第7話
「あ、梅花ちゃんいたいた!」
人数分の食堂カードを受け取った途端、呼び止める声があった。ミケルダだ。総事務局の受付の前で足を止めるのは許されざることだが、上の者がいるとなれば話は別だろう。
梅花がその場で振り返ると、結わえていない長い髪が揺れた。その様を視界の隅に収めつつ、彼女は透明な袋を両手で抱える。中にはカードだけでなく説明事項を記した紙が詰め込まれているため、見た目よりも重い。
「ミケルダさん、お疲れさまです」
梅花は軽く会釈をした。総事務局員がいる手前、礼儀正しくしておいた方が面倒事にならずにすむ。彼女がじっと待ち受けていると、ミケルダは垂れた目を人懐っこく細めた。小走りで駆け寄ってくる姿に疲労は滲んでいない。
「ここにいるはずだってリューちゃんに聞いてさ」
梅花の前で立ち止まったミケルダは、局員の方は一顧だにせず軽く彼女の肩を叩く。歩くようにという合図だ。頷いた彼女は白い廊下を進み始めた。局員の耳には入れたくない話題なのだろうか。
「何か用なんですか?」
わざわざ梅花を探していたということは、ただ話しかけたかっただけという理由ではないだろう。あちこちで駆り出されて忙しいリューに確認するくらいの用件ということだ。梅花が気を隠していなければそんなことをする必要もなかっただろうが。
「ミケルダさんも忙しいでしょうに」
リューが目を回すくらいとなると、ミケルダの多忙具合は推して知るべし。だからあえて接触しないようにしていたのだが、何かあったのか? するとこちらへと視線を向けてミケルダは笑う。
「用ってほどじゃないんだけど、早めに伝えておきたくてねー。あの毒に対する薬、それらしいのができたよ」
さらりと告げられたのは予想もしない報告だった。思わず梅花は眼を見開く。まさか、こんな短期間で解析したというのか? ミスカーテや魔獣弾との戦闘からまだ丸三日も経っていない。それだけ上も危機感を抱いているということなのか。
「は、早いですね」
答える声がかすかに震える。袋を抱え直した梅花は顔をしかめそうになるのをどうにか堪えた。つい振り返りたくなるのは、局員が耳を澄ましているかどうか気になったからだ。おそらくまだ公表されていない話なのだろう。
「これはあんまり口外して欲しくない内容なんだけど。実はやっぱり、昔の奇病と似てるみたいなんだ。だからあの時の薬とワクチンの情報が利用できそうだって。それで案外早かったんだ」
そこでミケルダは声を潜めた。一瞬耳を疑った梅花は、彼の言葉を脳裏で繰り返す。
昔の奇病。あえて「昔」と強調するということは、先日のバインでの怪しい流行病とは違うという意味だ。つまり十五年ほど前にこの世界を一変させた、あの奇病を指しているのだろう。
「――そうなんですね」
ようやく絞り出した声はかすれていた。抑揚もさらに乏しくなった。あの奇病は多くの大人たちの命を奪っていった。何故か子どもが重症化することはなかったが、それでも被害は甚大だった。
梅花はまだまだ幼かったが、それでも周囲が騒然としていたのはよく記憶している。あんな得体の知れない病がどうして急に広まったのかと皆訝しんでいたのだが……ミスカーテの毒とよく似ているということは、つまり、そういうことなのか。
「あれ、病気ではなかったんですね」
奇妙な流行病がその後繰り返されることはなかった。何故なのかわからなかったが、あれが人工的な毒だったのだとしたら腑に落ちる。一体どこを経由したのかは不明だが、ミスカーテの毒が持ち込まれたと考えるべきだろう。
そんな結論に辿り着いてしまうと、つい眉根が寄った。今朝滝が目を覚ましたことでせっかく気持ちが浮上していたのに、にわかに沈み込んでいく。
「うん、そう考えるしかないね。でもおかげで今回の騒動はどうにか沈静化できそうだってさ。ミリカの町をどうするのかって問題は残ってるけどねー」
突然ミケルダの歩調が遅くなる。それにあわせて速度を落としつつ、梅花は口をつぐんだ。その点に関して彼女に言えることはなかった。
あれだけ町の中心が破壊されてしまったとなると、復興には時間がかかるだろう。ミリカの住居は周辺部にあることが多いので、被害に遭ったのは店や公共施設が中心だ。住処が奪われた者が少なかったのは不幸中の幸いと言うべきなのか。
