第2話
「――リン」
不意に、滝の左手が伸びてきた。突き出されたのが短剣であると理解するのに、寸刻の間が必要だった。受け取ったリンはそれをまじまじと見下ろす。
そしてうかがうように滝を見上げた。彼が左手に持っていた、装飾の乏しい小振りの短剣だ。近くで見つめてもやはり見覚えがない。
しかし手にしているだけでじんわりと伝わる何かがあった。うまく説明はできないが、ただの武器ではないことが肌から伝わってくる。重量以上の何かを纏っている。
「それはラウジングが持っていた短剣だ」
端的な滝の言葉に、リンは思わず息を呑んだ。つまり上から借りた武器と似たようなものか。いや、実際にラウジングが使っていたということは、さらに上の力を持っていても不思議はない。
「ラウジングは動けそうにないから、リンに渡す。オレは長剣の方が得意だから、リンが使ってくれ」
それ以上は説明の必要がないと言わんばかりに、滝は前方へと向き直った。彼が精神を整えているのは、間近にいればわかることだ。
またあの戦場へ向かうつもりだろう。それも当然だ。カイキたちもきっとそろそろ限界だ。彼らの実力が自分たちと極端に変わるものではないことは、何となく実感している。――レーナとは違う。
「リンはリンのタイミングで判断して動いてくれ。オレなら大丈夫だから。決して無茶はするなよ……って言っても無駄なのはわかってる。でもその短剣を預けた意味は察してくれよ」
滝は振り返らなかった。だからそう告げた時どんな顔をしていたのか、リンにはわからなかった。それでも少しおどけたような、それでいて何かを押し隠したような声、気から感じ取れるものはある。
だから駆け出した滝をすぐさま追いかけることができなかった。その大きな背中を見送りながら彼女はもう一度深呼吸をする。風に煽られた砂塵が、瓦礫の上で渦を巻いた。
またチリチリと胸が痛む。まさか魔獣弾の瓶の影響だろうか? いや、単に身体的なものかもしれないと、彼女は頭を振った。
弱気になるのはいけない。精神量はともかくとして体力的にはさほど強くはない自覚があった。痛みや疲労を無意識に無視する時、こうなることが多い。何でも精神で補おうとする反動のようなものだ。
「でも今は……」
それでも仕方がないと、リンは短剣を握りしめた。これは切り札だ。魔族たちに深手を負わせることができる、この場ではほとんど唯一に近い武器の一つだ。しかもこれがリンの手に渡ったことを、滝以外は知らない。
「やるしかないのよね」
訪れるかもわからない機会をうかがえと、それまで耐えろと、滝は言外にそう告げてきた。それを信頼されていると取るべきかは微妙なところだ。
何せ、今ここに選択肢はない。レーナたちがいつまであのおぞましい魔族を引きつけていてくれるのかもわからないのだ。
「……っ!」
そこまで考えたところで、リンは固唾を呑んだ。「オレなら大丈夫」の言わんとすることが、ようやく飲み込めた。ここは任せろと、そう言いたいのか。
「嘘、ですよね……」
それはつまり、ここを離れろということか。『あちら』へ行けということか。胃の奥がきりきりと痛み出し、リンは歯噛みした。あの鮮烈な気を思い出すだけで心臓が潰れそうな心地になる。
しかし滝がそう判断した理由も推測はできた。この戦局を左右しているのはあの男――ミスカーテだ。
ミスカーテと名乗る魔族については、とにかくとんでもない奴だということしかわからない。いや、もっと最悪なのは、レーナよりも強いということだ。
