第4話
路地裏へと足を踏み入れてから、レーナは帽子を手に取った。狭い道を吹き抜けていく風が、その短いツバを揺らす。
緩く編み込んだ髪が邪魔にならないよう胸の前に垂らして、彼女は壁にもたれかかった。先ほどまでじんわり体を包み込んでいた熱気が、まるで嘘のようだ。日陰独特の湿度を感じながら、彼女はそっと帽子を抱きしめる。
「これは困ったことになったな」
ぼやく声に答える者はいない。もっとも、アースがもうじきやってくるだろうというのはわかっていた。時間を決めているわけでもないし気が感じられるわけでもないが、一種の勘だ。
女性ばかりの店をのぞくために別行動としたわけだが、この星で人々の中に長居するのは避けた方が賢明だろう。どこに『オリジナル』の顔見知りがいるともわからない。
「しかしどうしても目立つしなぁ」
独りごちたところで、聞き慣れた靴音が鼓膜を震わせた。路地の奥からだった。視線を転じるのと同時に、薄闇の中からアースが姿を見せる。
赤い額の布、首もとの布がないだけなのに、より黒ずくめという印象が強まっている。その分だけ、眼光の鋭さが目立つように思えた。気は隠していても、不機嫌なのは明白だ。
「遅かったな」
「そうか?」
「もう終わりでいいのか?」
「うーんそうだなぁ」
立ち止まったアースを見上げて、レーナは曖昧に微笑む。ある程度のことがわかったので、引き揚げ時と言えばそうだった。
深追いするとろくなことにならないのはよく経験している。昔のように力だけで乗り切るわけにはいかないから、慎重にいかなければ。
「大体わかったし、いいかな」
「もう調べ上げたのか?」
「まあ、心当たりはあったから」
レーナは帽子を抱きしめたまま足下を見下ろした。簡素な生成りのワンピースの裾から覗く靴は、ずいぶんと古いものだ。
目立ちたくない時用の服等は幾つか持っているが、この星ではどれが一番適切かよくわからず適当に選んだ。大外れすることはない便利なものだが、歩きにくいのが玉に瑕だ。
「精神を鈍らせる病にまで心当たりがあるのか……」
何と説明すべきか逡巡していると、アースはため息混じりに呟いた。わずかに視線を上げたレーナは、どこまで言うべきか思案する。決して面白い話ではない。
「病っていうか、毒だな。この手の毒は、ミスカーテが研究していた」
さりげなく口にしたつもりだったが、視界の隅にあるアースの手に力が入ったのが見て取れる。毒という響きのせいだろう。だがこうなってしまうと話さないわけにもいかない。
言葉を選びつつ彼へ一瞥をくれると、疑問を宿した目がじっと彼女を見据えていた。
「ミスカーテ? 聞き覚えがあるな」
「前のわれが浴びたのも、ミスカーテの毒だ。彼は宇宙で神や技使いの力を削ぐための研究を行っていたが、その一つだ」
できる限り淡泊に伝えたところで、その意味の重さが変わるわけでもない。アースは息を呑んだ。ミスカーテの毒については以前にも話していたが、それでも繰り返されるのは耳心地が良くないだろう。
けれどもレーナはあえて素知らぬ振りをして淡々と続けた。
「ミスカーテ以外にそんなものを作っている魔族がいるとは考えにくい。そうなると、ミスカーテ自身かその部下がこの件に関与している可能性が高いな」
