第15話
「……え?」
梅花が瞬きしている間に、舌打ちした青葉がカルマラも助け起こす。カルマラは相変わらず気の抜けた悲鳴を漏らしていた。
梅花が視線を巡らせると、切り落とされたらしい黒い触手が地面の上をのたうち回っているのが見えた。おそらく青葉たちが助けてくれたのだろうが、状況が飲み込みきれない。
梅花は困惑しながらも辺りの気を探った。跳ねる触手の先にシンとリンの姿が見える。そのさらに向こうにいる魔獣弾が顔をしかめているところを見ると、この事態は彼も想定していなかったらしい。
「魔神弾」
青葉が憎々しげにその名を口にする。彼の視線を追いかければ、右方に黒い影が見えた。右腕の先を無数に枝分かれさせ、ゆったりと歩く魔神弾だった。感情を灯さぬ彼の気は不安定に膨らんだり縮んだりを繰り返している。
「あいつ、やばくないか?」
「やばいと思います」
苦々しい青葉の問いかけに答えたのはよつきだ。ちらと横目で見れば、慌てて駆け寄ってくるよつきの姿が視界に入る。魔神弾の攻撃に戸惑っているうちに追いついてきたらしい。
さらにその後ろには、ホシワ、アサキの姿もあった。誰もが強ばった顔で周囲の様子を確認している。それだけ魔神弾の存在は厄介だった。
思わず梅花は歯噛みする。魔獣弾だけであれば懐に飛び込めばどうにか勝機を掴めるが、魔神弾も現れたとなると話が変わってくる。彼の行動は予測がつかないし、この触手の相手が面倒だ。まともに近づくことができない。
しかも彼が暴れ回るとますますミリカの町が破壊されてしまう。野放しにはできないのに対応策もないという、難しい状況だった。
「こんな時にあいつがいないとはな」
と、アースが毒づくのが耳元で聞こえた。梅花ははっとする。そうだ、彼はレーナに自分たちのことを任されていたのだった。だから駆けつけてきたのか。――つまり、まだレーナは戻ってきていないらしい。
「ほし、い。たり、ない」
思案している間も、魔神弾はうわごとのように何かを呟きながら近づいてきている。その声からはやはり理性が感じ取れない。
じりじりと後退している魔獣弾も、魔神弾の動きを警戒しているようだった。今の魔神弾に敵や味方という概念がないことを理解しているからだろう。先日の戦闘はまさに辺り構わずだった。
緩やかにうねる触手が時折地を叩く。その度にかすかな振動が伝わってくる。結界を張れば攻撃を防ぐことはできるが、そうすると防戦一方となるのが問題だった。
精神系の技や上からの武器であれば効果はあるが、しかし結局は触手を切り落とすことしかできない。本体には届かない。切り落とすだけでも意味があるのならまだましだが、その点については確証がなかった。
前回のような真似が今の自分にできるかどうか、梅花には自信がなかった。無理を重ねれば魔獣弾に隙を突かれる不安もある。ならばどうすればいいのか。
どうにか魔神弾に近づく方法を考えてみたが、どれを選んでも危険性が高いものばかりだった。自分だけならばともかく、仲間たちを巻き込むとなるとどうしても躊躇する。
「危ない!」
その時、背後から声が響いた。それが誰のものなのか頭が理解する前に、梅花は警告に従っていた。半ば反射的だった。庇うように頭に回されたのが誰の手だったのか把握する暇も惜しい。一気に空気が張り詰め、そして弾ける。
まるで空間ごと揺るがされるような、強い衝撃が襲い来る。それが空気を伝う気の波動であると飲み込むのに、少々の時間を要した。梅花は揺れる地に伏しつつ、とにかく必死に何が起こっているのか理解しようとする。
気が集まっているのは前方――シンたちのいた方だ。しかし顔を上げたくとも頭を押さえつけられているせいで、視覚が役に立たなかった。そうなると耳を澄まして気を辿るしかない。
刹那、誰かの悲鳴が上がった。聞き慣れない男の高い声だった。神の誰かかと思ったが、注意深く気を探ったところで気づく。――これは魔獣弾の声だ。聞いたことのないほど甲高い声だったから、すぐにはわからなかった。
一体、何が起こっているのか? 耳を塞ぎたくなるような悲鳴を聞きつつ、梅花は土に指を突き立てた。
魔獣弾の叫声には怨嗟が滲んでいる。それは空間を伝う波動に乗ってこちらにもぴりぴりと伝わってきた。肌を焼くような強い感情に吐き気がこみ上げた。チリチリと内側から焼かれていくような錯覚に陥る。
「レーナ?」
そこで頭を押さえつけていた手が緩んだ。鼓膜を揺らした声、響きから判断するに、アースのものだったらしい。指先に力を込め梅花が慎重に面を上げれば、信じがたい光景が目に飛び込んでくる。
「……えっ」
空を突き進んだ無数の黒い触手が、一点に集まっていた。それは真っ直ぐ魔獣弾の体を貫いていた。
いや、これだけの数となると貫くと表現するのは適切ではないのかもしれない。魔獣弾の上半身が存在していたはずの空間を、黒い筋が埋め尽くしているとでも言うべきか。
「どういうこと?」
答えを求めるよう、梅花は魔神弾へと視線を移す。黒い触手の根本にあたる魔神弾は、先ほどと変わらぬ様子でその場にたたずんでいた。
いや、少しだけ変化がある。不安定だった気が歪ながらも膨れ上がっているし、その口元はかすかに持ち上がっていた。それはぞっとするような笑みだった。
『ゆる、しま、せんよ』
かすかに魔獣弾の声が聞こえる。しかし響き渡る悲鳴を考えれば、はっきり耳まで届くはずのない言葉だった。
梅花が訝しんだところで、ぶわりと再び何かが押し寄せてくる。これは気なのか。いや、気とは表現したくない。まるで空気そのものが揺さぶられるような圧迫感、息苦しさを伴っている。
胸騒ぎを覚えながら梅花はどうにか上体を起こした。
次の瞬間、魔獣弾の体は掻き消えた。白く瞬く光を残し、突として消え去った。梅花は思わず気の抜けた声を漏らす。支えとなっていた獲物を失った黒い触手がぱたりと地面に落ち、その拍子に空気が軽くなった。
全身をざわめかせていた得体の知れぬ感覚が一気に鳴りを潜め、かわりに冷たい風が吹き荒れ始める。
一体何が起こったのか。魔獣弾はどうなったのか。尋ねたくとも問う相手が見つからず、梅花は固唾を呑んだ。前方で座り込んでいるシンたちも、わけがわからないといった様子で呆然としている。
「喰らってしまったな」
その時、背後で声がした。今度ははっきり聞き覚えのある響きだった。慌てて振り返れば、虚空から飛び降りるように着地するシリウスの姿が目に入る。空気を含んで揺れる青い髪、フードが、かすかな音を立てた。
「遅かったか」
ついで、白い光と共にまるで見えない階段から降りるよう、レーナが現れた。差し出されたシリウスの手を取ってふわりと地に足をつけた彼女は、そのまま何かを確かめるように一度爪先で土を叩く。
と、アースががばっと立ち上がる気配がした。
「レーナ!」
喜びと驚きと苦みの入り交じった呼び声だ。レーナは一瞬だけこちらへ顔を向け、ひらひらと右手を振る。いつもより幾分か力のない笑顔だったのが気になったが、身のこなしに不安定なところは見られなかった。
二人一緒ということは、上から直接やってきたのか。
「結界の準備だけしておいてくれ」
誰に対しての言葉なのか明確ではないが、レーナはそれだけを口にする。そして魔神弾の方へと目を向けた。シリウスはその間もじっと魔神弾を見据えているようだった。
先ほどから同じ場所にたたずんだままでいるが、黒い鞭の動きがどうも変だ。どこへ向かうわけでもなく地で跳ね、うねり、蠢いている。
「どうなってるの?」
ついこぼした疑問に応える声はない。異様な風が吹き荒れる中、誰もがレーナたちを見上げていた。すると白い男たちのうち誰かが「シリウス様」と囁く。それはまるで祈りの声にも似ていた。
「全部喰らったみたいだな。暴発までどれくらいあるかわかるか?」
シリウスは誰の方も一顧だにせず、瞳をすがめて頭の横を押さえた。喰らう、暴発という不穏な単語が梅花の胸をざわめかせる。
「あの膨れ上がり方だと一分はもたないな。あくまでわれの予測だが」
答えたレーナは珍しく真顔だった。何か考え込むように顎に手を当て、かすかに眉根を寄せている。その横顔をまじまじと見つめながら梅花は息を呑んだ。――一分。それはあまりに短い。
「わかった。ならば核を一撃で仕留める。溢れ出した分はお前に任せる」
「おい、今のわれにそれをやってのけろと? 保証はできないぞ」
言葉を交わしつつも、シリウスとレーナは目を合わせることすらしなかった。ただ魔神弾を注視し続けている。口調こそまるで日常のやりとりのような気安さだが、何らかの危機的状況が目の前に迫っていることは確かだった。
梅花が拳をぎゅっと握りこむと、アースが背後でまた舌打ちをする。それにつられたわけではないだろうが、複雑な感情を滲ませた青葉の気が静かに近づいてきた。
「梅花……」
「青葉は念のためカルマラさんを連れていく準備だけお願い」
困惑の呼びかけに対し、梅花はそう口にした。彼が欲しかった情報はそれではないだろうが、今は梅花にも確たることが何も言えない。
うまく回らない頭で考えられるのは、ただ最悪の状況に備えることだ。今のカルマラに、自分の身を守る力があるとは思えない。
「ならばこれを使え」
と、そこでシリウスの声が響いた。彼がどこからともなく取り出したのは短剣だった。それを放り投げるようにレーナに手渡す。
梅花の位置からではどんな短剣なのかはっきりとは見えなかったが、華美な装飾があるようではなかった。今リンが手にしているラウジングの短剣に近い。
「貰い物だ。今のお前にはぴったりだろ」
苦い顔ばかりしていたシリウスが、ふいと笑った。柔らかいのにどこかほくそ笑むような眼差しが妙に印象的だった。
ついで彼は答えを待たずに地を蹴る。深い青の髪が風に巻かれ、なびくよう揺れた。蠢く黒い触手を器用に避け、彼は真っ直ぐ魔神弾本体を目指す。
「足元を見られたものだなぁ」
短剣を抱えたレーナはため息を吐いたようだった。その珍しい反応に梅花が瞠目していると、辺りを吹き荒ぶ風の勢いがさらに強くなる。
「仕方がないな、期待に応えてやろうか」
そしてレーナは微笑んだ。短剣を目の前に掲げる姿は、厳かに祈りを捧げる少女のようだった。その独り言に呼応するよう、空気が震える。風に煽られて揺れる長い髪が、一瞬レーナの表情を隠した。
黒い触手の一部が再び地で跳ねた。そちらへと短剣を突き出したレーナは、小さく何かを唱えたようだった。
風の音に紛れ途切れ途切れにしか聞こえないそれは、覚えのない旋律に乗せられていた。何を言っているのか聞き取れないのに、ぎゅっと胸の奥を掴まれたような心地になる。梅花は固唾を呑んだ。
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