第3話

「っつ」

 左腕が握りつぶされるのではないかという恐怖から目を逸らし、彼女は耐えた。待った。

 そして魔神弾の左手の先がまた鞭の形を取ろうとする直前、そこを狙って、不定の剣を振り下ろした。それは本来なら先ほどと同じく魔神弾の体をかすめるだけで終わっただろうが――。

 ついで空気を振るわせたのは、悲鳴だった。忽然と大きく、長く形を変えた青白い刃は、魔神弾の左肩に深々と埋まった。

 獣じみた魔神弾の叫声を間近で聞きながら、梅花は奥歯を噛みしめる。焼き尽くされたのではと思うような左腕の痛みに、つい精神の集中が途切れそうになる。しかし刃が消えた瞬間、それこそ左腕は潰されてしまうだろう。

 空を見上げながら叫び続ける魔神弾の肩に、少しでも深く、深く。そう念じながら息を詰めていると、徐々に視界の中で白い光が弾けるようになった。

 魔神弾の悲鳴に耳鳴りが混じり始め、自身の限界が近いことを悟る。こんなに近くにいるのに、魔神弾の気さえも判別できない。唇まで噛んでしまったのか鉄くさい味がした。

 体が傾ぐ。倒れまいとさらに強く歯を食いしばった時、不意に耳鳴りに何か別の音が混じった。それが男性の声だと認識した途端、散らばり始めていた意識が戻ってくる。

「オレの――」

 目の前で爆ぜる白い光が消える。世界に満ちる音がより明瞭になる。

「梅花にっ」

 背後から迫る気配。ついで消え去る左腕の圧迫感。突然の変化に体勢が崩れそうになるのをどうにか堪えた時、上から何かが落ちてきた。

 それが人間だと認識すると同時に、梅花は刃を消す。本当は飛び退りたかったが、それだけの体力は残っていなかった。まるで体が鉛にでもなったかのような重さに引きずられ、その場に片膝をつく。

「何してくれんだっ!」

 ざくりと軽い音を立て、魔神弾の左肩から先が切り落とされる。咆哮が空気を振るわせる。数度瞬きをしてようやく視界が戻るのと、声が掛けられるのは同時だった。目の前に降り立った背中を、梅花はおもむろに見上げる。

「梅花っ」

「……青葉」

 聞き慣れた声。そこに若干の憤怒が混じっているのは気を探らなくともわかることだ。長剣を構えたまま肩越しに振り返った青葉は、予想通りまなじりをつり上げていた。

 だがどんな叱責が飛んでくるかと思えば、続いたのは低く抑えた舌打ちのみ。ついで伸ばされた手に右腕を引かれた。もつれかけた足でどうにか立ち上がれば、ふらつく体が引き寄せられる。

 このままでは明らかに自分は邪魔だろうと思うのだが、だからといってこの場から後退するだけの気力も体力もなかった。仕方なく抱き寄せられたままでいると、彼が剣を構え直す気配がする。

「ったく、何でこんな無茶ばっかり――」

「青葉の気を、感じたからよ」

 愚痴るような青葉の言葉に、梅花はそれだけを返した。ほっとしたのかまた急速に意識が遠のき始める。口を開くのも億劫な気だるさが全身に広がっていた。

 それでも、まだ安堵してはいけない。ここだけが全てではない。彼が息を呑むのを感じながら、彼女は奥歯を噛んだ。揺らぐ魔神弾の気とは別の何か、抑えていてなお鮮烈な気が現れたことを、散らばりかけた意識の中でどうにか彼女は把握した。

 戦いは、まだ終わらない。




 走り続けるリンの耳に飛び込んできたのは、誰かの悲鳴だった。この声はサイゾウのものに似ている。ということはネオンだろうか?

 目を凝らしながら速度を上げると、瓦礫の向こうで赤い光が瞬くのが見えた。あれは炎の剣だ。それを振り下ろそうとしているのは、赤髪の男――ミスカーテだ。

「ネオン!」

 ミスカーテの背後で立ち上がったのはアースだった。レーナは彼の横で左脇腹を押さえて膝をついている。どう楽観的に解釈しようとしても、最悪の状況としか表現できない。

 リンは瞳をすがめた。あそこに自分が飛び込んでいく意義が見いだせない。レーナが神技隊を守ろうとしているのなら、逆に足手まといになるのではないか?