帽子を抱え込む手に力が入った。自分が口にした事実が意味するところを考えると、ずしりと気が重くなる。最悪に近い状況ということだ。少なくとも神がこの事実を知ればそう受け取るだろう。
「そのミスカーテとかいう奴は、何者なんだ?」
アースの手が肩を掴む。レーナは彼へとまたわずかに視線を向け、曖昧に小さく唸った。魔族についての基本的な情報は伝えてあるが、あくまで基本的なところだ。ミスカーテが何者かを理解するのに、不十分なのは間違いない。
「かつて、まだ魔族と神がこの星で徹底的に争っていた頃の話はしたよな?」
「ああ」
説明するとなると、ここから始めなければ駄目だ。レーナはかすかに目蓋を伏せる。ぼろぼろになった靴の前を、誰かが落とした紙袋が飛んでいった。地面を擦る紙の乾いた音が、路地裏に染み入る。
「ちょうどその頃、魔族側を率いていたのが五腹心と呼ばれる魔族なんだ」
地球大戦と呼ばれる、長年続いた魔族と神の争い。いつ始まったのかも明確ではないが、その中でいつしか魔族らを率いるようになったのが、五腹心と呼ばれる者たちだ。
プレイン、ラグナ、イースト、レシガ、ブラスト。彼らはそれぞれの方針は違えども基本的には協力して神に対抗していた。転生神の存在がなければ、おそらく魔族側の圧倒的な勝利に終わっていたはずだ。
「その五人の魔族の一人にプレインという者がいる。ミスカーテは、そのプレイン直属の部下だ」
端的に説明しすぎたのか、アースはぴんと来ていない顔をしていた。どうやら『直属』だけでは伝わらなかったらしいと、レーナは反省する。
相手が神ならばこれで十分だが、今回はそうではない。神技隊ならおそらくもっと言葉が必要だろう。
「五腹心はそれぞれ部下を持っているんだが、彼らと直接話をしたりやりとりができる魔族というのは限られている。常に連絡を取り合うような者は直属と呼ばれている。そうではないが直接接触することができるのは、準直属だ。で、直属の部下というのはそれぞれ数人しか持っていない」
話すにつれて、アースの眉根が寄っていくのがわかった。好ましくない状態であることが、少しは伝わっただろうか。
だがおそらくはレーナが持っている危機感には及ばないだろう。五腹心の強さを具体的に想像できないのだから仕方がない。
「つまり、とんでもなく強い部類の魔族ってことじゃないのか」
「そういうことになるな」
「そいつか、そいつの部下がこの件に絡んでいると?」
半信半疑な様子で、アースはちらと路地の向こうへ視線をやる。一見、人々は普通通りに生活しているように見える。だが奇病と呼ばれるその不思議な現象は、この町に徐々に広まりつつあった。
効果としては少し技が使いにくくなる程度なので、さほど問題となってはいないが。それでも得体の知れない病の流行に、人々の奥底に不安が溜まり始めている。神に気取られないよう動いている魔族がよく使う手法だ。
「そう考えるしかないな」
「この間言っていた、侵入した魔族というのがそうなのか?」
「かもしれない」
やはり魔獣弾と繋がりがあると考えた方がいいだろう。では、この毒のばらまきは一体何を意味しているのか? それがわからなかった。宮殿から離れているこの町でひっそりと騒ぎの種を撒くというのも解せない。
この程度では負の感情を集めるのには適さないし、神の注意を引くにも弱すぎる。何か意図があるのか? それとも今のは実験で、これからさらに別の毒を使うつもりなのか?
