第12話
神界の空気を清浄だと表現したのは誰だっただろうか。白い床に白い壁、仰いだ空も揺らめく真珠色、注ぐ日差しは眩しいほどであり、とにかくひたすら光に満ちた世界だ。初めてここを訪れた者は、この目映さに目がくらむという。
シリウスに言わせれば、ここはとにかく濃密な場所であった。光が、気が、あらゆるところに充ち満ちている。これほどにもなるとそれは息苦しいと言ってもよいのかもしれない。
ひたすら純粋で鮮烈な気も、複数集まれば一種の毒だ。互いが互いに遠慮なく自らの存在を主張している空間は、ともすれば喰らわれる。
「慣れとは恐ろしいものだな」
しかしほとんどここしか知らぬ者たちにとっては、それが当たり前なのだ。彼らはここを窮屈だとは思ってもいない。
するとぽつりと呟いた言葉を拾われたらしく、隣から怪訝そうな眼差しが向けられた。規則正しく響く靴音に耳を澄ませながら、シリウスは「いや」と首を横に振る。後ろで軽く結わえた髪がわずかに揺れた。
「よくもこの閉じた世界で生き続けられるものだなと思ってな」
相手が同じ神であればまず言葉にしない、素朴な感情だった。誰もが一度は『下』の空気を吸っているはずだと考えると、ここの濃密さが性に合っているのか。それとも外のことを単に忘れているだけなのか。
どちらにせよシリウスには信じがたいことだった。久しぶりに訪れる度に再確認するが、彼はここが最も苦手だ。
「ああ、なるほど。しかしここの気がこうなってしまったのは、アユリの結界に加えて雑多な結界を張り巡らしてしまったからだろう? そうでなくとも鍵の真上なのだから、敏感であればあるほど生きづらいな」
苦笑されるかと思ったが、隣を行くレーナは当たり前といった口調でそう述べた。まるで思考が読み取られたかのような返しには少々喫驚せざるを得ない。そこまで口にしたつもりはなかったのだが。――これだから彼女は怖い。
「お前はどこまで知っているんだ」
思わずため息を吐きそうになりながら、彼は片眉を跳ね上げた。彼女と遭遇し、その存在を知り、別れてから、できる範囲で調べ尽くしたはずだが、それでも彼女が何をどこまで知っているのかだけは掴めなかった。
「腐れ魔族」と呼ばれる魔族の持つ知識、また彼の研究所にいた女神の知識は持っているのだろうと予測できるが、まずそれがどの程度なのか推し量れない。どこをどう探ったところでそれを確認する術は見つけられなかった。
「どこまで? さあ。お前と同じくらいは知ってるんじゃないかな」
まるでからかうような一言と共に、くつくつとした笑い声が漏れ聞こえる。さも嘲笑うかのような行為には、ケイルならば憤るところだろう。しかし彼女相手に怒りを露わにしたところで無意味だし、疲れるだけだとわかっている。
「つまりそれは相当知っていることになるが」
「だからそうだと言っている」
この自信に満ち溢れた言動も、実力に裏打ちされたものと考えれば「そうか」としか答えようがない。
それに彼女がどれだけ弱くなっていたとしても、得られた知識が失われたわけではないだろう。魔族に関するものについてならば、彼女の方が詳しいに決まっている。
「どうやら待ちきれなかったみたいだな」
すると彼女が楽しそうにそう呟いた。優雅に頭が傾けられると、結い上げられた彼女の髪がたおやかに揺れる。
白い回廊の前方にある気を感じ取ったからだろう。しかし、まさかそれが誰のものかまでわかっているのか? 彼女はアルティードたちとも顔を合わせたことがあるのか?
