第9話

「ところでラウジングは大丈夫か?」

 静まりかえった室内に、アルティードの気遣わしげな問いかけが染みた。ようやく肩から力が抜けたカルマラは、ゆくりなく顔を上げてそちらを見遣る。

 先ほどまでこの部屋を満たしていた緊張感は、ジーリュたちがいなくなることで消失した。それでも体の奥にぴりぴりとした感覚が残っている。何度体験してもこれだけはいっこうに慣れない。

「た、たぶん大丈夫だと思います」

 答えたカルマラの脳裏を、眠るラウジングの顔がよぎった。避難の主導に当たっていたカルマラは、戦闘がどの程度の規模だったのか把握していない。ただしラウジングの傷が浅くないことははっきりしていた。ただ致命的ではないだけだ。

「核の傷はありますが治癒可能なくらいって聞いてます」

 このところラウジングは負傷続きだ。回復が遅いのはその影響もあるだろう。こうしたことを繰り返した結果「戦えない者」たちが増えたことを思うと、カルマラもいささか不安になる。

 一つ一つの怪我はさほどでなくとも、積み重なっていくと取り返しのつかない傷となる。それは実に恐ろしい。ただでさえ少ない戦力が失われることも、仲間が失われることも。

「そうか」

 アルティードの瑠璃色の瞳がそっと伏せられた。白く艶やかな床を見下ろす横顔には確かな憂いが見て取れる。

 アルティードが案じているのも同様のことだろう。このまま行けば、その「戦えない者」たちもどんどん駆り出さなければならなくなる。

「あいつも難儀な性格だしな。……そうだな、久しぶりにカシュリーダを呼んだらどうだ?」

 しばし何か考え込んだ後、顔を上げたアルティードはそう提案した。思いも寄らぬ名前にカルマラは眼を見開く。

 ミケルダの妹であるカシュリーダとは昔からの知り合いだ。「戦えない者」となった彼女は神界で仕事をしていることが大半だが、それでも『下』が落ち着かない現状では彼女も忙しいはずだった。

「リーダも、たぶん多忙だと思いますけど……」

「だが彼女はラウジングと気の相性がいいだろう? 忙しいことは忙しいだろうが、しかしシリウスの名を出せば来るだろうしな」

 戸惑いつつそう返答すると、アルティードはどうとでも受け取れる笑みを浮かべた。シリウスの名を出されると、カルマラも閉口せざるを得ない。

 シリウスと会えるなら、どんなに忙しくともカシュリーダは絶対に来る。それは間違いなかった。

「そこまでしますか?」

 アルティードはラウジングの怪我をそれほど重く捉えているのか? カルマラたちの間では、シリウスの名を使うことは禁忌に近い。自分本位の場面では絶対に口に出せない。そういう存在だった。

 シリウスは英雄だ。特にカルマラたちのようないわゆる第二世代と呼ばれる神にとって、彼は命の恩人であり救世主であり憧れだった。

 伝説的な存在となっている転生神の姿を見ることはなかったが、救世主であるシリウスは幾度となく彼らを守ってくれた。カシュリーダの命があるのも彼のおかげだ。

「勝手に名前出したら、シリウス様怒りますよ?」

 だからこそこれ以上シリウスに迷惑をかけたくないという思いが誰の内にもある。彼の力を頼る者は多い。また必要とされているのはこの星だけではない。根がお人好しな彼が頼まれ事を断るのが苦手なのは、カルマラもよく知っていた。

「あちらも無理を言ってきたのだからな、強くは出てこないだろう」

 それはアルティードも同じだと思っていたのだが、違うのだろうか。カルマラは顔をしかめつつ、口の端を上げるアルティードを見上げた。

 だがすぐに「無理」の意味を思い出し、半分ほどは納得した。なるほど、半分は当てつけなのか。ジーリュに話を通すという難題を押しつけられたアルティードの、ささやかな反撃だ。