レーナが刺された時はこちらの呼吸も止まるかと思った。傷が浅かったのか、それとも何かの技を使ったのかその後も彼女は戦闘を続行していたが、それでもいずれミスカーテが勝利するだろうという思いは拭い去れなかった。
魔獣弾とは比べものにならぬ、圧倒的な力。底冷えするような鋭い気。ただあの男がそこに存在しているというだけで感じられる威圧感。今だって、彼が技を放つ時には周囲の空気ごと揺さぶるような何かがこちらまで伝わってくる。
レーナたちだけでは勝てない。だからといって自分たちにできることがあるとも思えないが、しかしリンにはこの短剣がある。『上』が隠し球としていた武器だ。相手がたとえあんな魔族でも、効果があると信じたい。
「無茶するなよって言いながら手渡してくるとか。滝先輩もいい性格してる」
決意を胸に秘め、リンはそっと瞳をすがめた。渦巻く砂塵の向こうで、黄色い光が瞬くのが見えた。
「本体が来てしまいましたね」
現状を端的に述べる自分の声がいつも通りであることに、梅花はひっそりと安堵した。
もっとも、状況は最悪の部類に近い。建物の残骸にまみれた辺りは足場も危ういし、視界も悪い。加えてダンとようはまともな技が使えないほどに疲労していた。サイゾウの動きも鈍くなっていて、今はもう座り込んでしまっている。
よく飛び回っていたミツバも、彼女の斜め後ろで背中を使って大きく息をしていた。もちろん彼女とて俊敏な動きは期待できない。豊富にあるのは精神量だけだ。
「うわぁ、最悪だね」
苦々しい声で呻くミツバに、同意以外の言葉が見つからない。砂煙の向こうから瓦礫の隙間を縫うように近づいてくるのは魔神弾だ。
ゆらめく影のような彼の手の先が、黒い鞭のごとく伸びて地の上を這いずり回っている。あれが縦横無尽にミリカの町を食い尽くしているのかと思うと、どうしたって眉根が寄る。
「僕もそろそろ疲れてきたなぁ。ダンはもう動けないでしょ?」
肩をすくめたミツバは、どうやら背後を振り返ったようだ。梅花は気配でそれを感知する。視線は先ほどからずっと、魔神弾へと固定している。
「ああ、動けても技が使えねぇよ。休憩なしはきつい。これはお昼寝が必要だな」
「だよね。僕も足マッサージして欲しい」
「ついでにおやつの時間も欲しいな」
ミツバとダンの気楽なやりとりは明らかに強がりだ。二人の纏う余裕のない気が如実に焦りを伝えてきている。
梅花はかろうじてため息を飲み込んだ。すると砂っぽい風に煽られて長い髪が揺れる。視界を遮る一房を、彼女は指先でそっと払いのけた。
先ほど黒い鞭を避けた際に、髪を結わえていた紐がどこかへ弾け飛んでしまった。戦闘の邪魔になるのなら、この戦いが終わったら切ってしまってもよいかもしれない。――無事に乗り越えられたならの話だが。
「ずいぶんのんびりとした歩みね」
梅花は独りごちた。姿は見えているのに、なかなか魔神弾との距離が縮まらない。瓦礫の山が邪魔なのか? それを飛び越えないのは何か意味があるのか?
理由がさっぱり思い浮かばない。まさか飛び越える知能がないわけではないだろうし。
「オレたちを追い込むつもり……って感じでもねぇよな」
独り言に反応したのはサイゾウだった。仕方なくといった調子でのろのろと立ち上がり、横に並ぶ。彼女は頷いた。
こちらをなぶるつもりはないらしいというのは、魔神弾の気からもわかる。そういう感情は滲み出ていない。不安定に膨らんだり縮んだりを繰り返してはいるが、何故か負の感情は感じ取れない。まるでこちらに引き寄せられているかのようだ。
彼女たちが邪魔をし続けていることに、ついに焦れたのか?
