第13話

 それでも空気が和らいだのは一瞬のことで。すぐさまレーナはまたラビュエダたちの方へと向き直った。ラビュエダがたじろぐ。

「こんなところに魔族がいるとはな。いや、魔族と半魔族か」

 訝しむレーナの声に、ラビュエダの肩がぴくりと跳ねた。聞き慣れない響きにリンは顔をしかめる。魔族とは何だろう? 聞いたことがない。

 するとついいつもの調子で首を傾げた拍子に、体を捻ったらしい。脇腹から全身に痛みが走り抜け、リンは思わずその場に座り込んだ。

 深く意識せずに右手を目の前へ持ってくると、血の色に染まっていた。やはりただ拳で強打されただけではないようだ。手で押さえているだけでは意味がないかもしれない。「あー」と声を漏らしながら、リンはもう一度レーナたちの方を見やった。

 どうもレーナは梅花を見捨てるつもりはなさそうだし、今のうちに傷を癒しておくべきだろうか。出血を放っておくと技を使うのにも支障が生じる。

 そう判断に迷っていると、不意にラビュエダの気が膨らんだ。見開かれた彼の赤い双眸に、怒りが満ちるのがわかる。

「何故? 何故気づいたんだ? 挫漸弾が半魔族だと。――まさか、お前の仕業か!」

 ラビュエダが吠えた。両手から生み出された黒い矢が複数、レーナへと向かって突き進む。とんでもない数だった。

 それでもレーナは手の一振りでそれらを払い落とした。否、正確にはその手に沿って生み出された結界が、ことごとく矢を弾く。呆気なくそれらは霧散した。

「そんなわけないだろう――」

「お前のせいで挫漸弾はっ!」

 否定するレーナの声を、ラビュエダの叫びが掻き消した。飛び上がったラビュエダの気は激昂したもののそれだ。レーナの言葉など耳に入っていないだろう。生み出した黒い大きな刃を、ラビュエダは勢いよく振り下ろす。

「まったく」

 レーナはそれを白い刃で受け止めた。技と技が干渉し合った時特有の、耳障りな高音が辺りに響く。力では敵わないのは予想通りで、レーナの左足が一歩下がった。

 何故避けないのかと一瞬考えたが、その理由が梅花であると思い当たり、リンは絶句する。レーナの実力がいかほどなのかは知らないが、圧倒的に不利だ。

「死ねぃっ!」

 何度も黒い刃が打ち付けられる。その度に少しずつ、レーナは後退する。ラビュエダの口角が上がった。不気味にぎらついた赤い瞳に、歓喜の光が宿る。

 レーナは梅花のすぐ傍まで下がったところで、白い刃を消し去った。そして振り下ろされた黒い刃を、左腕で受け止めた。

 空気を震わせたかすかな悲鳴は、レーナのものなのか、梅花のものなのか。ラビュエダは口の端を上げた。だが驚くことに、白い布に包まれたレーナの腕が、切り落とされることはなかった。

「すまない」

 レーナはそのまま左腕に体重を掛けるようにして、右手を前へと突き出した。彼女の手のひらから生まれた青白い光弾が、ラビュエダの腹部目掛けて放たれる。

 ほとんど触れるような距離からの攻撃を、避ける術などなかった。

 ラビュエダの悲鳴が響き渡った。ふらつきながら背中から倒れたラビュエダは、左手で空を掴む。知らぬ間に黒い刃は消えていた。打ち上げられた魚のように体を跳ねさせ、彼はその場でもがく。

 レーナはだらりと垂れ下がった左手へ一瞥をくれてから、ラビュエダの横に立った。ゆっくり彼女の右手が上がる。

「手加減している余裕はないので殺すぞ」

 そう告げる声は淡々としている。それなのに、どこか悲しげだとリンには感じられた。小刻みに体を震わせるラビュエダの姿を、哀れんでいるようでもない。どちらかと言えば、道を違えた同胞を見下ろす眼差しに近い。

