第12話「文字には気が宿らないでしょう?」
宮殿に戻るだけでほっとするという経験はそう多いものではない。無駄に体に力が入っていたことを自覚しつつ、青葉は息を吐いた。重力が強くなったのではと勘違いしたくなる疲労感が辛い。そして気のせいか頭まで重い。
基地だというあの建物の前でのやりとりは、思い出すだけでも肩がこった。まるで地雷原を歩いているような心地だった。同じような経験はもう二度としたくないと、彼は心底そう思う。
「大丈夫? 青葉」
すると、前を歩いていた梅花がつと振り返った。長い髪が揺れる様は、相変わらずこの白い空間では目立つ。人以外に色を宿すものがないせいだろう。入口の傍は人通りもないため、なおさらだ。
それにしても彼女がわざわざ声をかけてくるということは、よほど自分は疲れの滲む気でも漂わせていたらしい。内心で反省しつつ、彼は頭を振った。
「あー平気。ただ、あれが今後も続くのかと思うと気が滅入るな」
「……そうね」
彼が正直なところを口にすれば、彼女も一瞬だけ躊躇ってから頷いた。念のため周囲をうかがっているのは、他の人間の耳に入れたくない話だからだろう。おそらく神技隊の事情については、どこにも伝わっていないに違いない。
「カルマラさんがいたのはたまたまだからいいけど。シリウスさん……一体いつまであそこにいるのかしら」
歩調を落とした彼女は困ったように囁いた。彼はその隣へと並び、深く相槌を打つ。問題はそこだ。
レーナとシリウスの会話は、軽妙なようでいて危なっかしくてひやひやする。そこに辛辣な表現が入り交じっていること自体はともかくとして、周りへの影響がすさまじいのが厄介だった。当人たちは楽しげでも、それだけでは収まらない。
「まさかずっとなんてことは……」
「ないと思いたいわね」
しみじみと呟く梅花の声に、青葉は嫌な予感を覚えた。彼女は既に半分諦めている。少なくともしばらくシリウスはあそこにいるつもりなのかもしれない。
そもそも彼は何のためにあの場に張り付いているのか、聞きそびれてしまった。監視でもしているのだろうか? 上にとってレーナは信頼できる者ではない。――いや、自分たちにとっても同じだ。
青葉は瞳をすがめた。よそよそしく刺々しい宮殿の空気を吸い込むと、熱を持っていた頭の奥が冷えていくのを感じる。
上――正確にはシリウス――がレーナと交渉し、協力することは決まったが、神技隊が納得しているかといえば否だろう。しかし上の言うことを拒否することもできない。大体、どうして神魔世界に呼び戻されるのかさえ曖昧だ。
梅花へと一瞥をくれれば、なにやら神妙に考えこんでいる様子だった。歩みこそ落ち着いているが、その胸中はいかほどのものだろう。レーナが作るあの基地に住む日常を考えるだけで、青葉は胸の奥がざわつくというのに。
「ところで梅花、これからどこに向かうつもりだ?」
その不安から目を逸らしたくて、彼はまず現実的な問いかけを放った。基地を離れて宮殿に戻ってきたのはいいが、梅花がこれから何をするつもりなのか確認していなかった。
「リューさんのところ。住居のことは確認できたけど、それ以外のことはわからないでしょう? できるなら先手打っておかないと」
彼女はこちらへ双眸を向けることなく即答した。それもそうかと思いながらも、青葉は首を捻る。
多世界戦局専門長官であるリューは、今回の件についてどれだけのことを知らされているのだろう? おそらくほとんど関与していないに違いなかった。
だが他に聞く相手もいないのは確かだ。少なくとも神技隊への連絡を任されているのは間違いなくリューだった。
「まず確認しなきゃいけないのは生活費なのよ」
しみじみとした梅花の声音に、青葉は絶句した。そういった心配が頭の中から消え去っていたことを自覚せざるを得なかった。