「本体相手は辛いよなぁ」
サイゾウが唸る。しかしよい面もある。魔神弾本人がこちらに向かってきているということは、周囲の心配は不要であることを意味していた。
あの黒い触手が四方八方止めどなく伸びるようだと被害は拡大する一方だが、今はそうではない。これならば人々の避難もどうにかなるだろう。この隙をついて宮殿の者たちが動いていてくれることを願うばかりだ。
もちろん、そのせいで仲間たちが命を落とすようでは意味がない。仲間だから犠牲にできるというものでもない。そもそもこんな風に体を張る義務など、神技隊にはない。
梅花は瞳をすがめて深く息を吐いた。こういう時に無理をするのに躊躇いはないが、タイミングを間違えると意味を成さないのも理解している。使いどころが肝心だ。
「おい、梅花。何かするつもりなのか?」
すると穏やかではない考えを嗅ぎ取ったらしく、サイゾウが声を震わせた。勘がよいと言うべきなのか、思考や行動が筒抜けだと笑うべきなのか。梅花は頭を傾けながら髪を耳にかける。
「何もしなかったら私たちも死ぬでしょう」
言葉にすると現実は重い。そうならないためには、具体的にはどうすればいいのか。魔神弾を戦闘不能にするほどの精神系の技となると、かなりの精度が必要そうだった。もちろん、多量の精神を消費するだろう。それを確実に命中させるにはそれなりに策がいる。
「おいおいまさか、梅花一人で何とかする気じゃ……」
「サイゾウたちはもう技が使えないでしょう?」
「いやいや、だからって無茶は止めろよ! 青葉に何て言われるか――」
ちらと左手に視線を転じれば、サイゾウは顔を青ざめさせていた。不思議なことだが本当に止めたいらしい。それにしてもここでどうして青葉の名前が出てくるのか? そう訝しんだところで、彼女はふと気がついた。遠くの方で気の動きがある。この気配は……。
「青葉たちだわ」
後方より近づいてくる気が二つ。それは青葉とアサキのものだった。前方から迫る魔神弾の気にばかり意識を取られていたが、よく注意すれば感じ取れる。
なるほど、魔神弾の遠方への攻撃が止んだということは、ピークスへと加勢に行った青葉たちの方も落ち着いたということだ。
「え、青葉?」
「青葉たちが来るのか!?」
首を捻るサイゾウに続いて、ダンが喜びの声を上げた。その口調には活気が戻っていた。
青葉たちがいた位置からなら、魔獣弾と滝が戦っている辺りの方が近いと思うのだが、どうしてこちらに来るのだろう。その点は疑問だったが、正直に言えば助かった。梅花は大きく頷き、近づいてくる魔神弾へと一瞥をくれる。
「はい、これで何とかなりますね。とどめは青葉に任せられます」
風に煽られた髪を、梅花は手で背へと流した。あの魔神弾を一撃で仕留めなければと考えると手段は限られるが、青葉が来るなら話は別だ。ならば自分の役割は決まった。
梅花は魔神弾をひたと見据えた。視線が合った途端、彼の歪な表情がかろうじて笑顔の形を取る。
「後ろは任せますね!」
梅花は地を蹴った。今一度精神を集中させて生み出したのは、青白い不定の刃だ。彼女が使える精神系の技の中では一番精度が高い。
その分、相手に接近しなければならないが、この場合は仕方なかった。自分が近づけば魔神弾の目は仲間たちには向かないだろうという狙いもあった。魔族は精神系の技を危険視している。
魔神弾の腕が動いた。ばちんと地で跳ねた黒い鞭が、真っ直ぐこちらへ突き進んでくる。
彼女は軽い跳躍とともにそれをかわすと、まずは一閃。横薙ぎにした刃はあっさりと鞭の半ばを切り裂いた。その先端が地でのたうっているのを視界の隅に捉えつつ、彼女はさらに走る。
「梅花!」
背後から聞こえるのはサイゾウの声だ。無茶だとでも叫びたいのだろう。無論それは百も承知だ。けれども時間がない。青葉たちが辿り着く前に梅花の体力が尽きれば意味がなかった。
魔神弾の気はやはり異様に膨らんだり縮んだりを繰り返して落ち着かない。そのせいで、彼がどのタイミングで技を放つのか予測しづらかった。何でも気を頼りにする彼女たちの悪い点だろう。
だが今は、それすらもどうでもいい。やるべきことは決まっている。
「私はっ」
深手を負わせればいい。それまで体がもてばいい。その先は、今は考えない。見つめるのはこの瞬間だけ。
地が揺れて、黒い光が肩のすぐ横をかすめていく。再度迫る何かに対しては、背を屈めることでやり過ごした。それでも速度は落とさない。ただただ青白い刃に意識を集中させた。
強く地を蹴り上げると、足下を黒い鞭が通り過ぎる感覚があった。と同時に、左手から黒い物体が迫る気配がする。だが梅花はそれをあえて無視した。
「私を――」
左腕に絡みつく何か。おそらく黒い鞭だ。焼け付くような痛みにもかまわず、彼女は右手を振り上げた。しかし青白い刃はあと一歩のところで届かない。その切っ先が魔神弾の髪を幾つかかすめ取るのみだ。視界が一瞬だけ白む。
「信じる!」
魔神弾の口角が上がるのが見えた。それは不器用な表情だったが、今までの彼よりも幾分か生き物らしい顔だった。獲物を前にした時の眼光を思わせる強さで、彼女を凝視する瞳。
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