第12話

 うねりながら緩やかに上る道の先には、巨木が立っていた。

 今まで目にしてきた木とは明らかに種類が違う。空へと真っ直ぐ伸びた幹は、遠目からでも相当太いことがうかがえた。手を繋いだ人間が何人いれば囲むことができるだろうか? リンが見る限りでは、片手で数えられる人数ではない。

「何となく気になる場所ね」

「そうですね」

 リンは梅花と顔を見合わせた。この小道は木の根本まで続いているようだ。そこで行き止まりかもしれないが、かといって引き返すという選択肢はない。

 信じがたいことに、巨木の近くには小さな気が存在していた。注意しなければ気づかないほどささやかな気だ。誰かがいるのか、それとも何か技が使われているのか。確かめないわけにはいかないだろう。

「何か見えてきたわね」

 黙々と歩き続けていくと、巨木の下に白っぽいものが見えた。何度か瞬きしていると、それが人のようだということまで把握できる。

 幹にもたれかかるように座り込んでいるのは、大柄な青年だった。熟した果実を思わせる真っ赤な髪を胸元へと垂らし、固く目を瞑っているようだ。膝まではあろう黄蘗色の羽織が、穏やかな風に煽られて揺れている。

「人間……でしょうか」

 梅花の声は訝しげだ。気持ちはわかる。亜空間に人がいるはずなどなかった。加えて容姿も特徴的だ。手足も体つきも大柄な男といった風に見えるが、あれほど鮮やかな赤い髪は見たことがない。

「獣もいますね」

 そう続けた梅花の声には、警告の色が滲み出ていた。座り込んでいる男の横に、黒い獣がいた。熊と虎を足して二で割ったような奇怪な生き物が、ぴたりと寄り添っている。先ほどリンたちを襲ってきたあの獣とよく似ていた。

 二人は一度足を止め、目と目を見交わせた。再び戦闘になる可能性は高い。しかし彼らを無視して道を引き返すというのも憚られた。ここを調べるという目的を考えても、また背を見せた時に襲われるよりは挑んだ方がましという意味でも。

 二人は同時に頷くと、また前へと足を踏み出した。意味はないかもしれないが、できる限り気配を殺して進む。

 ぴくりと、黒い獣の体が動いた。短い尾が揺れて、瞑られていた目が見開かれる。ぎらついた赤い双眸が、ゆるりとリンたちの方へと向けられた。まだ距離はあるはずなのに射貫かれるような力強さがある。リンは息を呑んだ。

「これはこれは、こんな所に人間の娘か」

 ついで、軽やかな男の声が鼓膜を震わせた。リンは耳を疑った。その声はどう考えても前方の――獣と青年の方から聞こえてきたように思える。

 ただし、青年の方は先ほどと変わらずぐったりと座って目を閉ざしたままだ。リンたちをひたりと見据えているのは、黒い獣だけ。

「お客さんだなんて珍しいなぁ」

 立ち上がった獣は青年から離れた。聞き間違いであって欲しいと願うが、どうもその声は黒い獣から響いてくるようだった。リンは顔を引き攣らせる。

 動物が喋るなんてことがあるのだろうか? 亜空間ではあり得るのか? ラウジングからは、そんな話は全く聞いていない。

「ああ、そうか。お前たちは見た目に惑わされるんだったなぁ」

 一歩前へと出た獣の体を、白い光が包み込んだ。目がくらみそうになったリンは、慌てて腕をかざして顔を庇う。瞼の裏では色とりどりの光が明滅していたが、気から何かが起こったことを悟った。

 巨木の下に突然強い気が出現している。今まで感じたことのない温度を持ったものだ。

「これでどうかなぁ」

 強い輝きが収まった。手を除けたリンは、瞳をすがめながら巨木の方へと顔を向ける。赤い髪の青年は先ほどと変わらず、目を瞑ったまま幹にもたれかかっていた。

 その隣に、もう一人の青年がいた。黒い髪に黒の長衣という姿は、先ほどの獣を彷彿とさせる。ぎらついた赤い瞳もそうだった。

「う、そ……」

「ただの獣じゃなかったんですね」

 戸惑うリンにの横で、梅花が冷静に声を発する。一体何が起こっているのかわからなかった。それでも危機的状況にあることは本能が察している。

 粟立った肌と速度を増していく鼓動が、目の前にいる存在の異常性を伝えてきた。彼の気はおかしい。突き刺さるような冷たさを伴った気など、初めて感じる。

「ラビュエダだ。と名乗っても意味はないがなぁ。すぐに死ぬんだから」

 獣だった青年――ラビュエダの口角が上がった。ぞっとするような眼差しだった。リンは咄嗟に左手を突き出し、結界を張る。

 梅花も同様の判断をしたようだった。二重に生み出された透明な膜目掛けて、何か黒い物が突き刺さる。感じるはずのない圧力に、喉の奥が震えた。

 結界はかろうじて貫かれることなく、黒い筋はすぐさま霧散した。だが安堵の息を吐いている暇はない。地を蹴ったラビュエダが向かってくるのに気づき、リンは右手を振るう。

「来ないでよっ」

 指先から生み出された風が幾重にも重なり、ラビュエダへと突き進む。それでも彼は怯まなかった。長い腕の一振りで生み出された黒い矢が、風の軌道を変える。彼はその隙間を縫うように突っ込んできた。

