第7話

「滝さん!」

「それにカイキとイレイだわっ」

 魔獣弾と戦っていた三人だからなおのことわかりやすかった。魔獣弾が急に動き出したのでそれを追いかけてきたのだろうか? まだ姿が見えるほどの距離ではないが、気は確かに近づいてきている。この速度ならまもなく着くだろう。

「では大規模な実験といきましょうか。魔獣弾、手伝ってください」

 けれどもそれを喜んでもいられなかった。ミスカーテの声が意気揚々と響き、辺りの空気を一変させる。リンは息を詰めた。

 ミスカーテは先ほどとは違う、もう少し大きな硝子の筒のようなものを手にしていた。今度は目くらましでも何でもなく本当に何らかの効果があるものなのか?

 シリウスも「妙な薬を使う」と言っていた。どんな効果があるのかは知らないが、ミスカーテの手元には注意しなければ。

「はい、もちろんです」

 泰然と魔獣弾が首を縦に振るのが見えた。滝たちが向かってくる以上、リンたちもひっそり戦線離脱するわけにはいかない。できる限りシリウスの邪魔にならない範囲で自分たちの身を守らねば。

 リンとシンは目と目を見交わせ、頷き合った。砂塵の嘆きと共に、かすかに地面が震えたような気がした。




 アースの剣が特別鈍っているわけではない。少なくともレーナの目にはそう映った。彼の技術は一流だったし、勘と反射神経を支えに身体能力を活かした動きは、常人には真似しがたいものだ。この辺りは記憶の有無には寄らないものらしい。

 それでも彼の繰り出す剣を、ことごとくアスファルトは避けていた。

「ちっ」

 そのせいかアースにも焦りが見え始めている。ここまで動きを読まれたことなどなかったからだろう。単にアスファルトはアースの癖を研究し尽くしただけなのだが、そんなこと今のアースは知るよしもない。

「アース!」

 この二人の戦いに割り込むのは骨が折れることだが、アースが下がるのを待っていては遅い。レーナは一歩を踏み出した。

 左腕の感覚はまだ鈍いが、全く動かせないほどではなくなった。脇腹の痛みに関しては無視だ。出血していなければいい。体力的にはあまり余裕なかったが、精神量に関しては心配する必要がない。

 一度に引き出せる量が制限されているのだから当然だ。どのくらいまでなら引き出せるかは不確かだが、『反動』が来る可能性を考えると、決定的な瞬間までは出し惜しみしなければ。

 もっとも、相手の実力を考えればそんなことが許されるわけもないのだが。

 白い刃を構えつつ地を蹴ると、アスファルトの目が一瞬だけ彼女の方へ向けられた。掲げられた右手の動きに合わせて、彼の白い長衣が翻る。その長い指先から吹き出すように赤い筋が生まれた。

「炎竜か」

 レーナは瞳をすがめた。炎竜はアスファルトが得意とする技の一つだ。赤い炎がうねりながら辺りを焼き尽くそうとするその姿を、誰かが人間の語る「竜」にたとえたのが始まりと聞く。

 ただし、彼のはただの炎ではない。直接精神を焼き尽くすような威力は、上位の者だからこそだ。それは精神系の技に近い効果を持つ。

 そんなことは知らないはずのアースも何か感じ取ったらしく、炎竜を避けるよう一旦後退した。しかしレーナはかまわず前進した。身に結界を纏わせつつ、右手に精神を集中させる。白い刃の輝きが増すのが、視界の端に映った。

「レーナ!」

 アースの警告は無視だ。炎ごと叩ききるようにまずは横一閃。しなる白い刃が竜の胴を裂く。耳障りな高音と共に赤と白の光が瞬いた。

 レーナは炎が途切れた隙間へと身を滑り込ませ、さらに跳躍する。アスファルトはどちらかというと中距離での戦いを得意としている一方、彼女は近距離から中距離だ。

 ならば懐に入り込むしかない。少しでも自分に有利な状況を作り出さなければ負ける。

 一つ彼女に利があるとすれば、アスファルトは彼女の動きを知らないという点だ。彼女はアスファルトの前で戦ったことがないし、能力を研究されたこともない。彼女が彼の研究所で身動きしていたのはたったの三日だけだ。

