第14話

 リンは何か口にしようとしたが、うまく喉から声となって出てこなかった。代わりに酸味のある液体がこみ上げてきて、慌てて唾を飲み込む。

「終わったな」

 圧倒的だったレーナの気が、弱まった。リンは再び前方へと視線を戻す。ちょうど白い刃を消して、レーナが振り返ったところだった。

 その口元に血の跡があることに気がつき、リンは眉をひそめる。先ほど右腕で拭ったのは血だったのか? 左腕はいまだに重力に沿って垂れ下がったままだ。何てこと無いような素振りだったが、そうではないらしい。

 ひとまず戦闘が終わったことは理解できたが、誰もがそれ以上動けず立ち尽くしていた。青葉は梅花を抱き起こしたまま動揺しているし、シンたちも何が何だかわからないといった様子で混乱しているようだ。

 何がどうなっているのか、最初から見ていたリンでも理解ができないのだから仕方ないだろう。ここはリンが少しでも説明しなければと思うのだが、安堵のせいか今度は目眩がしてきた。情けない。

「終わったな、ではない!」

 その中で、いち早く現実的な動きを取ったのはアースだった。剣を携えたまま怒声を上げ、微笑むレーナへと躊躇なく駆け寄る。

 右手で左腕をさすっていた彼女は、かすかに顔を引き攣らせて半身を引いた。だが彼はそれ以上後退るのを許さず、彼女の左手を取った。ぐいと勢いよく引かれた小柄な体が傾ぐ。

「レーナ、お前、本気になるなと言っただろう」

「いや、このくらいは本気には……」

 力の入らない左手を掴み上げられて、レーナは言葉を濁した。先ほどまであんなに頼もしく見えたのが嘘のように、今はたじろいでいる。見た目相応の少女のようだ。

 すると突然視界がぼやけて、リンは瞳をすがめた。鈍痛がぶり返してきている。思い返すと、傷が開いたままかもしれないのだった。脇腹を押さえても世界が時折ふわふわと揺れて見えるので、彼女は仕方なく耳を澄ませる。

「大体、今のは何だ。魔物じゃないのか?」

「ああ、魔族だ。結界のゆるみと亜空間が繋がっていたのかもしれない。危なかったな」

「危なかったなで済ませる話か! だからこんな罠に乗るなと――」

「いや、我々がいなかったら取り返しのつかない事になっていた。だからそれはいいんだ」

 レーナがちらりと周囲へ一瞥をくれたのはわかった。梅花の無事を確認したのだろうとリンは推測する。

 神技隊を狙っている割に、『オリジナル』に何かあるとまずいようだ。彼女たちは何者なのか、何がしたいのか、ますますわからなくなってくる。

「わかった、もういい。行くぞレーナ。さっさと戻ってその傷を治せ」

 アースの手が動いた。レーナが視線を逸らしているのをいいことに、彼は難なく彼女の体を抱き上げた。「ちょっと、アース」と慌てる声は無視だ。

 リンは思わずその光景を凝視する。レーナは梅花同様に華奢だから軽そうだなとは思うが、抵抗を物ともせずあっさり横抱きしているのを見ると唖然としてしまう。慣れているように思えるのは気のせいか。

 アースは醒めた視線を周囲へ巡らしてから、最後に足下にいる青葉たちへと目をやった。青葉は片膝をついて梅花の体を支えながら、アースたちを睨み上げている。

 互いが目と目を交わしたことは明らかだ。しかしそこに言葉はなかった。二人とも何か言いたげではあったが、無言を貫いている。

 抗うのを諦めたレーナが、首をすくめつつ破顔したのが合図となった。アースはリンたちに背を向けると、強く地を蹴る。そしてそのまま体に風を纏わせ、一気に空へ飛び上がった。