無世界では自らで稼がなければどうしようもなかったが、神魔世界ではそうではない。これはどう考えても、明らかに、上からの命令だ。つまり宮殿の仕事だ。給料が払われてしかるべきである。
「どうも物品支給する気配とかなさそうだし、それなら無報酬というのは困るわよね。どれだけ危険に晒されるのかもわからないのに」
抑揚の乏しい淡々とした言い様だが、彼女が半ば呆れ半ば憤っているのは感じ取れた。珍しいことだ。
無理を言われるのは慣れているからどうでもいいという態度を取ってばかりいたが、さすがに今回は別なのか。それとも、他人まで関わることだからなのか。――おそらく後者だからだろうと、彼は推測する。
「まあそうだな。衣食住は大事だからな」
「……そうね。せめて安定した食事の確保だけは早急にと、念押ししておかないとね」
歩きながら彼女は軽く肩をすくめた。宮殿での日々を思い出したのかもしれない。
先日、皆が負傷している時とて、神技隊の食事の用意のことなど誰も考慮してくれなかった。彼女が動かなければどうにもならなかった。上はどうやら、その辺りの視点が抜け落ちているらしい。
先ほどのレーナの話を考えれば、十一月に入った頃には神魔世界に呼び戻される可能性が高い。それまでにできる限りの不安は解消しておきたいところだ。
そう考えるのと同時に、こんなことまで気を回さなければならない現状に辟易とする。自分たちの立場とは一体なんなのか。冷たい宮殿の中を歩くのと同じくらいに、腑の底が重くなる。
「先に話を通しておかないと、結論が出されるまで時間が掛かるだろうし」
話しかけるというよりも独りごちるような梅花の顔を、青葉はちらと見た。こうして他者のためにとあれこれ考えている時の彼女の気は、ひどく静かだ。
自分自身やレーナのことが関わらなければ、どんな理不尽でも、彼女は冷静に受け止めて解釈しようとする。そしてその中でできる限り最良の道を選び出そうとする。わずかに歩調を落とした彼は、ぐっと息を呑んだ。
「梅花」
呼びかければ、怪訝そうに振り返った彼女は足を止めた。さらにこの廊下を進めば、人の通りがぐっと増えることを彼は知っている。尋ねるなら、その前でなければならなかった。
「どうかしたの?」
「……遊園地で、ちゃんと話せたのか?」
彼も立ち止まった。彼女が固唾を呑むのと同時に、空気が一気に張り詰める。今日になって突然踏み込まれるとは思わなかったのだろう。彼女の気に動揺が滲んだ。
彼とてずっと迷っていた。だが今日を逃せば永遠に有耶無耶となるような予感があった。次々と迫る謎と、やらなければならない数多の出来事の海に流されてしまう気がする。
「よく、見てたわね」
逡巡の後に、彼女は肩を落とした。気づかれているとは思わなかったらしい。彼は曖昧に首を縦に振る。
遊園地での別れ際のこと、彼女がありかに呼び止められていたのは目にしていた。さすがに後をつけるわけにも耳を澄ませるわけにもいかなかったが、ずっと気に掛かっていた。何らかのやりとりがあったのは確かだろう。
あれから梅花は何も言わなかったし、おかしな様子も見受けられなかったから、悪い話ではなかったのだと思いたいところだ。
「別に、そんな大層な話ではないわよ。みんなを待たせるわけにもいかなかったし」
彼女はそっと視線を外す。廊下の向こうから伝わる喧噪をじっと見据えるような横顔を、彼は黙って見つめた。
周囲から受ける「円満」を望む期待は、きっと彼女には重いのだろう。それは家族と関わる度に、彼女が見せる眼差しからも読み取れた。
どうにかその重圧から解放してやりたいとも思うが、そのためにはどうすればよいのか彼には判断がつかない。
「ただ、手紙を書く約束をしただけ」
ふっと彼女は息を吐き出した。思わぬ話に彼は眼を見開く。世界をまたいで私的に通信するなどまず許されないが、手紙を送る手段ならあるのだろうか?