「さすがだな」

 だがお互いそんなことはわかりきっている。だからアスファルトが彼女の接近をそう簡単に許すとも思えなかった。

 案の定、半身を引いた彼の左手に黄色い光球が現れる。球といっても上半身ほどの大きさだ。ばちりと火花が爆ぜる音についで、黄色い光が明滅する。

「それはどうも」

 レーナは仕方なく身を纏う結界を左手へと集めた。右手の刃は炎竜の胴を薙ぎ払い続けているが、これがなければ辺りは着地する隙間もなくなるので止めるわけにもいかない。

 もちろん刃の形状をしている以上、複数箇所を攻撃対象とすることは不可能だ。昔ならできたかもしれないが、少なくとも今は無理だった。

 迫り来る光球は、結界に弾かれ空気へと溶けた。一瞬のことだった。だが攻撃はそれだけでは終わらない。左手へ絡みつこうとする竜の尾を、彼女は視界の端で捉える。

「レーナ!」

 アースの声が後方から響いた。しかしこの炎が邪魔で彼も迂闊には近づけないだろう。多数を相手にする時のアスファルトの戦略だ。

 噂には聞いていたが、実際経験するとなるほど効果があると納得する。敵の巣に飛び込みつつ瞬殺することで数を無視する自分とは真逆の思考だ。おそらく、アスファルトには持久力があるからだろう。そこがレーナとは決定的に違う。

 彼女は身を捻った。結界の範囲を縮め、左手を覆うように変化させる。これくらいの調整はもはや反射的な行為に近い。透明な膜に触れた竜の尾は弾け、赤い光を撒き散らした。

「噂以上だな」

 火の粉の向こうで、アスファルトが笑むのが見えた。彼がどんな話を耳にしていたのかは知らないが、どうせろくなものではないだろう。

 魔族が何か企むのを見つける度に潰すということを繰り返した結果、大袈裟な異名ばかりが増えてしまった。

「なら素直に帰ってくれ」

 左の爪先だけで地を蹴ると、足下を炎竜が通り過ぎる。右手の動きに逆らわず体を傾ければ、目の前を竜の尾が横切った。熱気が肌をかすめる。アスファルトが顔をしかめるのも、視界の隅で捉えた。

 勘で動いているわけではなく、ただ気を感じて反応しているだけなのだが、どうやら周囲にはそう見えないらしい。踊っているようだと表現したのは一体誰だったか。

 気への反応は半ば反射的なものにも近いが、その一連の動作はどうも流動的に映るようだった。かろうじて生まれた炎竜の隙間に身を滑り込ませるようにして、レーナは少しずつ前進する。チリチリと何かが焼ける臭いがした。

「ああ、神も来たからな。さっさと終わらせることにしよう」

 と、アスファルトは大きく右手を引く。その気がぶわりと強くなるのを、レーナは全身で感じ取った。まずいと思った時には遅かった。地を這うようにうねっていた炎竜が一斉に頭をもたげ始める。

 一斉に。そう、複数だ。いつの間にか炎竜の数が増えていた。

「冗談みたいだな」

 何故自分が笑っているのか、レーナ自身にもわからない。四方八方から迫る炎の頭に対して、結界以外の選択肢がないのが普通だ。

 しかしそれでいつまでたっても攻撃に転じれないし、消耗するのみとなる。だからいつもの彼女なら、多少の負傷はかまわずに刃をふるってその場を抜け出そうとする。

「でも、そうだな、違うな」

 しかしレーナは結界を選択した。今ここにいるのが自分一人ではないことを忘れてはいけなかった。そういう意味でも、昔とは違う。

 ふいと白い刃が消える。掲げた右手に精神を集中させ、彼女は強度の高い結界を生み出した。肌を焼こうとしていた熱気が瞬く間に遮断され、迫っていた炎竜が結界によって弾かれた。