 無論、追いかけるような気力など誰にもなかった。瞬く間に小さくなっていく姿を目で追うことしかできない。

 しばらくは、皆声を発することがなかった。不自然な静寂が辺りを包み込み、思い出したような葉擦れの音だけが鼓膜を揺らす。

 最初に我に返ったのは青葉だ。梅花が身じろぎしたからだろう。はっとした彼が名を呼ぶことで、ようやく時間が流れ出す。

 リンは意を決すると「ジュリ」と呼びかけた。シンの腕を借りてもう少しだけ上体を起こし、近づいてきたジュリを見上げる。

「梅花をお願い。よくわからない奴らによくわからない技で二回はやられてるから慎重にね」

「はいっ」

 どうにか笑顔を作って頼み込むと、ジュリは意をくんでくれたようだった。今の梅花に自分で自分を癒す余裕はないだろう。他人の怪我を治すことにかけては、ジュリの右に出る者はいない。リンはそう思っている。

 頷いたジュリが梅花たちの方へ駆け寄っていくのを見届け、リンは胸を撫で下ろした。

「……リンの怪我はいいのか?」

 再びシンに顔を覗き込まれて、リンは頷いた。ここまで不安そうな表情は初めて見たように思う。そんなに自分はひどい顔色をしているのだろうか。

 それとも手にこびりついた血のせいか? よく見ると右手は真っ赤だった。意識しなければよかったと、リンは苦笑いする。

「あーいいの。私は自分で治すからいいの。梅花の方は時間かかりそうだし。でもこれはちょっと予想以上だったわね。この服もう駄目かも」

「こんな時まで服の心配かよ」

「こんな時だからよ。ま、手でこすっちゃっただけで出血量は多くなさそうだから。平気平気」

 治癒の技が使える技使いにとって、一番気をつけなければならないのは血を失うことだ。技を使えば傷を塞ぐことができる。痛みで精神が集中できない状況にさえならなければ、最悪の状況には到らない。

 しかし失われた血が戻るわけではなかった。多量に出血すると技を上手く使えなくなるらしいと教えられてもいたし、経験的にも知っていた。だから出血には気を遣う。

「こすっただけでそうなるかよ」

 呆れたシンの声が降り注いだ。リンはから笑いしながら脇腹に手を添え、深呼吸を繰り返す。焦りがなくなったせいか精神の集中も問題なさそうだった。これならばすぐに傷も塞がるだろう。

「……一体、何があったんだ?」

 それはシンにも伝わったようで、尋ねる声に少しだけ落ち着きが戻ってきた。

「私にもわからないわよ。ただ、魔族だとか言われてた変な男たちがいて。急に襲ってきたのよ。それをレーナが助けてくれたって形になるのかしら」

 傷を癒しながらリンはそう説明する。二人の会話を聞いていたらしく、近くにいた滝たちが唸る声も聞こえた。神技隊を狙っていたはずのレーナたちが、何故味方してくれたのかは不明だ。梅花を守りたかったのだろうというのはわかるが。

「梅花に手を出して欲しくなかったみたいね。オリジナルとか言ってたし」

 会いたかったとレーナは口にした。偶然同じ顔という可能性はないと思っていたが、やはりシークレットと繋がりがあるのだろう。それがどういった関連かはわからないが、収穫はあったと考えるべきか。

 リンは瞳を細め、梅花たちの方へと視線を転じた。青葉は梅花の体を支えたまま青い顔をしている。

 梅花は青葉に頭を預けた状態で軽く目を瞑っているようだった。痛みを堪えているのか苦しそうな表情だが、呼吸は比較的穏やかだ。

 梅花の横に座ったジュリは、細い足へと両手をかざしている。手のひらから温かな光がこぼれ落ちている様は、リンもよく見慣れていた。ジュリの腕は信頼している。しかし出血は多そうだったから、しばらくは休養が必要だろう。

「まったく、何が起こってるんだか」

 シンのため息は皆の気持ちを代弁していた。一体何のためにおびき寄せなどという作戦を立てたのかわからなくなってきた。

 元はといえば、ラウジングがいきなり姿を消したのが悪い。あの不親切な上の者は、今はどこで何をしているのか?