彼女がわずかに視線を落とすと、ふわりと髪が揺れた。白い指先が、彼女の上着の裾を掴むのが見える。
「今さらだけど、手紙って便利だなって気づいたのよ。文字には気が宿らないでしょう? 余計な情報を感じ取らなくてもすむし、他の誰の目を気にすることもない。何をどう伝えるのか吟味することもできる。写真も同じで、そこからは気が感じ取れないから、写っているものが全てなのよ。不思議よね。たったそれだけのことなのに、救われたような気持ちになるのって」
ふいと彼女の声が和らいだ。ああ、そうかと彼は頷く。彼女を苦しめる多種多様な気の圧迫感も、彼女が気の感知に優れているが故に生じる痛みも、別の物を介したやりとりになれば薄らぐのだ。
文字でしか情報が読み取れないことは不便かもしれないが、それが彼女には救いとなる。付随するあらゆるものに心を削られなくてもすむ方法なのだ。
「いいんじゃないか」
彼はぽんと彼女の肩を叩いた。彼女の心を縛らずに、それでも繋がりが途切れなかったことは、正直言って嬉しい。彼女が文字を綴る様を思うだけで、彼の心にも暖かな灯がともるようだった。この場で抱きしめられないことが歯がゆいくらいだ。
「ゆっくり書けばいい。それくらいの時間だったらあるだろ」
そっと手を離せば、彼女は怖々とこちらを見上げた。まるで何かをうかがう子どものような目を向けられ、彼は瞠目する。心臓の裏がちりりと焦げ付いたような錯覚に襲われた。
「うん。だから……その、無世界に戻ったら、便箋を買いたいんだけど」
逡巡しながら告げられたのは、そんなささやかなお願いで。つい彼は笑い出してしまうところだった。
しかしよく考えてみれば、彼女は自分のために何かを購入するということをほとんどしてこなかったのではと思い直す。
服とて、売り上げのために青葉が無理やり選んだようなものだ。その他の物も、大抵仕事に支障を来さないためにという理由から購入した。
もしかすると、自分のためにお金を使うことに対して罪悪感すらあるのかもしれない。今は金銭的余裕がないだけになおのことだ。
「ああ、買えばいいだろ? それくらいのお金なら何とかなるだろうし」
それなら背中を押してやらなければ。彼が大仰に頷けば、それでも戸惑ったように彼女は小さく首を傾けた。
「そう……ね」
「どうかしたのか?」
「ううん。ただ、そういう物を買おうと思ったことがなかったから。何がどのくらいの値段で売ってるのかも知らなくて」
どこか歯に物が挟まったような言い様だった。伏せられた瞳から読み取れるものはないが、彼女の気には躊躇が滲んでいる。
瞬きをした彼は考えた。もしかしてそこには、彼についてきて欲しいという遠回しの願望が含まれているのではないかと。そう思ってしまうのは、彼自身の望みの反映なのかもしれないが。
「一緒に買いに行くか? 多少高くても、この間の遊園地のことがあるから誰も文句は言わないだろ」
結局、彼はそう大袈裟に笑ってみせた。一緒に行って欲しいのかとは聞けなかった。ついつい予防線を張ってしまうのは悪い癖かもしれない。
「――何だか悪いわね」
しばし視線を彷徨わせてから、彼女は苦笑した。つまり、そういう意図ではなかったのか。若干の落胆を覚えながらも、彼ははたと気づく。絶対に一度は断られると思ったのに、今の発言に拒否は含まれていない。
「青葉には迷惑かけてばかりね」
「どの辺が迷惑なんだ?」
「え? だって」
「どうせ行くところがあるわけじゃないだろ。その、梅花の手助けができるなら、オレはむしろ」
嬉しい、という言葉を即座に舌に乗せることはできなかった。奇妙な焦りが彼の内で渦を巻いている。不思議そうな双眸がこちらを見上げるのに気づくと、なおのこと喉に声が張り付いてしまったかのようだった。
口にしたところで伝わるとも思えぬ好意を隠すことに、一体どれだけの意味があるのか。頭の片隅ではそう思っているのに、なかなか素直に声にはならない。確実に捉えられた彼女の変化に、実は動転しているのかもしれない。
「むしろ……?」
「そう、したい。オレが手伝いたいんだ。それならお前もいいだろ?」
仕方なく彼は言い換えた。彼がそうしたいのだと告げれば、彼女には断れないとわかっている。
彼女のためなのだという言い方では駄目だ。仲間のため、家族のためだからこそ、彼女は動けるようになったというのに。ここで流れを断ち切ってはいけない。彼は自らにそう言い聞かせる。
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