第三章 誰かのための苦い口実

第1話「あなたの下で働かせてくださいませんか?」

 灰色の雲に覆われた空は、いつだって重たげだ。鬱々とした気持ちを呼び起こすそんな様を、イーストは静かに見上げた。

 時の流れを感じさせぬこの光景には、もう見飽きてしまっている。荒野を吹き抜ける風の生ぬるさに瞳をすがめ、彼は煽られた空色の髪をつと耳にかけた。

 物思いに浸ることができる、限られた時間。纏わり付いていた部下に仕事を与え続けることで、ようやく得られたものだ。

 だが久しぶりに塔の外へ出た高揚感よりも、今後見えるだろう現実の薄暗さの方が、強く心を揺らしていた。戯れに言葉を交わす相手がいないからだろう。一人きりの責任は重い。

「嫌な性格だな」

 独りごちた言葉は、緩やかな風に乗って運ばれていく。レシガがここにいればと思ってしまうのは、しようのないことだ。彼女なら呆れた顔をして叱ってくれることだろう。

 苦笑を堪えた次の瞬間、彼の背後で空間が歪んだ。転移の際に現れる独特な気の流れと、空間のひずみが肌で感じられる。それでも動じることもなく彼は振り返った。――ここまで辿り着ける者は限られている。

「お久しぶりです、イースト様」

「ああ、ミスカーテか」

 全てがくすんで見えるこの世界に、鮮やかな赤が現れた。イーストの目に馴染んでいるレシガの深い赤とは違う、朱色混じりのどこか狂気じみた赤。

 その主のことは、イーストもよく知っていた。五腹心直属、準直属と呼ばれている者の中でも、この男――ミスカーテの名は特に有名だ。

「その様子だと元気そうで何よりだよ」

 頷いたイーストは破顔した。相手がミスカーテであれば気を抑え続ける必要もなかったかと、頭の片隅で思う。しかしいつ何時どこから他の部下が現れるとも限らないので、ひとまずはそのままにしておいた。

 イーストたち五腹心の気は、下級の魔族たちにとっては強すぎた。それは弱者たちを大いに揺さぶり、多大なる影響を与えてしまう。中には近づくのも苦痛に感じる者までいるらしい。

 だから普段から気を抑える癖がついてしまっていた。イーストは別に同胞を傷つけたいわけではない。萎縮させたいわけでもない。

 けれどもミスカーテが相手であれば、その懸念は不要だ。五腹心の実質上の中心であるプレイン、その直属の配下。かつ、現在まで生き残っている男。その事実が十分ミスカーテの実力を示している。加えて彼は性格も豪胆だ。

「いえいえ、それが実はそうでも。先日手痛くやられたところなんです。ようやく回復してきましたよ」

 珍しくも恭しく頭を振ったミスカーテは、ずいぶんとにこやかな面持ちだった。波打つ赤の髪が風に揺れる様を横目に、イーストは頭を傾ける。

 ミスカーテの気そのものに歪なところは感じられない。しかし彼が負傷したと嘘を吐くとは思えなかった。そうなると誰にやられたのかというのが大いなる疑問だ。

 現時点で、ミスカーテにそれだけの傷を負わせることができる者がいるようには思えない。転生神はいないのだから。かといってまさか魔族内での諍いでもないだろうし。

「君が? 転生神のいないこの時代で? 一体誰にやられたんだい?」

 疑問の気を隠すことなく、イーストは端的に問いかけた。ミスカーテを相手に駆け引きを試みても何も得はしない。この男は立場のために取り繕うといったことをしないし、大概本音を隠しもしなかった。その分だけ厄介な者には間違いない。

「地球の神です」

 微笑んだまま答えたミスカーテの黒いコートが、吹き抜ける風によって揺らされた。全身黒を纏ったこの部下の意図を掴み損ねたまま、イーストは相槌を打つ。地球という名は、いつ耳にしても重い。

 それにしてもミスカーテも地球へ降り立っていたとは。意外だった。アスファルトの動向はすぐに追いかけたから、地球へ向かったのはわかった。

 しかしミスカーテの気もそこにあるとは気づかなかった。地球はアユリの巨大結界に包まれているせいで、中のことがどうしても把握しづらくなる。

「君も地球に降りていたんだね」

「はい。亜空間に身を潜めながら。そう仰るイースト様は、既にアユリの結界の穴についてもご存じのようで」

 にたりと笑うミスカーテの真意も、イーストには推し量れない。ただこの男が要注意なのは確かだ。彼の言動には常に他者への配慮が欠けている。著しく。

「ああ、目覚めてすぐアスファルトの動きを追いかけたからね。癖なんだ。おかげですぐに気づけたよ」

 ミスカーテの得も言われぬ視線には気づかぬ振りをして、イーストはくすりと笑った。実際、アスファルトの居所を探ったのは習慣だった。イーストが最も手を余している部下でもあり、まず間違いなく生きていると確信していた男でもあった。

「それはよかった。話が早いです。ところでイースト様、一つお願いがあるのですが」

 静かに一歩、ミスカーテは踏み出してきた。いつしか蛇にたとえられることが多くなったその眼差しを見据えつつ、イーストは首を縦に振る。自分の好きに動くことをよしとして生きているような男のお願いだ。表面上はともかく、底で何を考えているのか定かではない。

「プレイン様が目覚められるまで、あなたの下で働かせてくださいませんか?」

 妖艶な笑みをたたえたまま、ミスカーテはそう言った。イーストは瞳を細める。

 ミスカーテはどこまでもプレインを敬い、その方針を是としていた。そのため他の五腹心とは一定の距離を保っていた。それは一種の信念にも近いものだったが、今はそれよりも優先することがあるというのか。