 そんな場面に遭遇してしまったため、カルマラは憔悴したのだが。

「……シリウス様は本気なんでしょうか」

 ジーリュの苦い顔を思い出し、カルマラは思わずそうこぼす。

「本気で、レーナたちを仲間にできると思ってるんでしょうか」

 その話を聞いた時、カルマラとて耳を疑った。シリウスが冗談を言うとは思えなかったが、そうではないかと考えたくもなった。レーナを仲間にするなど無謀すぎる。

 確かにレーナたちは、こちらが手を出さない限り攻撃してくることはない。はじめこそ神技隊を襲っていたが、それもどうやら命を奪うのが理由ではなく、危機感を煽るためだったらしい。

 そう考えるとむやみにこちらが敵視しなければ大きな問題とはならないのかもしれない。ただそれでもこちらに引き入れるとなると警戒せざるを得ない。その出自に魔族が関わっていることは確かなのだ。

「仲間にする、とはあいつは思ってないんだろうな」

 長い銀の前髪を掻き上げつつ、アルティードは苦笑した。それは先ほどの話し合いの最中でも口にしていた。

 もっとも、その微妙な違いがカルマラにはわからない。きっとジーリュたちにも伝わっていないだろう。だから話が行き違う。

「シリウス様ってそういうところありますよね。というか、シリウス様って誰のことも仲間とは思ってなさそう」

「それは仕方ないだろ。あいつは過去を失っているんだからな」

 天井を見上げるアルティードから、カルマラは目を逸らした。それを寂しいと感じることは間違っているのだろうか。たとえ間違っていたとしても感情は消えないから、どうにか消化しなければならないのだが。

 どんなに距離を縮めたつもりでも、シリウスはどこかで一枚壁を作っている。彼にとって自分たちはどこまでも加護すべき存在なのだ。

「だがあいつの言うことももっともだ。我々は何を利用してでも、ここを守らなければならない」

「……それがレーナたちでもですか?」

「ああ」

「人間たちでも?」

「――ああ」

 重々しく吐き出された言葉にカルマラは瞠目した。もう一度アルティードの方へと向き直れば、彼はじっとどこか遠くを見つめるような顔をしていた。決して天井を見ているわけではない。

「カルマラはミリカの町を見たのだろう? どんなに巻き込むまいとしても、一度魔族が暴れたら終わりだ。この星に住んでいる限り避けられないことだ。ならば、彼らにも自らの居場所を守ってもらうしかない」

 自己嫌悪も罪悪感も全て押し殺したようなアルティードの声音。カルマラは口にしかけた言葉を飲み込んで小さく頷いた。

 いくら理想論を述べてもそれに見合う力がなければ無意味だった。人間に頼らずにすむだけの戦力があればと嘆いていても仕方がない。巻き込むための準備もできている。

 そもそも、レーナたちがいる限り避けては通れない道なのかもしれない。

「……そうですね」

 カルマラは声を絞り出した。ならばシリウスの名を出すことくらい飲み込まなければ。全てがよい方向へと転がることを願いつつ、そっと彼女は拳を握った。




「来ないですね」

 静寂が満ちる森の中、しびれを切らした青葉がそう漏らした。切り株に腰掛けて目を伏せていた梅花は、耳を澄ましながらそっと顔を上げる。

 気怠そうな顔をした青葉の隣では、シリウスが何か考え込むような目をしていた。

 三人でここに陣取ってからどれくらい経つだろう? ただひたすら待っているせいで長く感じられるのかどうかも、今の梅花には定かではない。

 さらに上へと視線を向ければ、鬱蒼とした木々の向こうにちらとだけ青空がのぞいた。森をぬければ燦々とした日差しが降り注いでいることだろう。こうして待っているのがもったいないくらいの晴天だ。

「これでレーナが来なかったらどうするんですか?」

 先ほどから気になっていたことを、思い切って梅花は問いかけてみた。リシヤの森にただ三人でいるだけでは、レーナも怪しんで来ないのではないか。そんな気もしてくる。

 彼女が出掛けようとしてもアースたちが止めるかもしれない。先日の戦いで彼女も負傷しているはずだった。

「そうだな」

 そこでようやくシリウスが声を発する。いくら青葉がぼやいたところで無反応だったのだが、何か思案していたのだろうか。腕組みをしたシリウスはちらと梅花へ視線を寄越した。

「その場合はもう少しお前たちに危険な目に遭ってもらう必要があるな」

 淡々とした口調だったが、その内容は不穏だった。思わず青葉が「げっ」と呻く。梅花は小首を傾げつつ頬へと指先を当てた。

「本気だって、思ってもらえるでしょうか?」

「疑われるのならば、本気と思ってもらうまでやるだけだ」

「……シリウスさんって、目的のためなら結構容赦ないですね。そういうのは嫌いじゃないですが」

 危険な目に遭ってもらうというのは、具体的にどういう行為を想定しているのだろう。尋ねたい気もするが、聞かない方がいい気もした。

 梅花はともかくとして、おそらく青葉は文句を言い続けることだろう。ならばぎりぎりまでは曖昧にしておくべきだ。

「おい梅花、そんなあっさりとした反応でいいのかよ。何かとんでもないこと言われてないか?」

 案の定、焦った様子で青葉が詰め寄ってくる。しかしここで「やっぱり止めました」と言ったところで、シリウスから離れられるとも思えなかった。

 そもそもここはリシヤの森だ。一歩間違えれば空間の歪みに巻き込まれる場所。迂闊な行動は慎むべきだろう。

「言われてるけど。でも仕方ないじゃない。それ以外の方法でどうやってレーナを呼び出すの? 今までの行動を思えば、私たちに危険が迫ればやってくるのは間違いないじゃない。他の方法があるならかまわないけど、思いつかないでしょう?」

 レーナはさながら救世主のようだ。魔族と抗戦する時は必ず現れると言ってもいい。彼女がいなければ死んでいただろうと思われる場面は幾度となくあった。神技隊を守るという言葉通り、いつだって彼女たちはやってくる。

「……性格も似るんだな」

 そこでぽつりとシリウスが独りごちた。一瞬何を言われているのかわからず、梅花はぽかんとしてしまった。それから彼の言葉を噛み砕き、言わんとしていることを予測し、閉口する。

「似て、ます、か?」

 梅花は思わず問い返した。ぎこちない尋ね方になった。レーナの笑顔を思う時、あの余裕に溢れた、自信に満ちた言動を思い出す時、自分との相違にどうしても複雑な気分になる。あのようには振る舞えないと眩しい気持ちになった。

 だから性格も似ているとはどうしても思えない。

「度胸と割り切り方、感情と客観を切り離した思考がよく似ている」

 それなのにシリウスはそう言い切った。躊躇いのない口調だった。そういった部分を抜き出されると、確かに似ているのかもしれないと思えてくるから不思議だ。自分のことは後回しにする癖も同じなのかもしれない。

 しかしそこまで口にできるほどに、彼はレーナのことを知っているのか。その事実の方が梅花には興味深かった。

「そ、そうですか……」

「ああ。お、噂をすれば来たようだ」

 戸惑った梅花が相槌を打った時、不意にシリウスは振り返った。その気に愉悦の色が混じる。

 はっとした梅花がそちらへ視線を向けるのと、気が現れるのは同時だった。確かに先ほどまで何もなかったはずの空間に、一瞬白い光が満ちる。そこに確かな気の流れが生まれる。

「お待たせしたようだな」

 ついでレーナの声が辺りに響いた。とんと水たまりでも飛び越えるような足取りで着地した彼女の髪が、ふわりと優雅になびいた。その後ろではアースが大袈裟に嘆息していた。

 梅花たちのいる切り株から大人の足で十数歩ほどの距離だろうか。静かに広がる草原の上に、二人はたたずんだ。

「――レーナ」

 梅花はそっと立ち上がった。それ以上何と呼びかけてよいのかわからず、開きかけた口を閉じる。

 すると微笑んだレーナと目が合った。何度も見たあの朗らかで穏やかで、胸の奥がぎゅっと掴まれるような優しい微笑。

 ひらりと振られた手の動きにあわせて、額に巻いた白い布が揺れる。今の動作を見る限り、左腕は問題なく動くようになったらしい。

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