 しかし彼女の手に生み出された白い刃には、先ほどと変わらぬ鮮烈な意志が宿っていた。とどめを刺すつもりだ。

 震えていたラビュエダの足が大きく痙攣する。その場から逃げ出す力はもうないのだろう。だが次の瞬間、再び木の下の挫漸弾が動くのを、リンの瞳は捉えた。彼女は咄嗟に声を上げる。

「危ない!」

 誰に対する警告なのか、リン自身にもよくわからなかった。梅花が体を強ばらせたのが遠目からでもわかる。

 しかしレーナは落ち着いていた。迫り来る黒い光の筋に向かって、即座に右手を向ける。刃が消え、代わりに手のひらから透明な膜が生まれた。完璧な結界だ。それに弾かれて、黒い光は空気へと溶けた。同時にレーナの顔が歪んだのを、リンは見逃さなかった。余波でもくらったのか?

 まずいな、とレーナの唇が動いたのがリンにも見て取れた。何に対する評価なのかまでは判断できないが、嫌な予感に襲われる。

 リンは奥歯を噛みながら脇腹をさすった。精神の集中が甘いせいで傷の治りが遅い。そもそも、どういった技で負傷したのかわからないため治しづらい。ここにジュリがいてくれたらとつい考えてしまう。

 挫漸弾の手の先から、再び黒い光が放たれた。今度はうねるように突き進んでくるのを、レーナは再び結界で防ぐ。

 しかしこのままでは防御する一方だ。おそらく梅花に当たるのを懸念して動けないのだろう。挫漸弾の攻撃はレーナを狙っているというわけでもないようで、周りの木々も巻き込んでいる。

 梅花を守っている限り、レーナは前にも出られない。しかしだからといって今の梅花に自分で結界を張れと言うのは酷なことだった。意識を保っているだけでも奇跡的な状況かもしれない。

 リンはそう判断し、無理やり立ち上がろうとする。治癒の技が使えるくらいだから結界も生み出せるはずだ。リンが梅花の傍まで辿り着けたら、レーナは自由に動ける。

 迫り上がってくる吐き気を堪え、左手を膝に押しつけて支えにした。視界が一瞬白んだが、深呼吸することでどうにか耐える。

 挫漸弾は先ほどから次々と黒い光を生み出してきている。目を閉じているにもかかわらず、それは確実にレーナたちを狙っていた。きっと気で狙いを定めているに違いない。レーナの気は鮮烈だからわかりやすい。

 誰か助けに来てくれないだろうか。今まで考えたことのなかった願いを抱きながら、リンは一歩前へと踏み出した。脇腹から全身へと広がる鈍痛のせいで、まるで体全体が脈打つ心臓にでもなった気分だ。嫌な汗が背中を伝う。

 結界を張るレーナの右手が、かすかに震えるのが見えた。瞠目したリンはついで歯を食いしばり、走り出すための心積もりをする。

 レーナの結界が消え去ったら、あの黒い光は次々とリンたちを襲うことだろう。だが彼女が動くより早く、背後から鋭い声が響いた。

「レーナ!」

 慌てて振り返る必要はなかった。声の主は瞬く間にリンを追い抜かすと、結界を張るレーナの横に並ぶ。

 黒い影のように見えたのは、リンの目がまともに働かなくなったせいではない。ほぼ黒ずくめの青年が、ふらついたレーナの肩を掴んだ。ちらりと見えた横顔は青葉とよく似ている。――アースだ。

 救世主と呼ぶのは憚られるが、最悪の状況だけは避けられたように思う。挫漸弾たちの異様な気を感じてやってきたのだろうか? いや、単純な影響力を考えたら、レーナの気を辿ってきた可能性の方が高いか。仲間の気であれば判別もつきやすいはずだ。

「梅花っ」

 続けて同じような声が響く。この切羽詰まった響きは、おそらく青葉のものに違いない。

 リンがかろうじて肩越しに振り返ると、駆けてくる青葉の姿が目に入った。しかも彼一人ではない。複数人がその後を追いかけてきている。その中にシンの姿を認めて、彼女は安堵の息を漏らした。

