第10話

「ジュっ」

 声を掛けようとした途端、大量に砂煙を吸い込みよつきは咳き込んだ。ほぼ同時に地響きのような唸りが聞こえ、足場が不安定となる。彼は顔を歪めた。

 土の柱に罅が入る光景が、目に飛び込んでくる。何がどうなっているのかわからないが、敵の攻撃はすぐ近くまで迫っているらしい。

「隊長!」

 背後で今度はたくが叫ぶ。わかっていると答える代わりに、よつきは無我夢中で結界を張った。

 崩れた土の柱の向こうから、黒い何かが飛び出してきた。それが太い鞭のようなものであるとわかったのは、結界に弾かれてうねる姿を見たからだ。技にしては奇妙な実体感に、思わずよつきは眉をひそめる。

 黒い鞭は地面でのたうち回ったと思ったら、またぐにゃりと飛び跳ねるよう空へと浮き上がり――再び結界目指して突き進んできた。

 再度薄い膜に弾かれて地面に落ちる姿を見下ろし、よつきはぞっとする。やはり、これは単なる技ではない。彼の結界もいつまでももつわけではないから、力尽きた時が最後だ。

「ま、まずいですっ」

 ジュリの苦しげな声に、視線を転じることもままならない。それでも視界の隅に映った彼女が、立ち上がろうと懸命になっているのは確認できた。どこか負傷したのか?

「よつきさんっ」

 我知らずよつきは頭を振った。全身から噴き出す汗が止まりそうになかった。後ろに仲間たちが、病院がなければ、ここから逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。

「上を狙われるとまずいですっ」

 と、忽然と結界が強化される気配を感じた。はっとするのと、左腕を掴まれるのはほぼ同時だった。いや、しがみつかれたと言った方が正しいのかもしれない。目を向けるまでもなく何が起こったのか察する。――ジュリだ。

 よつきの腕を支えに立ち上がったジュリの気が、じわりと膨れ上がったのが感じ取れる。鼻についた血の臭いをできる限り意識の外に追い出しつつ、よつきは前方をねめつけた。

 先ほどよりも分厚くなった結界に黒い鞭が再びぶつかる。空気が震えるような違和感が結界を伝って感じられた。緊張で喉の奥がひりつく。

「コスミさんでも、誰でもかまいませんから、風の準備をっ」

 絞り出されたジュリの叫びに、背後で仲間たちが反応する。この粉塵を吹き飛ばすつもりか。確かに、このまま視界が悪くなればよつきたちは不利になる一方だ。

 もっとも、風の技を使うためには一度この結界を解かなければいけないが。

「ですがジュリ」

「ずっとは無理です。一度、結界を解除します。そこでこの砂煙を吹き飛ばしましょう。次に、私が結界を張ります」

 戸惑うよつきに、ジュリはそう告げる。確かに、よつきもそろそろ限界だ。ちらと後方を振り返ると、顔を強ばらせたコブシたちと目が合った。三人とも無事のようだ。

 ならばジュリの言う通りにするしかないか。だがそんなに立て続けに結界を生み出せるものなのか? 血の臭いがするということは、どこか怪我をしているということだ。精神の集中も揺らぐのが普通だ。

「しかしですね……」

 他に方法はないのか。そうよつきが探ろうとした時だった。突然、うねる黒い鞭が空へ大きく跳ねた。結界に弾かれたわけでもないのに奇怪な動きをしたそれを、よつきは唖然と見上げる。

「青葉先輩!」

 その理由は、ジュリの歓喜の声が教えてくれた。土煙の中から現れたのは青葉だった。手にした長剣の切っ先が、蠢く鞭を薙ぎ払う。透明な膜越しでも、耳に不快な高音が空気を震わせているのがわかった。

 安堵したよつきが結界を解くと、砂っぽい空気がまた一気に流れ込んでくる。

「ピークス大丈夫かっ」

 青葉の声が近づいてきた。頷いたよつきは、生理的に滲んだ涙を瞬きで目の端へ追いやった。そのまま顔を上げれば、青葉と視線が合う。

 腕で額を拭う青葉の姿はやけに頼もしく見えた。しかしどうしてこちらへ来られたのだろう。魔神弾の方はどうなっているのか?