 それでも走る足は止まらないし、他に何か考えが浮かぶわけでもなかった。ミスカーテの気を一瞬でも引くことができればいいかと運に任せることにする。

 こちらがラウジングの短剣を持っていることは誰も知らないはずだ。それがうまく活かせたらよいのだが。

「なるようにしかならないものね」

 刹那、前方の気が膨らむ。ミスカーテはアースへと青い光球を放って牽制しながら、振り上げた刃を地面に突き立てた。

 ――否、ネオンを突き刺したのだろう。耳を塞ぎたくなるようなネオンの悲鳴に、リンは胸が押しつぶされそうな心地になった。

 こんな声は聞きたくない。現実を現実と認識したくない。それでも目は逸らせなかった。ミスカーテの気に滲んでいる喜びの色から、拷問でも始まるのではないかと危惧してしまう。

「本当、嫌になる」

 小さく舌打ちしてから、リンは左手を前方へと突き出した。手のひらから生み出したのは強い風だった。小さな瓦礫と砂塵が舞い上がり、視界を悪くする。

 それでもミスカーテがちらとこちらを見やるのが目に入った。驚いた様子もないのは、やはりリンの接近を感知していたからだろう。彼女は気を隠していないのだから当然だ。

「来るな神技隊!」

 今の技で、アースもこちらの動きに気づいたらしい。切羽詰まった怒声が響き渡る。と同時にレーナが立ち上がるのが見えた。リンは短剣を握る手に力を込めた。

 ミスカーテの強烈な気がさらに膨らんだ。それとほぼ同時に、目の前に突然何かが飛び込んできた。思わぬ現象に慌てて足を止めると、その飛び込んできた何かがレーナの背であることに気がつく。

「……え?」

 先ほどまでミスカーテの向こうにいたはずのレーナが、目の前にいる事実をどう解釈してよいのか。リンにはわからなかった。

 どこをどう見ても、考えても、瞬間的に移動してきたとしか思えない。走ってきたわけでも、空から降りてきたわけでもなかった。レーナは確かに忽然と現れた。

 ついで、空気を揺さぶるような圧迫感に襲われた。目をすがめつつ前方を見据えれば、粉塵を裂くように赤い風が迫っていたのがわかる。それがリンに届かなかったのは、レーナの結界のおかげだ。

「レーナっ」

 リンは声を張り上げる。赤い風を追いかけるようにミスカーテが近づいてくる。軽い調子で地を蹴る彼の気には愉悦の色が満ちていた。圧倒的な強者の持つ余裕に、リンの背筋は粟立つ。

「結界の準備だけしていろっ」

 レーナは素早くそう言い捨てる。そして風を防いでいた結界を即座に消し、白い刃を生み出した。何度か見た覚えのある、いまだに何系なのかわからない技だ。精神系にも似ているがどこか違う。

 かといって魔獣弾たちが使っているという破壊系とも印象が異なっていた。それを構えたレーナはミスカーテに向かって跳躍する。

 空気が震えた。それはかつて感じたことのない強烈な波だった。ミスカーテが次々と繰り出す黒い光弾を、伸びながらしなる白い刃が切り裂いていく。

 その度にまるで空間ごと軋むような気の波動が押し寄せてきた。息が詰まりそうな圧迫感に、足から力が抜けそうになった。

 レーナの刃の動きは、もはやリンの目で捉えられるものではない。分裂しているのでなければどうやってあれだけの数の光球に対処できるのか。しなるから、伸びるからというだけでは納得しきれない。

「やはりっ!」

 ミスカーテが歓喜の声を上げる。飛び上がった彼の手のひらから、先ほどよりも巨大な黒い風が生まれる。これは刃で切り裂いても意味がない。

 レーナはすぐさま左手で結界を生み出しつつ、後方に向かって地を蹴った。通常ならば間に合わないところだが、やはりそこはレーナだ、精度の高い透明な膜が見事に黒い風を霧散させる。

「君は!」

 だがその風すらも、ミスカーテにとっては単なる目くらましだったらしい。続く黄色い光球が、力を失った結界を貫いた。

 ばちりと爆ぜるような音がした。眩しさに目を細めたリンの視界で、再度黄色い光が瞬く。押し殺そうとしたレーナの悲鳴が、ぞっとするほど強くリンの耳に残った。

「人間がいる時の方が本気を出してくれますね」

 だらりと垂れ下がったレーナの左腕から、できることなら目を背けたかった。かろうじて立っている彼女に向かって、ゆっくりミスカーテが近づいてくる。煙った空気の中でも、ミスカーテが微笑んでいるのはよくわかった。

