第9話
「あっ」
青葉は呆然とそれを見送った。まさかここであっさり撤退するとは思わなかった。それだけ不利な状況と判断したのか。
一方、視界の端に映ったレーナは、魔獣弾を追いかける素振りもなく気楽な様子だ。そもそも追い払うだけのつもりだったのか。
魔獣弾が去った。その事実を噛みしめ青葉は大きく息を吐いた。最悪の事態を覚悟した後なだけに、どっと肩の力が抜けた心地になる。もう本当に駄目だと思った。
それは梅花も同じだったのか、頬を緩め胸を撫で下ろしていた。後ろでよつきたちの声もする。皆の気には安堵が溢れていた。
だが、本当に安心していいのか? はたと気づいた青葉は、レーナの横顔を凝視した。突然戻ってきた彼女たちの目的はやはり知れない。偶然助けてくれた形となっただけかもしれない。
「レーナ、追わなくてよかったのか?」
青葉たちが何も言えずにいると、剣を携えたアースが静かに近づいてきた。魔獣弾がいなくなったというのに、いまだその表情は険しい。
露骨な威圧感を纏っているアースへ、振り返ったレーナは頷きつつ破顔した。その表情の柔らかさにどこか違和感を覚え、青葉は首を捻る。何かが引っかかる。
「うん、いいんだ。大した収穫はなかっただろうし、どうせまた出てくる。それに、ここを放っておくわけにもいかないしな」
レーナはそう告げてから、今度は倒れ伏しているラフトたちの方へと向かった。逡巡のない足取りに慌てたのはカエリとよつきだ。仲間たちに何をされるのかと焦ったのだろう。
だがよつきたちが近づいていっても、レーナに動じる素振りはない。倒れた者たちの傍に片膝をつき、「うーん」と可愛らしく首を捻っている。その背後で立ち止まったよつきが顔をしかめた。
「レーナさん、一体何を――」
「治療」
レーナは倒れた者たちに向かって手を伸ばす。まるでよつきたちが自分に害をなさないと信じこんでいる様子だった。いや、攻撃を仕掛けられても対処できる自信があるのか?
もっとも、先ほどの動き、気を見せつけられた後では、青葉たちには不用意なことなどできないが。
皆が黙り込んでいると、レーナの手のひらから柔らかな光がこぼれ落ちた。治癒の技かと思ったがどうも違う様子だ。波立つように伝わってくる気の流れは、慣れ親しんだものとは若干違う。
彼女は一体何をやっているのだろう? 特殊な治癒の技なのか?
「――レーナ」
つと、梅花が一歩を踏み出した。草を踏みしめる足音が、奇妙な静けさの中に染み入る。よつきの困惑気味の眼差しが、梅花と青葉の間を往復した。助けを求められるような視線を向けられても、青葉にはどうしようもないのだが。
「あなたは何者なの? どうして私たちを助けてくれるの?」
梅花の言葉を受けて、レーナは手をかざした体勢のまま顔を上げた。小首を傾げた拍子に髪が揺れ、ふわりと風に乗る。
口元に浮かんだ微笑はそのままに、彼女は悪戯でも企むようにくつくつと笑い声を漏らした。本当に楽しそうだと思えるのは、彼女の気の力なのか。弄ばれているとはまた別の印象を受ける。
誰もが何度も尋ねた疑問。そこに明確な答えが返ってくるとは思えないが、それでも何らかの返答を期待してしまうのは何故なのだろう。今度こそと思ってしまうのはどうしてなのか。
青葉はきつく拳を握り、梅花の隣へ進み出た。水気を含んだ草の潰れる音がする。
「どうしてって? オリジナルたちを守るために来たんだ。当然だろう」
前半の質問をさらっと無視して、レーナはまた笑った。「オリジナルたち」ということは、他の神技隊も含まれているのか? それともシークレットという意味なのか?
わからないが肝心な部分をはぐらかされたことがいっそう気に掛かる。やはり、正体を明かすつもりはないらしい。
「そ、その割にはいきなり襲ってきましたよね?」
すると眉をひそめたよつきが疑問の声を上げた。そう、青葉もその点が気になっていた。だから彼女たちの意図がわからなかったのだ。襲われて警戒していたら、今度は助けてくれるなど理解しがたい。何か裏があるのではないかと勘ぐってしまう。
「ああ、あれな。守ってるだけじゃあ強くなってもらえないだろう? 危機感を持ってもらわないと」
「ず、ずいぶんあっさりとばらしましたね」
「だってもう十分持ってるだろう?」
手のひらからこぼれていた光が止まった。レーナはおもむろに立ち上がると、膝についた土を払う。
彼女の言わんとすることを、青葉は一瞬読み取れなかった。――危機感。一呼吸置いて瞳を瞬かせると、それはじわじわと自分の内に染み込んでくる。確かに、もう十分という程感じ取っている。切迫感と言っても過言ではない。
最近になってようやく自覚した。死ぬ可能性がある場所に放り出されていたという事実。それが今後も続くだろうという予測。
平穏が消え去ったことをただ嘆いているような状況ではなくなってしまった。青葉たちに必要なのは、がむしゃらにでも命を守るための術だ。
「だからもういいんだ」
ひらひらと手を振るレーナの双眸が、ちらと青葉にも向けられた。こちらの心境を全て見透かしているかのような真っ直ぐな眼差しから、つい目を逸らしたくなる。
この焦燥感も、彼女には筒抜けなのだろうか。自分たちは何もわかっていないのにと思うと歯がゆい。
「死にたくなければ強くなってくれ。ここにいる限り、戦乱からは逃れられない」
「あなたは何を知っているの?」
梅花が一歩、また前へと踏み出した。だがレーナはそんな梅花を一瞥して笑みを深めるばかりだ。やはり答えるつもりなどなさそうだった。こうしてすぐにはぐらかすから、レーナの話は素直には受け取りがたい。
青葉が継ぐべき言葉を探していると、不機嫌顔のアースが近づいてくるのが見えた。静かな足音の中には奇妙な威圧感が滲んでいる。その様を見て、よつきとカエリが少し距離をとった。
「もういいだろう、レーナ。行くぞ。長居してもろくなことにならない」
ぼやいたアースは立ち止まって大きなため息を吐いた。呆れと憂いと疑念の詰まった気が、青葉には妙にむずがゆく感じられる。レーナはアースの方へ顔を向けてから、ついで空を見上げ人差し指を頬に当てた。
「ああ、そうだな。そろそろ邪魔が入る」
「余計なことをするからだ」
「でもオリジナルたちは大事にしないとな」
「オリジナルか。本当にそっくりだな、紛らわしい」
二人の会話は相変わらずだった。困ったようなレーナの微笑が眩しい。だがそこで青葉はふと違和感を覚え、首を捻った。何かおかしい。何かが以前と違う。
だがそれを声に出すことは叶わなかった。頷いたレーナは身を翻すと、渋い顔したアースに駆け寄ってその腕を取る。実に自然な振る舞いだった。
よつきが「え?」と声を漏らさなければ、青葉は何も反応できなかったに違いない。はっとした青葉が喉を震わせるのと、レーナがちらと肩越しに振り返るのはほぼ同時。彼女はそのままひらりと左手を振り――次の瞬間には、消えていた。
「あ……れ?」
影も形も気も残さず、レーナたちの姿は消え去っていた。事態の変化に思考の速さが追いつかない。一体、目の前で何が起こったのか。ただただ唖然として瞬目を繰り返すしかなかった。
二人が消えたその足下で、ラフトが身じろぎするのが見える。
「何が、一体、どうなってるんだ?」
こぼれ落ちた疑問に、無論答えてくれる者などいなかった。谷を吹き抜ける風が薄靄を揺らすばかり。レーナたちがそれまでいた空間を、誰もが凝視していた。
今のは幻だったと言われても信じてしまうかもしれない。それくらい呆気ない退場の仕方だ。
「あー間に合わなかった!」
停止しかけていた思考と時を動かしたのは、突如聞こえたカルマラの声だった。慌てて気を探りながら振り返ると、後方から走り寄ってくるカルマラの姿が見える。
前に見たのと変わらず涼しげな恰好だ。あれなら夏の無世界でも快適に過ごせるだろうかとついどうでもいいことを考えるのは、動揺しているせいか。
「カルマラさん」
隣で梅花が肩をすくめた。これは絶妙なタイミングだと言うべきなのか否か。いや、ひょっとするとカルマラが来ることに気づいたので、レーナたちは去ったのかもしれない。
そう考えると「邪魔が入る」という言葉が腑に落ちる。もっとも、今までカルマラの気は微塵も感じ取れなかったのだから、一体何に感づいたのかは定かではないが。だがあのレーナのことだから何でもあり得た。
「ちょっとちょっと梅花、何があったのか教えてちょうだい!」
ぱたぱた走り寄ってきたカルマラは、梅花の腕を掴んだ。慌てていたらしく短い髪はかなり乱れている。梅花はそっとカルマラの手を引き剥がすと小さく唸った。
「端的に言いますと、魔獣弾に襲われたところをレーナたちに助けられました」
梅花の簡潔な返答を聞き、カルマラは両手で頭を抱えながら「うーあー」と奇妙な声を上げた。彼女も理解が追いついていないのか、体を傾けた奇妙な体勢で固まっている。
その気には後悔と不安と、何故か期待まで入り交じっていて。彼女が何を考えているか推し量るのも難しかった。
「そ、そっか。ってことは、魔獣弾はもういなくなったのよね……?」
「逃げてしまいましたね」
そう説明した梅花は、倒れているラフトたちへ双眸を向けた。と同時に、その横を無言でレンカが擦り抜けていく。茶色い長い髪が、青葉の視界の端で優雅になびいた。
何事かと思ったら、彼女はそのままラフトたちの方へ近づいていった。困惑顔で立ち尽くしているよつき、カエリに一声かけてから、レンカはその場に両膝をつく。
「あの人たちは?」
「――魔獣弾の攻撃を受けたんですが」
カルマラの視線もラフトたちの方へ吸い寄せられた。そこに倒れた者たちがいることに、今ようやく気づいたらしい。頭から手を離してきょとりと首を捻るカルマラに、やや目を伏せた梅花は答える。途端、「えー!?」という気の抜けた悲鳴が響いた。
「それって一大事じゃない!」
「たぶん、レーナが治していきました」
両手をバタバタ振って慌て始めるカルマラに、梅花は静かに付言する。「たぶん」なのは、レーナが何をしていったのか梅花も把握できていないからなのか。
青葉はもう一度ラフトたちの方を見遣った。レンカは倒れた者たちに手をかざし、じっと様子をうかがっていた。その種の眼差しにはどこか見覚えがある。
「精神を……回復させたのかしら」
「そうだと思います」
独りごちるレンカに、梅花は先ほどよりも確信のこもった声で同意する。
青葉には何のことを言っているのか不明だったが、それでもカルマラには何か通じたようだ。先ほどまでの軽さが嘘のように顔を青ざめさせ、絶句している。ひたすら楽天的だと思っていた彼女もこのような顔をするのだと思うと意外だった。
「嘘でしょ……」
「魔獣弾が奇妙な瓶をミンヤ先輩、たくに触れさせた時、その気が急激に弱まったんです」
「まさか、精神を吸い取ったとでも言うの?」
「そうとしか思えません。レーナもその瓶を渡すように魔獣弾に迫っていましたし」
真顔になったカルマラが梅花の肩を掴む。青葉は二人の言葉を脳内で繰り返しながら、記憶を掘り起こし眉根を寄せた。
ラフトやゲイニに続き、やられていたのはミンヤとたくだったのか。だが、よくあの状況でそれがわかったものだ。梅花にも見えていたはずはないのだが、全て気で感じ取っていたのだろうか? ――彼女はもう、神技隊全員の気を覚えたのか?
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