「青葉先輩、助かりました」

 笑みを浮かべながら周囲へ視線を巡らせると、煙の向こうでうっすら何かが動くのが見えた。黒い鞭かと一瞬焦ったが、そうではなかった。黒い髪を振り乱しながら駆け寄ってきたのは、シークレットのアサキだ。

「一人で行かないでくださぁーい!」

「ああ、悪い悪い」

 この独特の話し方が、そこはかとない安心感をもたらす。アサキまで来たということは、あちらの状況は思っていたよりも混乱していないらしい。

 ほっとしたよつきは頬を緩めた。最悪の事態は免れたようだ。ふらついているジュリの腕を支えながら、もう一度青葉へと視線を送る。

「本当に助かりました。それで、あちらの方は……」

「ああ、わけわかんないことになってるが、アースたちが来たからな。どうにかなってる」

 青葉は頬を掻きながら、ややばつが悪そうに答えた。そう言われて慌ててよつきは気を探る。

 青葉の言う通りだ。魔神弾がいる方角に、神技隊の他にも幾つか気があった。その一つはレーナだった。

 よつきはまだ他の者たちの気をしっかりと覚えたわけではないが、それでも彼女の鮮烈な気ならばすぐに判別できる。レーナがいるということはアースたちもいるのだろう。

「ラウジングさんも来たしな。まあ人数なら足りてるってわけだ。だからこっち来た。でも決して余裕があるわけじゃあないから気をつけろよ。あ、ジュリはいいから今のうちに傷治しておけ」

 青葉は再び黒い鞭が迫ってくるのを感知したらしい。ジュリに後ろへ下がるよう伝えながら、前へと向き直り剣を構えた。その眼光が鋭さを増したのが、よつきにも見て取れる。

 そもそもこの鞭は一体何なのだろう。技で生み出されたものならば、結界に弾かれたらそこで霧散するのが普通だ。しかしこれは違う。だからといって武器のようなものでもなさそうだった。まさか生き物だとでも言うのか?

「あいつ、本当に化け物だからな」

 苦々しいぼやきと同時に、青葉は一歩を踏み出す。刀身がうっすら青白い光を帯びた。それは粉塵で煙る空気の中、一際存在を主張する。

「気合い入れろよ」

 よつきは息を呑んだ。まだまだ油断ならない状況であることは、肌で感じ取れた。




「魔神弾といいあなたたちといい、本当に迷惑極まりませんね」

 苦虫を噛み潰したような顔で、魔獣弾が唸った。剣を構えたままのシンは、息を整えつつ周囲へと視線を走らせる。

 崩れた建物のせいで粉塵が巻き上がり、どんどん視界は悪くなっている。所々抉られた石畳も危険だ。どう控えめに言っても、ここは街中ではなく戦場だった。

「いい加減にして欲しいですね」

 魔獣弾の持つ小瓶がうっすら青い光を纏っているのが、視界の端に映る。シンは歯噛みした。あれは一体いつ誰から奪った精神なのか。あの瓶が仲間たちに触れた形跡はなかったはずだ。

 何度か危ない場面もあったが、乗り切れたのは魔神弾のおかげでもある。

 動き出した魔神弾の攻撃はとんでもなくでたらめだった。その被害は魔獣弾にも及んだ。混乱と砂煙が満ちているのも影響したのかもしれないが、北斗の精神が奪われずにすんだのはそのおかげだ。

「こんなことなら様子を見ていた方がましでした」

 だが、シンたちにも余裕はない。長時間の戦闘は神経をすり減らすし、技を使い続けていれば精神も減ってくる。

 シンはまだ武器があるからよいものの、仲間たちの疲弊具合はかなりのものだった。ローラインはもう走れそうにないし、サツバは技が使えそうにない。そんな二人を庇うように立ち回っているリンは、思うように動けていない。