「――そうだ、シンたちはどうやってここがわかったの?」

 ふと、そこで疑問が生じた。この亜空間では皆が気を隠していたし、どうも空間が歪んでいるらしかった。リンが梅花と合流できたのも偶然だった。

 しかし走ってきたところをみても、たまたま辿り着いたわけではないだろう。アースを追ってきたのか? レーナのあの強い気を誰かが感じ取ったのか?

「そんなの、変な気を感じたからに決まってるだろう。それまでは全く気を感じなかったのに。しかもそこにレーナの気まで加わって……」

 シンにしては珍しく不機嫌な声音だった。リンは眉間に皺を寄せる。何か怒らせることでも言っただろうか? 心当たりはないが、問いかけても明確な答えが返ってくる可能性は低いので、黙っておく。シンはたまにこういうことがある。

「……ということは、他のみんなも気づいていずれここに来るわよね」

 リンははっとした。ラビュエダたちの気配が目印になるのなら、他の者たちとも合流できるかもしれない。ひどい目には遭ったが悪いことばかりでもないようだ。頭上でシンも頷く。

「そうだろうな。たぶん皆こっちへ向かってきてる」

「お、噂をすれば誰か来たみたいだぞ」

 シンの言葉を受けて、滝が振り返ったようだった。座り込んだままのリンからでは、シンの体が壁になって何も見えない。

 しかし耳を澄ませば、誰かが駆け寄ってくる足音がかすかに聞こえる。ついで「滝先輩ー」と呼ぶ声が響いた。間違いなく神技隊だ。この聞き覚えのある声は北斗のものだろうか?

「スピリットか」

 滝の声に安堵が滲む。シンが首を捻って確認しようとするのが、リンにもわかった。問われる前に意思表示しようと、彼女はあいている方の手をひらりと振る。

「そうです北斗です。ってリン、何かあったのか!?」

「リンさん大丈夫ですか!? 怪我ですか!?」

 走り寄ってきた北斗を退けるようにして、血相を変えたローラインが詰め寄ってくる。一緒だったのか。いつも飄々としている印象のローラインが慌てている姿は珍しい。

 傷口は見えないはずだがと訝しんだが、すぐに血の臭いのせいだと思い当たった。彼女の鼻はもう慣れてしまったようだが。

「大丈夫、今ちょうど治してるところ。ローラインたちは平気?」

「アースさんにやられましたが、怪我はないです。その後よくわからない黒い生き物に襲われていたんですが、急に消えましたし」

 すぐ傍に両膝をついたローラインは、ほっと息を吐いて微笑んだ。ここに駆けつけるまでの間に、アースは既に神技隊と交戦していたということか。

 だがそれよりも気になるのは獣のことだ。ローラインたちも襲われていたのか?

「ローラインも? 私も一匹倒したわ。その獣の親玉みたいなのは、さっきレーナたちが倒したの」

 黒い生き物が突然消えたのは、先ほどアースがとどめを刺したからなのか? ますます不可解だ。

 何にせよこの亜空間に長居はしたくなかった。レーナたちはもう去ってしまったし、留まる理由もないだろう。傷を塞いで立ち上がれるようになったら、すぐさま帰りたい。

「では帰りましょう。すぐに! この亜空間は危険です。美しくない」

「でもよーローライン。帰るっていってもどうやって?」

 勢いよく立ち上がったローラインに、水を差したのは北斗だった。ここに連れてきた張本人であるラウジングがいないので、どうすれば無世界に戻れるのかわからない。空間を斬ろうとした梅花も失敗していたようだし、一筋縄ではいかないだろう。

 一瞬で、辺りに沈黙が広がった。神技隊全員が無事に集まったとして、それからどうしたらいいのだろう。ひたすら待つしかないのか?

 皆が皆、顔を見合わせていた。リンもそうしたかったが、この体勢では難しいので治癒に専念することにする。

 まずは歩けるようにならないことには、亜空間を脱出しても話が進まない。もっとも、その脱出するまでの方法が、絶望的なくらいに見あたらないのだが。

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