「話が早くて助かる」
「ただ居ても立ってもいられなかっただけだろう」
嘆息したシリウスは少しだけ歩調を速めた。嫌なことを先延ばしにしたくないのは彼も同じだ。
さらに進んでいけば、回廊の先に二人の男の姿が見えた。アルティードとケイルだ。どうやらジーリュはこの件に関わるのを拒否したらしい。
「……本当に連れてきたんだな」
声が届く距離まで近づいたところで、ケイルが苦々しい顔で呻いた。
実際に目にするまでは信じたくなかったのだろう。鼻眼鏡を正す仕草はいつも通りだが、その気には若干の後悔が滲んでいる。ジーリュのように顔を合わせることも拒絶すればよかったと、そう考えているのかもしれない。
「わざわざこうしてやってきたのに、その言い草とはひどいなぁ」
アルティードたちから少し離れたところで彼女は立ち止まった。かつんと甲高く響いた靴音が、張り詰めた空気を強調する。
ちらと横目で見た限りでも、いつもの余裕の笑顔を二人に向けている様子だった。この挑発するような態度がなければ信頼も勝ち得やすいと思うのだが、シリウスとしては人事ではないので黙っておく。
「もっと歓迎してくれてもいいのに」
彼女にあわせて足を止めたシリウスは、まず何から口にすべきかと逡巡した。ジーリュへの話がどうなったのか聞き出したいところだが、彼女を前にそれを言ってよいものかどうか悩ましい。
「勝手に乗り込んできた奴には言われたくないな」
と、ケイルはあからさまに顔を歪めた。今の言葉を聞く限り、やはり彼女は一度彼らとも顔を合わせているようだ。「乗り込んできた」ということは神界に無断侵入したのか。
普通の魔族にはできない芸当だが、神界の入り口が複数あることをシリウスも知っているため、あえてここでは何も言わないこととした。世界と世界を繋ぐ場所は大概一つではない。ただ、それを見つけるのが大変難しいだけだ。
「まあ、あれはそれとして。今回はお招きいただいたから、こうやっておとなしくやってきたんだ」
「まさか、逃げずにおとなしくしているのが証拠とでも言うのか?」
手をひらひらとさせる彼女に、ケイルは嫌味っぽくそう告げる。ひとこと言ってやらなければ気が済まないらしい。
その隣では額を押さえたアルティードが困惑顔をしていた。お互いいきなり喧嘩を売らないで欲しいとその気が訴えている。シリウスも少々頭を抱えたい気分だった。一体どうしてこうなるのか。
「そこは誠意と言って欲しいな。われはお前たちを信じてここまでやってきたんだ」
視線を巡らした彼女はふわりと顔をほころばせた。その言葉を裏付けるよう、彼女の気からは微塵も敵意が感じられない。
もっとも、元々彼女にそんなものはない。目的の害になるようならば仕方なく排除するという姿勢は一貫していた。
「ほぅ」
そこでケイルは興味深げな声を漏らした。その瞳に何か嫌なものが宿った気がして、シリウスは眉根を寄せる。根拠のない直感だが、ケイルがこのような表情を浮かべる時はろくなことがない。
シリウスは素早く周囲へと視線を走らせた。気も探ってみたが、辺りには全く気配がなかった。アルティードの部屋に向かう回廊の途中というせいもあるが、それだけではないだろう。これは前もって近づかないよう警告している。
「信じてね。なるほど。ではそれを示してもらおうか」
一言一言ゆっくり口にしながら、ケイルは胸を張った。その眼差しが何故かやおらシリウスの方へと向けられた。
嫌な予感が的中しそうな気配に、シリウスはつい舌打ちしそうになる。だからケイルの相手は嫌なのだ。アルティードに言いくるめられた後のケイルは、どうしてだかシリウスに八つ当たりを仕掛けてくることが多い。
「シリウス、こいつを殺さない程度に痛めつけろ」
尊大に胸を反らしたケイルが言い放ったのは、想像だにしなかった命令だった。一瞬意味が飲み込めず、シリウスの思考はその場で停止する。それからようやく言葉を噛み砕いたところで「は?」と低い声が漏れた。
不本意どころではない指示を一方的に突き付けられたとなれば、これも致し方ないだろう。それでもケイルは涼しい顔をして鼻眼鏡の位置を正していた。
「それは、どういう意味だ?」
「そのままだ。こいつを死なない程度に動けなくしてみろ。この女が何の防御もなく甘んじて受け入れたら信用してやると、そう言ってるんだ」