「精神系も破壊系も使いこなすなんて、大変な逸材だ。それにその気の察知力、反応速度、ただの技使いを器としているにしてはできすぎている。本当に不思議だよ。調べてみたいなぁ。切り刻んだらさすがにまずいかな。痛みは普通に感じるみたいだしね?」

 物騒なことを口にするミスカーテの目に宿っているのは、確かな好奇心だ。なぶるための言葉ではなく、本気でそう思っているらしい。リンは唾を飲んだ。

 一方のレーナは何も答えない。リンの前で動くことなく、じっとミスカーテを睨みつけているようだった。

「手足を切り落とすくらいだったら平気?」

 こてんと、ミスカーテは首を傾げる。すると向こうからアースが駆け寄ってくるのが、砂っぽい風の中でも捉えられた。彼の剣が鈍い光を帯びているからリンの目でもよくわかる。だがいくらアースでも、このミスカーテには敵う気がしない。

「それとも」

 アースの方へと振り返ったミスカーテは、軽く肩をすくめた。縮れたような朱色の髪が、ふわりと空気を含んで揺れる。

「君よりも君の仲間たちを先に片づけようかな? さっきからうるさいし目障りだからね。一人くらいなら死んじゃってもいいよね」

 ゆくりなくミスカーテが足を止めた、その時だった。空から忽然と、光が落ちてきた。リンにはそのようにしか表現できなかった。

 ついで襲い来る爆風に耐えきれず、足が地面から離れる。肺がちりちりと痛んだような錯覚に襲われた。何が起こったのかわからない。わからないが、自分の体が地面を転がっていることだけは理解する。

「うっ」

 背中に堅い何かがぶつかり、息が搾り取られる。おそらく瓦礫だろう。必死に目蓋を持ち上げたリンは、まず短剣を手放していないことを確認した。それから強い気が集まっている方へと視線を転じる。

 乱れた髪の隙間から、何かが見えた。生理的に滲んだ涙を瞬きで払い落とし、彼女は眼を見開く。

 爆風の中心にいたのは銀の狼だった。いや、よく見ると狼とは違うのかもしれない。

 この位置、距離からでもすぐにわかるということは、おそらく本来の狼よりもずっと大きい。その丸い瞳は緑に輝きながら、辺りを注意深く観察しているように見受けられた。

「何なの、あれ」

 手をついたリンはよろよろと上体を起こした。背中は痛むが動けないほどではなさそうだ。どうにか呼吸も整ってきた。

 腰を押さえながら立ち上がれば、銀の狼の向こうにミスカーテがいるのがわかる。レーナとの位置を考えると、狼を避けて後退したらしい。アースも爆風に巻き込まれたのか、直前に見たよりも左方へと移動している。

 レーナはただ一人、先ほどと同じ体勢でその場にたたずんでいたようだった。結界でも張ったのか? まさか彼女はこの狼の到来を予測していたのか?

「人の研究の横取りをするのは止めろと、何度も言ったはずだがな」

 驚くことに、狼から声がした。いや、亜空間でのラビュエダのことを考えたら予想するべきだったのかもしれない。

 リンが息を呑んでいると、不意に狼を白い光が包み込んだ。その体が細く長く伸びていくのを、ただ呆然と見つめるしかない。

「まだ懲りてないのか」

 銀の狼は、人の形をとった。長身の男のようだった。深い緑の髪を後ろで一つにくくり、白い長衣を羽織った男だ。ミスカーテの方を向いているせいで顔立ちも表情もわからないが、その声には明らかに呆れが滲み出している。

「アスファルト」

 それが彼の名だろうか。呼びかけたのはミスカーテだ。銀狼だった男をじっと見据えるミスカーテの気は、複雑な色を帯びている。歓喜が含まれているのは確かだが、それとは別に焦燥感とも闘争心とも取れる得体の知れない感情を孕んでいた。

 この二人の間に一体どんな関係があるのか、またこの状況をどう捉えてよいのか、リンには判断がつかない。ただはっきりしているのは、味方が増えたわけではないということだ。

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