第2話「どこにいたって快適な生活を目指すのは大事なことよ」
「まあな」
そんなリンの思いが伝わっているわけもないはずだが、答えるシンの声も神妙だった。
そもそも、また魔族が姿を見せるようなことになれば、きっと梅花たちは出向くだろう。親しくなってしまった者たちを放っておくなど、自分にできるとも思えない。
「ま、それならそれで諦めて準備しなきゃね。どこにいたって快適な生活を目指すのは大事なことよ」
ならば気持ちを切り替えなければと、リンは自分の膝を叩いた。無世界を離れるのは今すぐにの話ではない。ようやく皆の傷が癒えて動けるようになったところだ。
次に待っているのはいわゆる身辺整理だった。仕事をしている者は穏便に退職し、住処を引き払い、神魔世界に戻る準備をする。それが今の神技隊に必要なことだ。
「まずは不要なものを捨てて。そして今あるお金を有効利用しましょ」
リンはゆくりなく立ち上がった。気合いを入れるべく髪を結わえれば、シンから不思議そうな視線が注がれていることに気がつく。切り替えの速さを怪訝に思われているのかもしれない。彼女はにこりと微笑みながら右手をひらりと振った。
「開き直るの早すぎるって?」
「いや……、お金を有効利用ってどういう意味なのかと」
「ああ、それ。だって無世界とはこれでお別れなのよ? 堪能しておかないと」
首を捻るシンを見上げて、リンは大仰に首を縦に振った。彼はどうやらまだ重大な事実に気づいていないようだ。確かに、命の危険と比べれば些細なことかもしれない。だが決して無視はできない問題がある。
「……お前なぁ」
「あのね、シン。わかってる? ここを去るってことは、今までこっちの世界で稼いだお金は全て意味ないものになるってことなのよ」
胸を張ったリンが人差し指を突き立てれば、そこには思い至らなかったとばかりにシンは眼を見開いた。
そう、実はここに大きな落とし穴がある。無世界で金銭を稼がねばならなかったのは、こちらの紙幣や硬貨が手元になかったからだ。
まさか金銭の偽造をするわけにもいかないから、心ばかりの物品支給のみで、その後は自力でという話になっていた。
そして逆の場合はどうなるか。サツバたちが努力して手に入れたこちらの紙幣も硬貨も、神魔世界に戻ればただの紙や金属となる。
「た、確かに……」
残り二年半のための貯金も、神魔世界ではなかったことになる。大体、上からは「早急に神魔世界に戻れ」とは言われていない。おそらく住居の問題があるせいだろうとリンは予想していた。
以前利用していた宮殿の第五北棟は、仮の住まいには使えても、長期間生活の場とするようには作られていない。この問題が解決されない限りは呼び戻せないに違いなかった。
だから身辺整理に費やす時間に関して、今のところ制限はなかった。あちらの準備が整った段階で呼び戻されると考えるのが妥当だ。
「このまま何もせず帰ったら、サツバたちの努力が水の泡になるのよ? それに、無世界でしか手に入らないものもあるでしょう? 厳選は必要だけど、持って行けるものは持っていかなくちゃ」
力説したリンはぐっと拳を握りこんだ。上に振り回されているばかりで終わりたくはない。利用できるものはきっちり利用する。これが前向きに生きるためのコツだ。彼女はそう考えている。
するとシンは呆れ半分感心半分の気を漂わせながら口角を上げた。
「さすがだな」
そしてどうとでも受け取れる感想を述べて苦笑した。子どもの頃から言われ慣れてきた言葉ではあるが、彼が口にすると若干心外にも感じられる。
リンはそっと拳を解きながら、もう一度座卓へ視線を落とした。埃を被った目覚まし時計は、以前と変わらず無愛想に時を刻み続けていた。
心地よい風を受けながら、青葉は伸びをした。広い公園の駐車場に駐めた特別車は、陽光を浴びて誇らしげに輝いている。その懐かしい姿を横目にあくびを飲み込めば、すぐ脇を子どもたちが駆けていった。
なんてのどかな光景だろうか。こんな日々が戻ってくるとは到底信じられなかった。今でも時々、夢の中にいるのではないかと思うことがある。
「青葉、梅花たちが帰ってきまぁーした! 休憩にしてお昼にしましょーう」
と、そこで背後から陽気な声がした。アサキだ。やおら振り返れば、灰色のエプロンを身につけたアサキが朗らかに微笑んでいる。
その後ろに、買い物袋を持った梅花とようの姿があった。気を隠しているのは癖になっているからだろうか? もうレーナたちを警戒する必要はないのだが。
「おかえり。遅かったな」
「お店でばったりリン先輩たちに出くわしちゃって、それで」
近づいてくる梅花から、青葉は半ば無理やり袋を奪い取った。どこか困ったように苦笑した梅花は、小さく肩をすくめる。
昼食を買いに行っただけのはずなのに遅いと思ったら、そんなことになっていたとは。アサキの隣にいるようは特段気にした様子もなく笑っているので、さほど長話にはならなかったのだろう。そうでなければお腹すいたの歌が始まっているはずだ。
「スピリット先輩たちはこの辺に住んでたんでぇーすねぇー」
ようから買い物袋を受け取ったアサキが嬉しげに顔を輝かせた。けれども別に偶然だと驚くような話でもない。ゲートからそう離れていない場所を拠点に選ぶのは当然のことだ。すると両手が自由になったようがぱっと腕を振り上げる。