ケイルは名案だろうとでも言いたげな顔つきだった。絶対に彼女がそれを受け入れないだろうと信じ切っている目をしていた。
おそらくジーリュたちと話し合ってこの提案をすることを決めていたに違いない。まさか信用されるために瀕死になることを受け入れる者などいないと思い込んでいる。
その浅はかさにシリウスは頭痛を覚えた。こんなことで彼女がたじろぐと思っているのが間違っている。
「どうしてその役回りが私なんだ」
深々としたため息を交えつつ、一応反論を試みてみる。そんな鬱陶しい提案をするのなら、自分でやればいい。そこに何故シリウスを巻き込もうとするのか。
――無論、想像はついていた。やはりシリウスへの当てつけだ。面倒ごとを嫌う自分への一種の嫌がらせだ。「とんでもない申し出をしてくれたな」というケイルたちの意志が感じ取れる。彼らはいつも異例を嫌う。
「ほう、シリウス。彼女相手に、私にそのような加減ができるとでも? 無理だろう。だがお前になら可能だ」
うろんげな目を向ければ、ケイルは悠然と言い切った。できないことを自信たっぷり断言するというのもおかしな話ではあるが、単なる言い訳ではない。
確かに、この得体の知れない存在を動けなくするだけの技を使えというのは、普通の神には無理だ。彼女が結界も何も使わないのであれば殺すことは可能だろうが、ちょうどよい瀕死にするというのは微調整が必要となる。
が、普通はそんな技能は持ち合わせていない。核に傷を負ったケイルにはなおのこと難しいだろう。だからといってアルティードに押しつけるのはさすがに憚られた。
なるほど、ジーリュがいなかったのはこのためだったのか。シリウスはそう察する。
「なんだ、そんなことか」
反論が浮かばずシリウスが閉口していると、彼女は右手をまたひらりと振った。安堵さえしたようなその声音に、ケイルがあからさまに驚嘆する気配が感じられる。視線が軽く泳ぎ、その気に動揺が滲み出た。
だから馬鹿なことを言うものではないとシリウスは吐き捨てたくなった。彼女は自分にのみ害が及ぶことに関しては、どこまでも寛容だ。
「それで信用してもらえるというのなら話が早い」
「……お前な」
にこやかな笑顔が向けられたのを察知し、シリウスは呻きながら左手を見た。案の定、彼女は満面の笑みをたたえたまま小首を傾げてこちらを見ていた。先ほどまでの挑発的な言動が嘘のように、黒の瞳には華やかな喜びが宿っている。
「ほら、どうぞ。われはこの通り逃げるつもりなんてないし」
「本気か」
「本気本気。だってここでお前がわれを殺しても何の得にもならないだろう? ほら、われはお前の姿勢は信用しているし。実力に関しては言わずもがなだ」
「あのなぁ、少しは躊躇しろ。死なないことと、痛みがないことは同じではないんだぞ?」
「そんなことは無論承知だ。いやぁ、われのことまで心配してくれるなんてシリウスは優しいなぁ」
間延びした彼女の話し方は、こちらの戸惑いを苛立ちにでも変える目的なのか。視界の端に映るアルティードは気の毒そうな顔をしていた。「すまない」とその気が訴えているが、この場合はどうしようもない。
ケイルも胸を張って言い切ってしまった以上、この条件を変えることはできないだろう。つまり、後はシリウスが腹を決めるだけだ。
「――仕方がないな。精神系でも使えば異論はないだろう?」
これならば普通は死ぬことはない。もちろん、それでもとんでもない威力で強打をすれば滅びてしまうことはある。
過去にも何度か下級の魔族に情報を吐かせようとして失敗したことがあった。最近ようやく加減を覚えてきたところだ。
だが彼女に対してどこまでの力を使えばいいのか、そこまではわからない。足りなければきっとケイルはあれこれ理由をつけて拒否しようとするだろう。難しいところだ。
「面倒だな」
思わず低く毒づいたが、それでも当の彼女は隣で笑顔と愛嬌を振りまいていた。段々と諦めの境地に至りながら、シリウスは大きく嘆息する。
これも全て彼女のせいだ。たとえしばらく動けなくなったところで反感を持たれる筋合いはないだろう。そう開き直ることにする。
彼女の仲間たちには恨まれるだろうが、仕方がない。後の言い訳は彼女自身に任せればいいだろう。
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