第3話「言うならば……そうだな、安全基地だな」
アースの知るこの星の景色は、岩だらけの海辺であったり鬱蒼とした森や谷であったり、そうでなければ瓦礫だらけの町であった。
どれにしろ、人間たちが生活するには適さない場所だ。穏やかな生活とは無縁な世界だ。しかし今彼が目にしている風景は、そのどれとも異なっていた。
ただひたすら広がる草原の彼方は、空との境も曖昧だ。生い茂る草は、時折吹き込む風に流されてはざわりと揺れている。
所々に細い木が生えているのが、何かの目印に使えるだろうか。道らしきものも見当たらない。これだけ広大な土地が手を着けられずに残っているのは、彼としては解せなかった。
そんな草原の中、レーナはひたすら歩いたり空を見上げてみたりと意味のわからない行動を繰り返していた。不意に思い出したように立ち止まって目を瞑りながら考え込む姿は、奇異にすら映る。
けれども彼女としては特段珍しいことでもなかった。何かを思案する時の癖のようなものだ。だから時間を持て余したイレイたちは、そこらに座り込んでうたた寝をしているくらいだ。
問題があるとすれば、彼女の傍に例の神がいることだけだった。
「うん、やはりここが一番だ」
ゆっくり目蓋を持ち上げた彼女は、満足したように首を縦に振る。木にもたれかかり腕組みしていたアースは、その声を聞きながら嘆息を飲み込んだ。
彼女の独り言はもはや日常の一部だ。普段はイレイが適当に反応していることも多いが、理解が追いつかなければ皆黙してしまう。だが見張りと称するかの神が来てからは、話の流れが違った。
「広さも申し分ない」
「おい、本気で神技隊の住居を作る気なのか?」
視線を巡らせる彼女へと、シリウスはうろんげな眼差しを向けた。彼女から数歩離れた距離を維持してたたずんでいる彼は、こうして頻繁に口を挟む。
揺れる青い髪を背へ流したこの神は、このところ四六時中彼らに張り付いている。いや、正確に言えば彼女に張り付いている。実に不愉快だ。
「妙なことをしでかさないか見張れとでも言われてるんだろう」と彼女はさして気にした様子もなかったが、アースとしてはこの存在を容認できなかった。
シリウスがいると彼女は全く休めない。常に何か検討しているか話をしているか、そうでなければ動き回っていた。
戦闘での疲労から回復したとも思えないのだが、そんな素振りは見せずに振る舞っている。この神の前では、彼女は弱みを見せたがらない。
「うん、もちろん本気だ」
シリウスへと双眸を向けて、彼女はにこりと微笑んだ。後ろで組んでいた手をひらりと振る様も、朗らかで意志の強さを感じさせる笑顔も、いつも通りだ。
何を言われても揺るがぬと告げるように、彼女はシリウスにも真っ直ぐな視線を向ける。そういった態度は、アースの心を波立たせた。
「正気か? 冗談の方がまだ面白い」
「正気正気。まあ、あいつらが納得して住んでくれるかという問題はあるがな。どう思う?」
二人の口調は軽い。気安く言葉を交わすその様子を見ているだけで、アースは腑の底から苛立ちが湧き上がるのを感じ取った。何故だかわからないが落ち着かない。
彼女がまたわけのわからない物を作ろうとしていることにも、彼は腹を立てていた。一体どれだけの無理を重ねるつもりなのか?
だが尋ねたところで「こんなものは無理の範疇に入らない」と言われるのはわかりきっていた。いくら彼女でも先日までの戦闘で精神をかなり消費しているはずなのだが、それも「大したことはない」と言い切っている。
「こちらの反応はそもそも問題にしないと。それはまあいいが、神技隊の方は大いなる問題じゃあないのか?」
肩をすくめたシリウスは、皮肉を滲ませながら口の端を上げた。こうした態度もアースの気に障るのだが、彼女はものともしなかった。
「うーん、そうだな。しかし他の選択肢がなければ住んでくれるだろう」
笑顔で手を下ろした彼女はつと空を見上げた。そうしたところで穏やかな青空が広がっているだけなのだが、彼女は時折そうした行為を繰り返す。
おそらく、見ているのは空の先なのだろう。――宇宙のどこかの動きを感じ取っているに違いない。以前にそのようなことを口にしていた。
「ずいぶんと強引だな」
と、シリウスが苦笑いした。先ほどから二人が話しているのは、ここに彼女が作るつもりらしいというよくわからない建物についてだ。神技隊の住居になるらしいが、それを何故彼女が用意しようとしているのかが、アースの腑に落ちなかった。
確かに、休息できる場所の確保は重要だ。アースたちは今まで神の目が届きにくいという洞窟に住んでいたが、できればもっと安息が得られる場所があった方が望ましいのは理解できる。それは神技隊も同じだろう。
しかし神技隊に命を下しているのは神々のはずだ。では、何故彼らではなく彼女が動いているのか?