「君にしては殊勝な言動じゃないか。私としてはありがたい申し出だね。もっと地球の状況を知りたいと思っていたところなんだ」

 悪戯っぽく笑ったイーストは、さらに口角を上げた。取り引きができない男に対してあれこれ勘ぐっても無意味。ならば受け入れるしかない。

 あの時アスファルトとミスカーテが同時に地球に降りていたのなら、その二人を追い返すだけの戦力が今もあの星にあることになる。要注意人物をあらかじめ知っておくのは重要だ。

「君を負傷させたという神の話も聞きたいね」

「ええ、もちろんその話も。あの男にこのままやられっぱなしなのは、僕の性分にも合わないですしね」

 再びにたりとミスカーテは笑った。そう、この貪欲で攻撃的で妖艶な微笑が、ミスカーテという男の代名詞だ。

 なんとはなしに安堵したイーストは肩をすくめる。イーストにとって決して悪い話ではない。いずれやり方について意見の不一致が出ることは目に見えているが、それまで引き出せるものを全て手中に収めておけば、こちらとしては問題なかった。

「そうか。できる限り協力しよう。強者を放っておくことは、良い結果を生まないからね」

 イーストは首肯した。名も知らぬ強敵のことを考えると、苦い思い出が蘇るのを止められなかった。転生神がそうであると知る前のことだ。まだ彼らが力を引き出しきっていなかった頃に、どうして潰してしまわなかったのか。過去を振り返るとどうしたって後悔がつきまとう。

 転生神ヤマトとラグナの一戦は、そんなイーストの思いをさらに強くした。誰一人ラグナを傷つける者はいなかったというのに、ヤマトはあの時、ラグナに重傷を負わせた。

 転生神リシヤが背後にいたからというのは理由にはならない。あれは純粋にヤマトの実力だった。そこまで力をつけていたのかと、イーストは愕然とした。

「ええ、まったくその通りですね」

 答えるミスカーテの声が低くなる。わずかに滲んだ怨嗟の気配が、その思いが偽らざるものであると告げていた。彼を負傷させたという神は、よほどその矜持まで傷つけたのだろう。魔族としての誇りは、プレイン配下の者が重視しているものの一つだ。

 イーストには理解できないことだが、それが生き様だというのなら否定はしない。数多くの者を束ねる秘訣だ。譲るべきところと譲らぬところを間違えてはいけない。

「ではこれからよろしく頼むよ」

 破顔したイーストは、もう一度空を見上げた。悲しく濁った灰色の空が、彼の目にはいっそう重々しく映った。




 どんなに衝撃的なことがあっても、時間は平等に流れていく。空腹にはなるし、眠くもなる。それが生きるということなのだろう。日常というものは、どんな形であれ必ず訪れる。

 そんな当たり前の事実を噛みしめつつ、青葉は食堂の隅で一息吐いた。眠いのはまだ早い時刻なせいだ。こんな時間に朝食をとっているのは混むのも避ける意図もあるが、何よりいつも梅花が早起きなせいだった。彼はちらと厨房の方へ目を向ける。

 先ほどリンが朝風呂を宣言して出て行ったので、ようやく二人きりの時間だ。が、間もなく他の神技隊の面々も顔を出すだろう。それがこのところの流れだった。もっとも、もうじき変化が訪れることもわかっている。――当番制が始まるからだ。

「青葉、珈琲いる?」

 会話の切り出し方を考えていると、不意に声が掛かった。ひょこりと厨房から顔を出した梅花が、青いカップを傾けている。慌てて青葉は首を縦に振った。

 このところの彼女は優しい。もちろん以前もそうだったのだが、最近はどちらかといえば気遣われているような感じがしていた。やはり父との再会の件があったからだろうかと思うと複雑にはなる。

 そうはいっても彼女の厚意を無下にするつもりはなかった。たぶん全く悪気はないのだろう。

「そういえば」

 かちゃりと食器の触れ合う音がする。すぐに小さなトレーを持って現れた彼女は、歩きながら小首を傾げた。食事に邪魔だからと先ほど結わえられた髪が軽く揺れる。

「今朝、中央制御室に行ったら、青葉は買い出し班の副リーダーに選ばれていたけど。もう聞いた?」

 悠然とテーブルまで寄ってきた彼女から、彼は青いカップを受け取った。買い出し班に組み込まれたことは知っていたが、副リーダーの話は初耳だ。椅子に腰掛ける彼女を横目に、彼は首を横に振る。

「いや、全然聞いてない。でも、カエリ先輩が適当に二、三人選ぶとか言ってたな。もう決めたのか」

 ふわりと漂う珈琲の香りに瞳を細めつつ、彼はちらりと天井を見た。自分たちにどんな役割が課せられたとしても、避けられないものがある。生活を維持するためには日常の仕事分担も必要だ。

 その話し合いが進められ、昨日ついに買い物班、料理班、掃除班が決められたところだった。後々さらに別の当番が必要となれば再編成となるが、現時点でまず必要なのはこれらだ。

 後は夜間を含めた待機当番だった。これは魔族に動きがあった際に、真っ先に動く者たちということになる。この待機当番を決定するためには、まず戦闘時の『二人組』を確定することが不可欠だ。

「そうね、カエリ先輩なら決断早いかも。もう一人はようが選ばれていたわ。……ようがいるから青葉にしたのかもね」

「ああ、そうか。ようが一緒か。なら心配はいらないな」

 カップに唇を寄せ、彼は胸を撫で下ろした。買い出しにおけるようの嗅覚については、既に無世界でお墨付きだ。予算の管理をカエリが担当してくれるなら、もう心配はいらない。青葉の仕事もほとんどないに違いなかった。時折ようが暴走するのを食い止めるのが役目だろうか。

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