の動きがなければ、ここは単なる快適な生活空間だ。無世界のような食費の悩みもないし、宮殿で寝泊まりしていた時のように食事の確保に奔走する必要もない。

 たとえ束の間だとしても、これだけ拍子抜けした時間が流れていると気持ちの持って行きどころがわからなくなる。

「ほんと、なんでまた」

 彼はゆっくりとベッドの方へ寄った。近づけば触れたくなるから避けたいのだが、体調も心配なので致し方ない。そう、これはしようがないことなのだ。

 時折こうして彼女が具合悪そうな顔で帰ってくるのは、やはり気がかりであった。宮殿という場所は、どうも彼女によい影響がないらしい。できるなら行かせたくないが、状況が状況なのでそうも言っていられない。どうしたって宮殿とのやりとりは必要だ。

「あーあ」

 投げやりな気持ちになりつつ、彼はベッド脇に座り込んだ。そして横目で彼女の顔を見る。乾かしたばかりの髪が頬へとかかり、それが呼吸に合わせて揺れている。調子の悪さを差し引いたとしても、信用されているということだろう。ありがたくもあるが複雑だ。

 おそらく彼女が誰かを危険な男性として認識することはないだろうと予測はしているが、それでも少しばかり引っ掛かりはある。

「従兄弟だからってのは、あるんだろうけど」

 ぽつりと呟いた言葉が、自身へと跳ね返る。自分で何度か唱えたことがあるが、一種の呪いのようだ。頬へかかった髪を指でそっと退けてやれば、彼女の唇がわずかに動いた。

 血の気の乏しいそれをぼんやりと見つめ、彼は拳を握りこむ。駄目だ。気を抜くと触れてしまいたくなる。そうすることが容易い距離なだけに、誘惑を振り払うのが難しい。

 すると再び彼女の唇が震えた。かすかに眉の辺りに力が入ったのがわかり、彼は瞳をすがめる。

「梅花?」

「ミケルダ……さん」

 ほんのわずかだけ、音になるような声。だが間近にいる彼の耳に届くのには十分だった。思わず彼は眉根を寄せる。

「……は?」

 彼女の目蓋は閉ざされたまま。つまり、寝言だろう。だがそうといえども聞き捨てならない。いや、寝言だからこそか。

 もやもやとした感情が胸の奥底にたまるのを自覚しつつ、彼は唇を引き結んだ。自分の名を呼んで欲しいと言うほど傲慢ではないが、それでも別の男の名が囁かれるというのは気分がよくない。レーナの名の方が遙かにましだ。

 そこまで考えたところで彼は頭を抱えた。こんな時に自分は何を思っているのか。梅花の表情を見ていればわかる。おそらく良い夢ではない。昔の夢だろう。だからミケルダなのだ。

 宮殿という場所は、やはり彼女にとっては毒のようなものに違いなかった。ならば起こしてやった方がいいのか? しかし思い込みで睡眠を妨げてもよいものなのか。

 悩みながらも、彼はもう一度窓から外を眺めた。止む気配のない雨が、小さな分厚い窓を叩いている。これでは今日の買い出しは中止になるかもしれない。食材にはまだ全然余裕がないというのに。

 ふぅと息を吐いた彼は、再度彼女の方へと視線を落とした。そしてそっと指の背で白い頬を撫でる。湯上がり後にしては冷たい肌に、どきり鼓動が跳ねた。

 と、わずかに彼女の眉が動いた。ついでその目蓋がゆっくりと持ち上がるのを、彼は固唾を呑んで見守る。ぼんやりとした彼女の眼差しは宙を彷徨ってから、ようやく彼を捉えたようだった。ぱちりと音がしそうな瞬きと共に、また唇が動く。

「あお、ば?」

「あ、悪い。起こしたな」

 謝罪する彼を、彼女はしばし不思議そうに見上げてきた。どうも現状が理解できていないようだ。夢と現実を混同しているのかもしれない。彼女としては珍しい。

「あれ、私、倒れたんだっけ……?」

「いや、倒れてはいないけどふらふらだったから」

 瞬きを繰り返した彼女は、それから部屋の中を見回した。自室ではないことを確認したのか、それとも今気がついたのか。ふわふわとした定まらない視線を、彼女はまた彼の方へと向ける。