 どうやらこれで無理をする必要はなくなりそうだ。ほっとしたせいか、急に血の気が引いていく感覚に陥る。

 青葉は一瞬だけリンへと視線を寄越すと、そのまま梅花のもとへ走っていった。妥当な判断だろう。挫漸弾の攻撃は止んでいないし、梅花の傍にはレーナとアースしかいない。状況がどう転ぶかはわからなかった。

 必死な青葉の後ろ姿を見送っていると、突然肩を強く引き寄せられた。思わず呻いたリンの視界に、よく見知った顔が現れる。シンだ。

「おいリン、大丈夫か!?」

「だ、大丈夫じゃないけど大丈夫だから急に動かさないで。脇をやられたのよね」

 できる限り冷静に告げようとしたが、語尾は涙声になった。シンの声が頭の中でこだましている。

 倒れ込みそうになった拍子に、余計に体を捻ってしまったのかもしれない。せっかく塞ぎかけていた傷が開いたのか。ずきずきと突き刺さるような痛みが体を走り抜けていた。そのままシンに支えられる形で、彼女はずるずるとその場に座り込む。

「それは全然大丈夫じゃないだろうっ」

「いや、平気。変な動きしなきゃ大丈夫。だから大きな声出さないで」

 目尻に滲んだ涙のせいで視界が悪い。それでも耳は周囲の声を拾おうとしていたし、気の動きが追えるくらいの集中力はあった。

 シンの後ろにはジュリたちがいるようだ。無論、ラビュエダの気も、挫漸弾の気も消えてはいない。結界が何かを弾く気配もある。青葉の切羽詰まった声が響く中、レーナとアースが言葉を交わすのが聞こえてきた。

「最高で最悪のタイミングだな」

「どういう意味だ」

「そのままだ。すまないがアース、ここに倒れている魔族に剣でとどめを頼む。われはあそこに座り込んでいる青年を殺すから」

 苛立ち露わなアースに対して、レーナの声は複雑な色を帯びている。リンは瞬きをして視界を確保すると、シンの腕を掴みながら上体を起こした。アースの手を、レーナが右手で除けるのが見えた。

「おい、お前――」

「話は後だ。文句も後で聞く。頼むな」

 それまで攻撃を防いでいた結界が消え去ると同時に、レーナが動いた。嘆息したアースは、手足を振るわせているラビュエダへと双眸を向ける。

 リンは固唾を呑んだ。不機嫌顔のアースは躊躇うことなく、ラビュエダ目掛けて長剣を突き刺した。胸板を貫かれて、ラビュエダの口からひときわ大きな悲鳴が漏れる。耳を塞ぎたくなるような声だった。

 アースが剣を引き抜くと、ラビュエダの体は光の粒子となって消えた。あの黒い獣が消えた時と同様だ。つい先ほどまでそこに倒れていたというのが嘘のように、何も残らない。

 死んだのか? リンが唖然としていると、アースの向こうで白い光が瞬くのが見えた。口元を右腕で拭ったレーナが白い刃を生み出し、幹にもたれかかったままの挫漸弾へと向かっている。

 手を掲げたまま固まっている挫漸弾は、何故かそれ以上動かなかった。先ほどのような黒い光を生み出すこともない。まるで糸が切れた人形のようだ。

 レーナの放つ気が強くなる。目映い白い刃は、身じろぎ一つしない挫漸弾の体を易々と切り裂いた。呻き声一つ漏れなかった。

 固く目を瞑ったままだらりと腕を下げた挫漸弾は、そのまま光となって空気へ溶ける。ラビュエダと同じだ。瞬く間の出来事だった。

「なんだよ、あれ……」

 頭上でシンが呟いた。かすかに震えている彼の腕を掴みながら、リンは唇を強く引き結ぶ。ラビュエダと挫漸弾の気はもうどこにも感じられない。まるで今まで存在していたものが幻であったかのように、消え去ってしまった。

「倒した……のか?」

 シンのさらに後ろから声が聞こえた。首を捻って振り仰ぐと、ストロングの滝が眉根を寄せながらたたずんでいるのが見える。その向こうにはレンカとジュリがいる。シンと一緒に来たのは彼らだったのか。

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