 見えない膜越しにも感じ取れる圧迫感は、炎竜にこめられた精神によるものだ。それでも一瞬だけ、結界にぶつかった刹那だけ、それが途切れる。

 と同時に、アースの気が動いた。予想通りだった。この機を彼が逃すはずもない。強力な結界により炎竜の頭が弾けた場所――彼女の真後ろへと一気に跳躍してくる。

 爆ぜる火の粉が辺りを埋め尽くす中、彼女は結界の形を変化させた。まずは自分の前方だけに集め、盾とする。ぶわりと再び熱気が押し寄せた。それでもかまわず目を瞑り、全ての感覚を周囲の気にだけ集中させる。今必要なのは彼の着地点だ。

「――アースっ」

 意図は伝えない。ただ呼びかけるだけ。あとは複雑な炎の軌跡にのみに意識を向け、その動きに合わせて結界を変化、強化させた。

 まるで意志を持つかのようにうごめく透明な膜は、もはや結界とは言えないのかもしれない。

「失せろ!」

 背後でアースが吠えた。彼はそのままレーナの横を通り過ぎ、また跳躍し、長剣を振るう。

 彼の剣でも炎竜を薙ぎ払うことはできるが、刃が届く範囲のみだ。叩き斬ってもすぐさま手足を伸ばしてくるあの炎相手では、普通はすぐに飲み込まれてしまう。

 しかし彼ならば足場さえ確保できれば後はどうにかできてしまうとわかっていた。しなやかで強靱な身体能力に関しては、彼の上を行く者を見たことがない。

 彼女は目を開けた。瞬く火の粉の向こうで、アスファルトが苦称するのが見えた。そんな彼にアースの一閃が迫る。さすがのアスファルトも炎竜を操りながらアースの動きを避けるのは至難の業だ。

「仕方のない奴らだな」

 炎が消えると同時に、アスファルトは大きく後方へ飛んだ。アースの繰り出した剣は、その影を掴まえることしかできなかった。風に煽らた白衣がばさりと大きな音を立てる。

 レーナは結界を消し去って駆け出そうとし……そこで咄嗟に思いとどまった。左方から迫る気がある。ネオンだ。

「レーナ、アース!」

 左手から水の球が複数、アスファルトを追うように放たれた。もちろん単純な攻撃がアスファルトに届くわけもなく、幾つかは結界に弾かれ、幾つかは地面に落ちて霧散する。熱された土が水を吸い、じゅわりと白く空気を濁した。

「何故か助けてくれたみたいだし状況よくわかんないけど、レーナを連れて行こうとするのなら黙ってらんねぇな!」

 走り寄ってくるネオンの姿を、レーナは視界の端に捉えた。アスファルトの治癒の技のおかげで元通りのように見える。さすがに体力や精神量は回復していないだろうが、傷らしいものは見当たらなかった。

「反抗期かな」

 地に降りたアスファルトが気怠そうに首を捻った。その表情に焦りはない。まだ彼に余裕があることはもちろんレーナもわかっていた。

 いや、本気を出すと加減ができないからあえて抑えているのだろう。本来の彼の力が五腹心級であることは彼女もよく知っている。この程度で済んでいるのは『傷つけたくない』という意志の表れだ。

「覚えていないというのは困りものだな。まあ、私の申し子だ。多少のことでは死なないか」

 つまり傷つけてもやむを得ないと判断されるのはまずい。レーナは静かに瞳をすがめた。そうなってしまったらこちらも覚悟を決める必要がある。

 頑固なアスファルトを追い返すためには、それ相応の打撃を与える必要があった。生ぬるく精神系のみで攻撃などやっていられない。――破壊系による『核』への打撃が必要だ。

 彼女は素早く周囲へ視線を走らせた。焼け焦げた大地に着地したアースが、何かをうかがうようにこちらを見遣ったのもわかった。その空気を感じ取ったのか、構えたネオンも彼女の方へと一瞥をくれる。

「死にはしない。負けもしない」

 レーナはかすかに微笑んだ。こぼれ落ちたのは祈りにも似た言葉だった。この場を制するのは、おそらく、最初に決断した者だ。額に巻いた布に軽く触れてから、彼女は長く息を吸い込んだ。

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