「そう、ごめんなさい。青葉のベッド、とっちゃったのよね?」

 申し訳なさそうに確かめながら、彼女はゆっくり身を起こそうとした。細い肩から滑り落ちた黒髪が、胸元からシーツへとこぼれ落ちる。

「別にそれはいいんだが。もう平気なのか?」

 直視はしがたいが目を逸らすこともできず、彼は横目で彼女をちらちらと見た。無防備だと指摘するのもこの状況では意味がない。

 そもそも、彼女は自分の身の安全を後回しにする人間だ。彼が望んでいるのは、彼の言う通りにして自身の尊厳を諦める彼女ではない。これが厄介な点だった。

「たぶん? 呼吸も楽になったから」

 こくりと頷いた彼女は深呼吸をする。シーツを掴む手にも不自然な力は入っていなかった。楽になったというのは本当なのだろう。だが彼は頭を振った。

「それならいいけど。でもお前、やっぱり無理しすぎじゃないのか? こんなになるなんて」

「そんなことないと思うんだけど。でも今日は、宮殿の気も落ち着いていなくて。そのせいかもね」

 彼女は困惑した様子で首を捻った。無理をしている自覚などないと、心底思っているかのようだ。自覚しながらもごまかしている時の表情ではない。

 それをどう受け止めるべきか当惑し、彼は眉根を寄せた。自分でも気づかないほど疲労しているのだとしたら大問題だが、周囲に影響されたのだとしたら防ぎようがない。

 技使いは、周囲の気に影響されやすい。そう気づいたのはいつのことだっただろう。影響の受け方は個々人にもよるが、それは気への過敏さと相関している。だから彼女はおそらく左右されやすい方だ。

「そうか。宮殿もこのところせわしないだろうしな」

 そっと彼は彼女の髪に触れた。指通りのよい長い髪を耳へとかけてやれば、彼女は一瞬何か言いたげな目をしたが、結局は押し黙った。

 以前は無表情のまま距離が近いと指摘されたことを思い出す。何も言わなくなったのは受け入れられたのか、それとも単に諦められただけか。

「だったら、宮殿に行くのは最小限にしろよ」

 疑問を飲み込み、彼はそう言うにとどめた。どんな夢を見ていたのか尋ねたくなったが、よい気分になるとは思えないので飲み込む。すると苦笑をこぼした彼女は、ついではっとしたように辺りを見回した。

「そうしたいところね。ところで青葉、今何時?」

 時計を探したようだったが、生憎この部屋にはまだない。神魔世界とは違い無世界では時刻を気にする習慣が身についていたのだが、そういった備品はすっかり後回しになっていた。彼は「ああ」と気のない声を漏らしつつ首の後ろを掻く。

「さっき六時半頃だったから。そろそろ七時になるんじゃないか?」

「え、大変。レンカ先輩にまた任せきりだわ」

 眼を見開いた彼女は、慌てて起き上がろうとした。弾んだベッドからシーツが落ちそうになるのを、その細い手が拾い上げる。

 と同時に体勢を崩した体に、彼は思わず手を添えた。薄い布越しに感じる二の腕の感触が、想像していた以上に生々しく柔らかく、何故か動揺する。抱きかかえたこともあるというのに、今さらどうしてだろう。

「あ、ごめんなさい」

「……だから無理するなって。さっきまであんなにふらふらしてたのに」

「それでも、レンカ先輩を無理させていい話ではないでしょう?」

「レンカ先輩一人で食事担当なのか?」

 時刻と発言から想像し、彼は片眉を跳ね上げた。簡単に口づけを落とせる距離から見上げられるというのは、どうにも落ち着かない。そんな意識をできるだけ横に退けつつ、彼は首を捻った。

「それはそれでまずいだろ。って、料理班のリーダーはそのレンカ先輩か……」

「ええ。本当は一人じゃないんだけど、結果的にそうなるのよ。手際の問題で。これを解決する方法を探してるんだけど」

 困ったように微笑む彼女の視線が、ちらとだけ彼の手の方に向けられる。それでもすぐに放せと言われないのは、もうこういうものと思われているのかもしれない。

 彼女は普通がよくわからないらしく、彼の言動を怪訝に思いつつも「そういうもの」と片付けてしまうきらいがある。

「そうなのか」

「うん。でもまだ見つからなくて。せめて下準備だけでも手伝いたいんだけど、もう間に合わないわね。あ、でも今日は北斗先輩たちが手伝いだから、大丈夫かも」

 かすかに揺るんだ彼女の頬に、また触れたくなった。このまま腕の中に閉じ込めてしまえたら簡単な話なのに。そう思ったりもするが、彼女の体だけ得られても意味がないことはわかっている。そこで満足できるならこんなに困ってもいない。

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