「……そうですか」
だが生きていればいいなどと軽々しく口にできるものではない。瓦礫の山を思い返すと、答える声まで萎んだ。あれを見た人々は何を思うのだろう。それが怖い。
「神技隊の方はどんな感じ?」
そこでミケルダは急に話題を変えた。声の調子まで変化した。この空気を払拭したかったに違いない。ミケルダの足取りが軽くなると、白い廊下に響く靴音まで甲高くなる。
「滝先輩が今朝目を覚ましたので、あとは体力や精神力の回復を待つ感じですね。他のみんなもそれなりに順調です。……そうなると、もしかしたら静養室を追い出されるかもしれませんが」
今の懸念はそこだった。無理やり取り付けた許可は、ともすればすぐに撤回されてしまう。そのため、滝が目覚めたことはまだリューにも伝えていなかった。いずれわかってしまうことではあるが、ほんのわずかな先延ばしだ。
その前に食事の融通をもう少し何とかしてもらおうと交渉した結果がこの食堂カードだった。これがあれば宮殿内の食堂が利用できる。期限付きではあるが、質素な簡易食が運ばれてくるのを待つよりはましだろう。
「誰も使わないのに、みんな頭固いからなぁ。わかったわかった、じゃあこれは秘密で」
「そうしていただけると助かります」
「で、梅花ちゃんはそんなものまで用意しちゃったわけだ」
そこでミケルダはくるりと向きを変える。彼の長い指が指し示したのは、梅花が抱えた袋だった。中が見えないよう両手で抱え込んでいたのだが、彼には見抜かれてしまったか。
「はい。できる限り早い回復には、少しでも栄養のある食事が必要ですから」
答える声につい苦笑が混じる。今朝から「お腹すいた」「足りない」「肉が食いたい」という文句が静養室の中に溢れていた。
朝食は薄いパンに野菜とチーズが挟んであるだけの、きわめて質素なものだった。あんなもの一つでは成年男子たちの胃を満たすことは不可能だろう。
「あーそっか、そうだよねぇ」
するとミケルダはわかったようなわからないような曖昧な返答をする。そこで梅花は一つの噂を思い出した。上の者は食事を必要としないという『言い伝え』だ。実際ミケルダが食事をとっている姿を見たことがない。
何事もなければついでとばかりに確認してみるところだが、今はミケルダも多忙だ。余計な時間をとらせるわけにはいかない。
ぐっと疑問を飲み込んだところで、廊下の突き当たりまで辿り着いた。ぴたりと足を止めた彼はおもむろに振り返る。梅花も立ち止まった。彼は手をひらひらとさせ、口角を上げる。
「じゃあ梅花ちゃん、また何かわかったら連絡するわ。オレこっちだから」
「……わざわざ探さなくても大丈夫ですよ。ミケルダさんも、忙しいでしょう?」
また袋を抱え直して首を傾げれば、ミケルダは何故か思い切りため息を吐いた。その気が「わかってないなー」と語っている。何がわからないのか解せずに瞳を瞬かせると、彼は人差し指を立てて軽快に振った。
「あのねー忙しいからこそ梅花ちゃんに会いに来てるんじゃない。辛気くさい、息苦しいところにばっかりいたらオレの精神まいっちゃうから。そこんところわかってよ。ね?」
輝かんばかりの笑顔を向けられて、梅花は気のない声を返した。またミケルダの癖が出ているらしい。
彼は疲労が溜まる一方になると、女性のところに頻繁に顔を出すようになる。それが彼の手っ取り早い精神回復方法なのだそうだ。人と会うと疲れる彼女としては信じがたい話だ。
「あ、梅花ちゃんわかってないって顔してる。あのね、オレは女の子なら誰でもいいってわけじゃないからね? そこ勘違いしないでよ!」
ミケルダは振っていた手で自らの胸を叩いた。そう言われても今まで見聞きしてきた数々の実績を考えれば「そうですか」とは答えられない。曖昧に頷いた梅花はかすかに苦笑をこぼした。
「わかりました。ではそういうことにしておきます」
「ひどいなぁ」
確かに女性なら誰でもいいわけではないらしいというのは知っている。皆はその選定基準を容姿だと思っているようだが、実のところは気が占める部分が大きいらしい。