「レーナ」
どうやら考え込んでいたらしく、やや強い語気で名を呼ばれた。レーナははたと顔を上げる。じっとのぞき込んでくるアースの双眸に宿っているのは、確かな懸念だ。気が感じられなくともそれくらいはわかる。
肩を掴む手に自身の手を重ねて、レーナは微笑んだ。
「ああ、すまない。少し考え込んでいた。大丈夫だから――」
「お前は大丈夫しか言わないな」
そう指摘され、レーナは黙り込んだ。自覚はあったので、反論の言葉が咄嗟には浮かばなかった。
たとえ大丈夫でなかったとしても、そうしなければ。そうでなければ生きてはいけないし、目的は果たされない。だから彼女はいつも「大丈夫」と答える。一種の願掛けなのかもしれないし、自分自身を騙すための言葉なのかもしれないが、彼女には必要なことだった。
「言わないように、してるから」
「それが我々は不満なんだ。そんなに頼りないか?」
「いや、そうではなくて」
肩から手を引き剥がそうとすると、逆にその手を取られて体の向きを変えられる。壁から背が離れた拍子に、うっかり帽子を取り落としそうになった。
真正面から目をのぞき込まれるのは、実のところあまり得意ではない。気を隠していてよかったと思う瞬間だ。
「十分助かっているし、頼りにしてるつもりなんだが。……その、癖みたいなものなんだ。すまない」
今まで一体どれだけの時間を一人で過ごしてきたのか。必死に抗い、もがき、試行錯誤してきた中で身につけたものが、そう簡単に変わるわけがない。それでもずいぶんましになったと、自分では思っていた。
「今日だって、こうして一緒に来てもらえて助かっている」
素直にそう告げると、アースは訝しげに首を捻った。一体自分が何に役立っているのかわからないと言いたげな表情だ。
そこまで説明しなければならないのかと、レーナはわずかに躊躇いを覚える。勘でしかないが、何となく、嫌な顔をされる気がする。
「感謝してるんだ。だから――」
「われは何もしていないが」
「いや、何もしなくていいんだ。近くにいてもらえたら。その、一人だとな、聞き込みしても、話が余計な方向に進んでいって時間ばかり掛かってしまうから」
あやふやに濁しながら事実を伝えてみたところ、アースはすっと目を細めた。気など感じられなくとも、纏う気配が変わったのがわかる。
その意味について、考える暇はなかった。肩から離れた手がやおら彼女の頭を撫でる。驚いて瞳を瞬かせれば、頭上からため息が落ちてきた。
「それで今日は妙に近かったわけか」
アースにそう認識されていたという事実に、つきりと胸の奥が痛む。思わずレーナは目を伏せた。
適切な距離を維持するというのは本当に難しい。昔のようにただ他人の振りをして逃げている方がまだ楽だったかもしれない。仲間として振る舞いながらも踏み込まれないよう距離を置くというのは、実に骨が折れる。
「あ……うん、すまない」
一体、自分は何に対して謝っているのか。それすらも曖昧になる。最初から説明しておけばよかったのだろう。その時間や手間を惜しんだせいだ。
自分の容姿が目立つことも、笑顔を振りまくことが数々の勘違いを生み出すことも、重々承知していた。それがうまく情報を引き出すための手段となることもあれば、厄介な問題まで引き寄せる頭痛の種となることもある。
それ故に可能な限り見た目を『調整』しながら星々を回ってきたわけだが、それを地球でも続けるのは難しかった。ここは神の巣だ。動く時は気を隠す必要がある。つまり見た目は変えられない。
「先に言っておけばよかったな」
「いや、いい。言われたら言われたで身構える」
答えるアースの声がいつも以上に低かった。離れていく手と不機嫌な顔に、レーナは胸の軋みをまた自覚する。こんなことにまで罪悪感を覚えなくてもいいのにと、いじましい自分に嫌気が差した。
自分本位に振り回すことを当たり前と思えたら、そうすればもっと楽になるのか。利用しているという事実は変わりないのだから、そう割り切れた方が精神維持の面では望ましいはずだ。
「だからそんな顔をするな。今はそれよりもミスカーテとかいう魔族のことだろう?」
そこでアースに指摘され、レーナは我に返った。確かに、余裕はない。ミスカーテかその部下が動き出しているのなら、こちらも早めに対応しなくては。
「ああ、そうだな。ありがとうアース」
顔を上げて微笑めば、アースは何故か複雑そうな表情になる。そこには先ほどのような苛立ちはない。逸らされた視線の先が定まっていないのが気になったが、怒ってはいないようだった。
レーナは足元を見下ろしながら帽子を手に取る。
――ここは地球。転生神の星。ユズの星。すべてのものが集いし場所。油断などしていられない。常に最悪に備えながら最善を尽くさなければならない。そうでなければ、手遅れになる。
「何のためにここにいるのか、思い出さなくてはいけないな」
路地の向こうに広がる大通りへと、レーナは視線を転じた。再び帽子をかぶり直すと、緩やかに編み込んだ髪が胸元で踊った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます