第6話

「うーん、ちょっとね」

「ちょっとね、じゃないだろ。そんな顔して。青白いぞ」

「たまに、あるのよ。ある特定の場所の近くを通ると、精神を乱されることが。情報収集してたら、その、たまにが、起こっちゃって」

 机から離れた青葉は、梅花の近くへ寄った。よくよく彼女の気を探ってみると、確かに不安定になっているようだった。

 ただ感情が揺さぶられた時のような乱れ具合ではない。もっと根底から何かを歪ませられたような、感じたことのない気配だった。白い額に滲んだ汗を見つけて、彼はそっと手で触れる。

「それ、ちょっとっていう話じゃないだろ」

「大丈夫よ。今回は立っていられたし」

「それはつまり、いつもは立っていられないってことか」

 汗が引いた後なのか、額はやや冷たくなっていた。「大丈夫」と口にしながらも、梅花は壁に寄りかかったままでいる。

 直接肌に触れているというのに怪訝な顔をされるどころか安堵したような表情を浮かべているのを見ると、そこはかとなく落ち着かなくなった。これはよほどの事態だ。

「今日は、色々あったから、やられやすかったのかもね。迂闊だったわ」

 また軽く目を閉じた梅花の顔を見下ろし、はっと青葉は我に返った。この殺風景な部屋にも、椅子が一つだけある。このまま立たせている場合ではなかった。

「あーもうわかったから。とにかく座れ」

 小さな額から手を離し、青葉は再び梅花の腕を引く。あっさりと傾いだ彼女の体をほとんど抱き上げるようにして、無理やり白い椅子に座らせた。

 現実の動きについていけないとばかりにきょとりと目を丸くした彼女は、首を傾げながら見上げてきた。まるで寝ぼけた子どものようだ。青葉の胸に再度さざ波が生じる。

「青葉、力あるのね」

「何度も言ってるけどお前が軽いだけだ。大体、全然大丈夫じゃないだろ。頭も働いてないだろ。ぼーっとしてるぞ」

「そう、ね。たぶん働いてないわ。でもちょっと休んだらすぐに落ち着くから」

 息を吐いた梅花はコトンと机に頭を乗せた。幾つもの言葉を飲み込んだ青葉は、部屋の中を見回す。無慈悲な真っ白い空間には、毛布の代わりになるような物などない。もちろん、横になれるような場所もない。

「少し休んだら、アサキたちを連れてこなくちゃ。カルマラさんの準備が整うまでに」

「……カルマラ?」

「上の人。ラウジングさんの代わりに、今度はその人が、リシヤの調査に行くそうなの。彼女が来るから私たちなのよ」

 両目を軽く瞑った梅花を見ていると、少し休んだだけで回復するようには思えなかった。しかし彼女がいなければゲートを複数人通すことはできない。青葉一人で行くわけにはいかなかった。

 せめてここにベッドでもあればと考えた後、彼はそれを訂正する。やはりない方がいい。彼が首を横に振ると同時に、ぼんやりした彼女の声が空気を震わせた。

「どうかしたの?」

 目を開けた梅花は、少しだけ首を捻り青葉の方を見上げてくる。頬にかかっていた黒髪が机の上にこぼれ落ちた。彼は腰を屈めて彼女の顔をのぞき込む。間近で目と目が合った。

「梅花」

 まどろんでいるような瞳で見つめられると落ち着かない。名を呼んでみても、ぼんやりと頷きとも言えない反応が得られるばかりだ。半分は眠っているのかもしれない。

 独りでに喉が鳴った。手を伸ばしたい衝動に青葉が抗っていると、梅花はほんの少し口元を緩めた。

「何でだか、青葉が傍にいると、楽ね」

「……え?」

 思わず気の抜けた声を漏らし、青葉は眼を見開いた。微笑んでいるようにも思える彼女の顔を凝視していると、ここがどこなのか忘れそうになる。

 華奢な肩の先に引っかかっている髪の房を除けて、彼は息を呑んだ。青白かった肌は、心持ち人間らしい血色に戻り始めている。

 彼女の瞼がまたそっと下ろされた。彼は瞳をすがめると、前髪を除けて無防備になった額にそっと口づける。先ほどよりも温かみを取り戻したはずの肌は、それでもほんの少し冷たく感じられた。

 その時、背後の扉ががたりと揺れた。ノックの音ではない。一瞬その場で固まった彼は、すぐに唇を離して振り返った。大きく跳ねた鼓動が耳や頭の奥でこだましている。

 しかし、入り口には何もなかった。時間感覚を失わせる白い部屋の中に、白い扉が埋まっているだけだ。気を探ってみても、扉の向こうに誰かが立っている気配もない。

「誰か、ぶつかっていったのね」

 青葉が息を整えていると、横で梅花がのろのろ体を起こす気配がした。横目で見遣れば、顔を上げた彼女は微苦笑を浮かべている。まだぼんやりとした眼差しで、思考は緩慢なようだった。

「急ぎすぎて、誰かを除ける際に、壁にぶつかるの。たまにあるのよ」

 そう説明した梅花は、恐る恐るといった様子で立ち上がった。慌てた青葉が支えようとした手を、彼女は制止する。それから一度瞬きをし、ゆっくり左右に首を振った。何かを確かめているようだった。

 彼が眉をひそめていると、彼女は深呼吸しながら顔を上げる。

「精神の方も落ち着いてきたわ。そろそろ、アサキたちを迎えに行きましょう」

 賛同できない言葉だ。しかし異を唱えようとする寸前で、青葉は思いとどまった。このまま二人でこの部屋にいるのは、別の意味でよろしくない。彼女に無理はさせたくないが、全く別の問題を引き起こすくらいなら呑んだ方がいいだろうか。

 彼が逡巡している間に、彼女はおもむろに歩き出す。先ほどよりもしっかりとした足取りだ。

 そのことに安堵した彼は、仕方なく「わかった」と頷いた。引き留めても無駄だと思うことにする。彼女の向かう先の扉は、相変わらず無愛想な顔で鎮座していた。




 雨の上がった空には、まだ重たげな雲の名残があった。立ち上がったレーナがそれを眺めている様を、アースは無言で観察する。

 先ほどからこの調子だ。何を口にするわけでもなく、洞窟入り口の岩壁に手を添えたまま、じっと一点を見据えている。彼女はおそらく見ているのではなく感じているのだろう。こういう姿は度々見かけていた。

「レーナ、何かあったの?」

 そしてこういう時にまず問いかけるのは、イレイの役目だ。今日もそれは変わらず、洞窟の奥から素朴な疑問が放たれる。

 振り返ったレーナは頭を傾けて破顔した。彼女の視線はうとうとしているネオン、暇そうなカイキと順に巡り、最後にアースへ向けられる。

 長剣を抱えたまま座り込んでいたアースは、続けるようにと目で伝えた。彼女はそっと自分の顎に指先を当てる。

「神が動いてるなあと思ってな」

「神? あの緑の人?」

「その仲間だ」

 レーナは悠々と頷いた。視界の隅に映るイレイは、わかったようなわからないような顔で相槌を打っている。これもいつものことだ。彼女は説明する言葉を選んでいるのか、しばし宙へ視線を彷徨わせる。

「もちろん、忠告したんだから動いてもらわなければ困るんだが。しかしそれにしても、あいつら、どうもオリジナルたちを動かすつもりらしい」

 ほんの少し眉根を寄せたレーナは、「懲りないなぁ」とぼやいた。オリジナルが動くということは、つまりこちらも出向く必要があるということだ。

 アースは内心でため息を吐く。大して休んでいない彼女にまた無理がかかるのは避けたいところなのだが、止めたところで無意味なのはわかりきっていた。オリジナルが関わると、彼女は普段以上に意固地になる。

「動くって、どこ?」

「おそらくリシヤの森だろう」

 リシヤの森と聞いて、イレイはあからさまに嫌そうな顔をした。先日の記憶はまだ鮮明に残っている。

 あの森には無数の結界のようなものが張り巡らされており、正直気分のいい場所ではない。感覚も麻痺しやすかった。しかも広範囲に渡る技が使えないとなると、思い切って戦うこともできない。アースもあの場所は苦手だ。

「またあそこー? 何なのあれ? 変な気がいっぱいじゃない」

 膝を抱えたイレイは唇を尖らせた。その表情を見て、レーナはくすりと笑い声を漏らす。

「あれは結界と呼ばれている。リシヤの結界だ」

 リシヤの結界。実に安直な命名だ。それだけでは何の説明にもなっていないと言いたげに、イレイが「ふーん」と唸って首を捻る。

 しかしさらなる説明が付け加わることが予測できたので、アースは黙っていた。こちらの反応を見ながら話を広げてくるのがレーナの手法だ。

「リシヤにあるからリシヤの結界……と人間たちは思っているかもしれないが、実はそうではない。リシヤが生み出したからそう呼ばれているんだ」

 案の定、レーナはそう付け足した。もっとも、付言された内容の方は予想できたものではなく、アースは彼女の言葉を脳裏で繰り返す。

 リシヤが生み出した結界、だからリシヤの結界と。そのリシヤとはそれだけ有名な人物なのか? すると目を丸くしたイレイが大きく口を開けた。

「リシヤって、人の名前だったの!?」

「そうだ。転生神リシヤ。彼女が再来を告げた場所を、その後リシヤと呼ぶようになった。だから本来は彼女の名前だ」

「へぇ、リシヤって女の人なんだ。レーナって何でも知ってるね」

 感心したようにイレイは何度も首を縦に振る。だが褒められたレーナは少しだけ悲しげな目をして、曖昧に頷いた。

 微笑だけは崩していないが、その眼差しは確実に物憂げな色を帯びている。これも時折、見かけるものだった。アースたちを落ち着かなくさせる表情の一つだ。

「聞いていたし、調べたからな。しかし肝心なことはわかっていない」

「肝心なこと? たとえば?」

「たとえば……そうだな、自分のこととか、かな」

 そっと視線を外したレーナは、肩をすくめてまた空を見上げた。物思いに沈む時の合図だ。

 もう、この場でこれ以上の説明は聞けないだろう。彼女の思考は再び今後の動きへ向けられている。不安定な未来を見据えている。

 話が逸れてしまったせいで、肝心なことを尋ねそびれてしまった。――リシヤの結界は、一体何のためにあるのか。転生神とは何者なのか。

「自分のことかぁ」

 イレイがしみじみと呟いた。自らのことがわからないのは、アースたちも同じだ。それを知るためにレーナと共にいるのだが、実のところは彼女も知らないのか?

 いや、全くわからないということでもないはずだ。少なくとも彼らよりは知っている。彼女が求めているのは、きっともっと深いところに違いない。

「いつか、わかるといいね」

 純粋な希望を滲ませて、イレイが囁いた。その言葉にこの場で同意を示せるほど、アースは素直ではなかった。

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