気に好みがあるというのは初めて聞く話だが、上の者ならそんなこともあるかもしれないと納得してしまうから不思議だ。もっとも、どんなに気が好みでも男は選ばないというから、やはり見た目も大事なのだろう。
「ではミケルダさん、私もこの辺で。カードをみんなに届けないとお昼の時間になってしまいますので」
「あ、そうだね。食堂が混む前の方がいいね」
そこで梅花は軽く一礼した。これ以上ミケルダを引き留めるのはまずい。
それに彼が指摘する通り、宮殿の者たちが昼休みに入る前に食堂を利用するのが賢い方法というものだった。今の時間帯であればせいぜい子どもたちがいるかどうかというところだ。宮殿の食堂はいきなり何十人もの人間が増えることを想定した作りをしていない。
「じゃあまたね」
手を振りながら右手へ去っていくミケルダの姿を、梅花は見送った。今後のことを考えないようにと思っても、抱えた袋がそれを許してはくれなかった。
魔族との戦闘から四日が経った。静養室に突然の来訪者が現れたのは、朝食後のことだった。
まだ動けない者たち用の食事を、ちょうど梅花が運び終えたところだ。籠を抱えた彼女がほっと息を吐いたところ、扉をノックする音が部屋の空気を揺らす。
「失礼する」
向こう側から響いたのは聞き慣れない声だった。気を隠しているのか感じ取ることはできないが、無視するわけにもいかない。
訝しく思いつつも「はい」と返事をすれば、扉がゆっくり開く。そこにたたずんでいたのは予想だにしない人物だった。あの青い髪の青年――シリウスだ。
「朝早くからすまない」
「……おはようございます、シリウスさん」
扉のすぐ傍にいた梅花がどうしても応答する羽目になる。呆然としながらも挨拶を口にすれば、シリウスは何故だか複雑そうな顔をした。
気を隠しているせいでその表情の裏にある感情など予測もつかないが、何か用があってここにきたのは確かなのだろう。戸惑いながらも彼女は問いかける。
「あの、先日はどうもありがとうございます。その、何か用ですか?」
一度礼が言いたいと思っていたところだったのでちょうどよい機会だった。まずは軽く頭を下げてから用件を尋ねれば、後ろから靴音が近づいてくる。この気は青葉だ。
振り返るわけにもいかず肩越しにちらとだけ見遣れば、青葉も何故だか微妙な表情を浮かべていた。命の恩人を前にその態度はまずいのではと思うが、それを指摘する空気でもない。梅花が視線をシリウスへと戻せば、彼は小さく首を縦に振った。
「レーナの件で話がある」
シリウスは端的にそう述べた。「レーナ」という響きが、妙に重たく鼓膜を揺らした。
真っ直ぐ向けられた眼差しの強さには、つい気圧されそうになる。青い瞳はさながら深い海のようで底が知れない。彼が気を隠していなかったら一体どうなっていることか。
「話、ですか」
それは神技隊にではなく、梅花にということだろうか? 自分を見据えてくるシリウスの双眸からはそのように読み取れた。何よりレーナと名指しするところが気に掛かる。
「ああ、そうだ。協力して欲しい」
「それは、どのようなものに対してなのか聞いてからではないと答えられないのですが」
妙に低姿勢ではあるが、シリウスも上の者。突然物騒なことを言い出す可能性もあった。念のためそう答えれば、シリウスは納得したような声を漏らす。
室内にいる者たちの視線がじっとこちらに注がれているのは、振り返らずとも感じ取れた。朝食でまだ不在の者もいるが、大体の神技隊は静養室に戻ってきている。
これから何が始まるのかと、一気に室内に満ちる緊張感。梅花も胃が押しつぶされそうな心地になる。
「確かにそうだろうな。では単刀直入に言おう。レーナをこちらに引き入れたいから協力して欲しい」
淡々としたシリウスの声が、全ての音を奪ったかのようだった。耳を疑った梅花は彼の言葉をもう一度胸中で繰り返す。
レーナを引き入れたい? 引き入れるとはどういうことなのか? 脳裏をよぎるのがあまりに現実的ではないものばかりで、しばし混乱する。
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