「まいったな」

 小さくぼやいたシンは瞳をすがめる。斜め後ろにいる北斗も大きく肩で息をしていた。彼にも限界が近づいているか。

 だからといって他の神技隊の加勢を期待できる状態でもなかった。魔神弾の方がどうなっているのかはっきりしない。じっくりと気を探っている余裕はないため、誰が戦っているのかも把握できていなかった。

 やはり味方の援護を待つのは得策ではない。ここはここで何とかしなければ。

 だが、皆にそんな力が残っているのだろうか。シンは喉を鳴らす。リンはまだ戦えそうなのか? 北斗にサツバたちを任せて彼女に動いてもらうか? しかし彼女もずいぶん無理を重ねている。もしぎりぎりの状態だったら――。

 口の中が乾く。粘り着いた唾液の味が苦々しい。

 一人でどうにかするという状況に、シンは慣れていなかった。しかしここで頼みとなるのは自分だけだ。それが上からの武器を任されることになった者の役目だろう。今までのように、滝の判断を仰ぐことはできない。

「本当にまいったな」

 シンが息を詰め、長剣を握りしめた時だった。砂煙を裂くように、何かが動いた。それが白い刃の切っ先であることを認識して、シンははっとする。この技には見覚えがあった。

「レーナ!?」

 声を上げたのは後ろにいたリンだ。瓦礫の上に立っていた魔獣弾が、慌てて飛び退る姿が目に入る。

 不定の刃が、あともう少しのところで小瓶をかすめた。魔獣弾の顔が青ざめたのは、シンの目にも明らかだった。

「また小娘ですかっ!」

 濁った空気を震わせる魔獣弾の怨嗟の声。どこからともなく飛び降りてきたレーナはさらに魔獣弾を追い詰めようとし――けれども遠方から飛び来る黒い技に気がつき、即座に振り返った。

 まるで舞うような動きにあわせて、不定の刃がしなる。それは降り注ぐ黒い何かを次々と切り裂いていった。

 切断された黒い物体の一端が、地面に落ちてのたうつように跳ねる。技かと思ったらどうも違うらしい。まるで見知らぬ生き物を見たようで、シンの背をぞっと冷たいものが駆け上がってきた。

「魔神弾の奴、無茶苦茶だな。体の維持すらどうでもいいってことか」

 ぼやいたレーナは、再び魔獣弾へと向き直った。じりじりと下がる魔獣弾の表情には余裕がない。彼女には敵わないと悟っているのだろう。

 またどこかへ逃げ込んでくれるだろうか? それをシンは密かに期待する。レーナが来てくれたことで心底安堵したが、同時に周囲のことがますます気に掛かってきた。

 ミリカの町の被害は甚大だ。これ以上家屋が壊されていくような事態はできる限り避けたい。これだけの状況だと、きっと怪我人も多いだろう。

「本当に、腹の立つ小娘ですね」

 苦々しい表情を隠すことなく、魔獣弾はそう吐き捨てる。散々邪魔され続けてきたせいなのか、顔を合わせるごとに嫌悪感が増している印象だ。見た目はともかく「小娘」と呼ぶような存在ではないと思うが。

「そう言うな」

「黙りなさい! あなたたちのせいで我々は――」

 魔獣弾がいきり立った、その瞬間だった。得体の知れない気配が、ぞわりとシンの全身に広がった。胃の底をかき混ぜられたような不快感に、息が詰まりそうになる圧迫感。背を撫でていく冷たいこの気配は、気と呼んでいいものなのか――。

「魔獣弾、落ち着きなさい」

 気配に続いて聞こえたのは、諫める声だ。それは魔獣弾の背後から唐突に放たれた。

 粉塵で煙っていたとはいえ、確かにそれまで誰もいなかったはずの場所に、気配が現れている。好悪の感情が入り交じった、破壊的なまでの強さを持つ冷え切った気。その威圧感にシンは気圧された。

 声を漏らさずにすんだのは、手にした長剣が目に入ったからだ。その柄を握りしめて、シンは深呼吸する。

「これくらいで取り乱していては先が思いやられますよ」

 土煙の中から、一人の青年が姿を現した。人間のものではあり得ぬ朱色の髪を持つ、痩せ形の男だった。全て黒でまとめられた服が、よりいっそう髪色を際立たせている。

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