「じゃあ他に選択肢があるのか? まさか神が用意するのか?」
そこで彼女は悪戯っぽく笑いながら首をすくめた。できるわけがないと言わんばかりだった。もちろん本来なら、神技隊に関することはシリウスたちがどうにかするのが筋というものだ。
アースらは神と敵対しないと約束はしたが、神技隊の生活まで面倒を見るという取り決めはしていないはずだった。――今の会話から推測するに、アースの知らないところでそう話し合われたわけでもないだろう。
「そういったわかりきった問いかけをするな。奴らはあの宮殿以外の建物を所持していないようだぞ。万が一のために用意しておくという発想はなかったらしい」
「うん、だから強引にでも行くしかない。彼らが早急に何かを用意するとは考えにくい。無論、宮殿とやらを使わせるわけもないからな。神は、神技隊を盾にでも使うつもりなんだろう? ならば、文句は言わせない」
軽妙な言い合いの中に忽然と、物騒な話が舞い込んできた。アースは思わず木の幹から背を離す。同時に、シリウスが一瞬片眉を跳ね上げたのが目に入った。
わずかに漂った不穏な空気が、ちりちりと肌に纏わり付いた。睥睨したわけでも、抑えている気の質が変わったわけでもないのに、シリウスが放っているのは明らかな圧迫感だ。
アースはひやりとする。座り込んでいたネオンが慌て出すのも、視界の隅に捉えられた。
「その言い方は聞き捨てならないな」
「表現が悪かったか? だが人間の技使いを利用しなければ……という発想に到ったのは確かだろう?」
「――それは否定しない」
それでも彼女はくつくつと笑いつつ、風に煽られた長い髪を背へと流した。緑を背後にして悠然と立つ彼女には、相も変わらず余裕が感じられる。シリウスの表情の変化にも動じる素振りはなかった。
相手の方が実力は上。そう言っていたのは彼女自身だが、そうとは思えない挑戦的な言動だ。このいつも大儀そうな神が怒る様というのを、アースはあまり想像できないが。
しかし危険な行為には違いないだろうに。それとも、どこまで踏み込めばどんな反応が返ってくるのかまで、把握しているというのか。
「神の優先度を考えれば当然の判断だ。大体どのみち、あの宮殿とやらは使えない。アユリの結界が濃厚だから、あそこでは気の把握が遅れる。だからこのくらいがちょうどいい」
レーナは軽く片手を上げた。再び吹き込んだ風が、長草と彼女の髪をざわりと撫でていく。草木のさざめきに混じり、どこかで鳥の鳴く声がした。
「近すぎず、遠すぎずか」
「ああ、あそこから離れすぎてもまずいからなぁ。それにアユリの結界に影響を与えるわけにもいかないし」
「……お前、一体何を作ろうとしてるんだ?」
そこでシリウスは訝しげに眉根を寄せた。気にも疑問が宿っていた。今の彼女の言葉から何かを感じ取ったのだろうか? アースはつい顔をしかめる。
二人の会話にはこうしたやりとりが多い。彼らだけが言外の何かを察知し、問うといったことを続けている。
「うん? もちろん住処だ」
「ごまかすな。ただの住処なら結界への影響を心配する必要はないだろう」
「ああ、ただの住処ならな。だが、われが作りたいのは盾だ。魔族の攻撃をできる限り防ぐ砦。拠点。言うならば……そうだな、安全基地だな」
言葉を選びつつ、彼女は深々と相槌を打った。それが何を意味しているのかアースにはやはり読めなかったが、今回はシリウスも同様のようだった。腕組みをする様からも、気からも、理解の色は見られない。
「基地!?」
一方、別の場所からは忽然と反応があった。何故か嬉々として声を上げたのはイレイだ。それまで退屈そうに座り込んでいたのが嘘のように、勢いよく立ち上がる。その体に押しのけられたカイキが「うぇっ」と悲鳴を漏らすのが聞こえた。
「何それ楽しそうー!」
陽気に走り出したイレイへと、彼女は一瞥をくれる。ふっと破顔するその横顔の儚さに、アースの胸の奥はざわついた。このところの彼女は気まぐれにそんな目をする。
「ねえねえ、それって何かできるの? 技とか跳ね返せる?」
「ああ、普通の家屋では魔族の攻撃であっという間に瓦礫の山だ。だから魔族の接近にいち早く気づける、中にいる者たちを守れる、強固な砦としたい」
「そんなことできるの!?」
「不可能ではない」
イレイは飛び跳ねた。すらすらと語られる理想の住まい像に、アースはめまいを覚えそうになった。まるで夢物語だ。そんなものが簡単に作れるとは到底考えにくい。つまり彼女はまた無理をやらかすつもりだ。
「そんなものが本当に実現したら、またあいつらに警戒されそうだな」
と、シリウスが大袈裟に肩をすくめた。頭を傾け気怠そうに口角を上げる彼の気が、「面倒事が増えた」と訴えている。あいつらというのは他の神のことだろうか? アースの脳裏にぱっと浮かぶ顔はなかったが、今までの彼女の言動から厄介な者たちであることは察せられた。おそらく『前の彼女』を葬ろうとした神々だ。
「あ、疑ってるな。そりゃあ警戒されるだろ。だがこれは守りに重点を置いたものだ。文句を言われても引き下がるつもりはない」
それでも振り返った彼女は余裕の笑顔でそう告げる。ついで瞳をすがめた彼女の気に迷いなど感じられなかった。こうなった彼女を止める術を、アースは持たない。それを知ってか知らでか、シリウスは小さく嘆息する。
「その理屈が通るなら苦労していない」
「今さら何を言ってるんだか。お前たちはわれを利用したいんだろう? ならばとことん利用して欲しいものだな。もちろん、人間たちが相手でも同様だ。背後を気にして思う存分戦えるわけがない。住処くらい頑丈にしてやらないと、あいつらなんてすぐに死ぬぞ」
さらりと口にされた事実に、はしゃいでいたイレイの顔が曇るのが見えた。先日の戦闘が頭をよぎったのかもしれない。
確かにあれは死を意識するようなものだった。いつどこで誰が命を落としてもおかしくはなかった。こうして皆無事だったのは、偶然の重なりの結果であり、ただ幸運だっただけだ。
今後もっと多くの魔族が現れたら、同じようにはいかないだろう。
「――そうだな」
神妙なシリウスの同意が、ますます空気を重く濁らせた。彼女がもう一度空を見上げると、冷たい風が彼らの間をすり抜けた。
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