「うん、すぐ近くだってさ。あ、そうだ! それでね、あのね、一緒に旅行に行かないかって誘われたんだー!」
嬉々とした声が辺りに響く。思いも寄らぬ言葉を耳にし、青葉は目を丸くした。旅行という響きを、咄嗟に頭が受け入れられなかった。先日までの戦闘を思うと、あまりの落差にくらくらとしてくる。
確かに青葉たちは時間を持て余していた。そもそも定職に就いていない彼らは、無世界を離れる準備といってもこれといった手続きが必要ない。
身の回りの物を整理する……というのも、ほぼ終わっている。そもそも私物がほとんどない。常に貧乏と隣り合わせの生活だったため、必要最小限の物しか持ち歩いていなかった。故に軽い家電やら何やらを廃棄してしまえば終了だ。
「秋は美味しい食べ物もいっぱいだよーって。楽しそうじゃない!? 僕行きたいなー」
「それはいいでぇーすねぇ!」
ようが瞳をキラキラ輝かせると、アサキが賛同の意を告げた。二人とも完全に乗り気だ。無世界を離れるまではまだまだ時間が掛かりそうだし、その間どうするかと考えれば、旅行は悪い話ではない。
今までは違法者を取り逃がさないために、ゲートの傍を離れず過ごしていた。だからその他の地域に足を踏み入れたことなどなかった。青葉とて、テレビで眺める見知らぬ土地に心動かなかったと言えば嘘になる。これは大変魅力的なお誘いだ。
「慰安旅行、って言ってたわね」
一方、梅花は苦笑交じりにそう告げた。彼女としては、神魔世界の方が気に掛かって仕方がないのかもしれない。なんといってもあのレーナが上と協力するという。果たしてうまくいくのだろうか?
もっとも、具体的には何をどう協力するのか青葉たちは聞いてもいなかった。さらに擦り合わせることがあるらしく、彼らは何かを頻繁に話し合い、確認することを繰り返している。
その間、青葉たちは静養室で待たされ続けていた。怪我人には休息が必要だったので、そのこと自体に文句はなかったが。
「あれ、梅花は反対なんでぇーすか?」
梅花の声に同意の色がないことに気づき、アサキが顔を曇らせた。若干ばつの悪そうな眼差しなのは、深く考えずに喜んでしまったことを自覚したからだろう。
だが彼女は責めるでもなく、何か言いづらそうに視線を逸らして「うーん」と小さく唸った。
「反対ってわけじゃあないのよ。温泉は療養にも適してるって言うし」
水を差すつもりはないのだと言わんげに、梅花は言葉尻を濁した。青葉は眉をひそめる。
「温泉?」
聞き捨てならない単語を、思わず青葉は繰り返した。無世界では一般的な、大浴場の一つだったと記憶している。それも人工的なものではなく、天然でできたものだとか。よく宣伝しているので彼も気にはなっていた。神魔世界にはないものだ。
「うん。リン先輩たち、どこか行くなら温泉旅行がいいんじゃないかって。それならそこまで遠くにいかなくても大丈夫だしって、パンフレットまで持っていたわ」
ちらりとこちらへ視線を向けた梅花は、そう付け加えた。その眼差しから推測するに、彼女も興味はあるらしい。
しかしまさかリンたちもそこまで準備しているとは。どうやらただの思いつきではなく、計画段階まで進んでいるようだ。
つまり、本気だ。リンがそのつもりなら旅行は確実に実行されるだろう。どこまでの人間を呼ぶ予定かは知らないが、賑やかなことになりそうだ。
「ただねぇ……」
それでも梅花は歯切れが悪かった。そよ風に揺れる髪を指先で押さえながら、言葉を選ぼうとしている。仲間たちの期待が膨れ上がっているのが感じ取れるからだろうか?
「な、何か問題があるんでぇーすか?」
「……お金よ」
ぴしりと、空気が固まる音が聞こえた気がした。青葉は思わず顔を引き攣らせた。アサキとようが絶句する気配もある。遠くから聞こえる子どもたちのはしゃぎ声が、妙に恨めしく感じられた。
「無世界での滞在がいつまでかわからないでしょう? 食費くらいは確保しておかないと、飢え死にしそうな人がいるし。そうなると、余計なところにお金は使えないわ。旅行って結構お金が掛かるみたいなの」
「そ、そうだな……」
青葉は深々と首を縦に振った。残念なことに、シークレットは貧乏である。その事実だけは揺らぐことがない。自分の声が硬くなっていることを、意識せざるを得なかった。
旅行というものに一体どれくらいの金額が必要かは定かではないが、五人分となるとかなりの痛手になるだろう。
無世界での滞在期間が確定していればまだいいが、神魔世界に呼び戻されるタイミングについてはいまだ不明だった。その間細々と仕事を続けたとしても、大した稼ぎにはならない。できる限り節約するのが当然だった。
「じゃ、じゃあ断るしかないんでぇーすねぇ……」
現実の厳しさを思い知って、アサキの声が萎む。しかしこればかりはいかんともし難い。定職に就いている者がいないのだからどうにもならなかった。諦めるより他ないだろう。
「ご、ご馳走……」
「無世界を発つ時くらいは贅沢することにして。今回は諦めましょう」
がくりと肩を落とし、うなだれたようへと、梅花は静かにそう告げた。痛ましいほどの沈黙が、彼らの答えだった。
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