「リン先輩!」

 舌打ちしたリンが動くより早く、梅花が飛び出した。華奢な手のひら生み出された白い筋は、不定の刃の形を取る。彼女はそれをラビュエダ目掛けて振るった。

 速度を落としたラビュエダは右手で刃を振り払おうとしたが、直前で思いとどまったのか結界を張る。透明な膜が震え、白い刃が揺らいだ。

 リンは間髪入れずに風の矢を放った。それは梅花の横を回り込むようにしてラビュエダを目指したが、案の定結界に阻まれ、消える。

 あの強度では生半可な攻撃は意味がない。仕方なく、彼女は風の刃を生み出した。近距離戦は得意ではないのだが、広範囲の技を全力で使うと梅花を巻き込む可能性が高い。

 ラビュエダの結界が解かれた。即座に梅花は踏み込んだ。白く揺らめく刃が男の頬をかすめる。巻き添えになった黒い髪の束が、空を舞いながら消えた。

 その隙を狙ってリンも地を蹴った。ラビュエダの双眸が一瞬だけリンにも向けられる。二人のどちらを先に相手にすべきかという迷いが、赤い瞳には浮かんでいた。背後を取った梅花か、それとも迫り来るリンか。

 行ける。リンは風の短剣を構えながら優位を確信した。この男は複数相手の戦闘には慣れていない。アースたちとは違う。二人から距離を取ろうとしたラビュエダに向かって、リンは風の短剣を突き出した。

 不意に、空気が震えた。ラビュエダが手で剣を受け止めた時、異変は生じた。梅花の悲鳴が、ラビュエダの向こう側で響く。ほぼ同時に、異様な気が巨木の下で膨らんだ。

「梅花!?」

 何が起きたのか? リンの気が逸れた瞬間を、ラビュエダが見逃すはずもなかった。我に返った時にはもう遅い。咄嗟に身を捻るが、ラビュエダの右手が脇腹をかすめるのがわかる。喉から空気が漏れて、目の前が白んだ。

 背中から地面に落ち、リンはそのまま数度転がった。火花が散る視界の中で、彼女は敵の姿を求める。

 遅れて襲ってきた痛みが思考の邪魔をした。深く息が吸えない。迫り上がる吐き気を堪えようにも、呼吸を整えるのも難しかった。

 肩で息をしながら彼女は顔を上げる。ラビュエダの目は、今は梅花を捉えていた。その視線をリンも追う。

 地面に伏している梅花の足下に、赤い何かが見えた。それが血だまりであることを理解して、リンは息を呑む。誰の仕業なのかと、声を発する必要はなさそうだった。

 リンと梅花の他に、強い気が二つ存在している。そのうちの一つは、巨木にもたれかかっている青年のものだった。彼は先ほどと同じ体勢で固く目を瞑ったまま、亡霊のように両腕を前に突き出している。

「ああ、挫漸弾ざぜんだん

 梅花へと一歩近づいたラビュエダが、声に歓喜を滲ませた。挫漸弾というのが眠っている青年の名だろうか? 変わった響きだ。眠っているように見えるが、梅花を攻撃したのは彼なのか?

 梅花は太腿を片手で押さえながら、どうにか上体を起こしている。意識はしっかりとしているようだが、顔が真っ青だった。

「助けてくれたんだなぁ。ありがとう」

 驚喜を含ませたラビュエダの笑い声が、辺りにこだました。リンは背筋に冷たいものが走るのを感じ取る。

 彼らは狂っている。ラビュエダの気にはそう思わせる歪んだ何かが含まれていた。あの挫漸弾の気も歪だ。先ほどから緩やかに縮んだり膨らんだりを繰り返していて、落ち着かない。

「さーて、じゃあまずは厄介な方を始末しようかなぁ」

 梅花のすぐ傍で、ラビュエダは足を止めた。楽しげな声音がいっそうリンの心をざわめかせる。まずい。

 梅花がどうにか立ち上がろうとするのを見て、ラビュエダはまた笑った。そして右手で黒い刃を生み出し、躊躇なく振り下ろす。

 リンは声にならない悲鳴を上げた。梅花は奥歯を噛んで声を押し殺したようだった。黒い刃は血の滴る梅花の足へと突き刺さり、消える。何系の技なのかはわからないが、無害とは思えない。

「挫漸弾の手を煩わせたんだから、楽には死ねないぜぃ」

 リンは脇腹を押さえながらかろうじて立ち上がった。一歩足を踏み出しただけでも、目眩がして体がぐらつく。

 押さえた傷口の辺りが湿っていることには気づいたが、あえて見下ろさないように意識した。きっと状況を認識すると立っているのも困難になる。それでも呼吸をする度に喉の奥がひりひりと痛み、精神を集中するのに邪魔だった。

「なあお嬢さん」

 ラビュエダの右手が振り上げられ、その手のひらに再び黒い刃が生まれた。今度は先ほどのよりもさらに大きい。とどめか? いや、さらに苦痛を与えようというのか?

 歯噛みしたリンは右手を前へ突き出す。が、間に合う気はしなかった。動揺が精神の安定を阻む。

「さーて、次は――」

 しかし、黒い刃が振り下ろされることはなかった。楽しげな声が途切れるのと、強烈な気が舞い降りてくるのは、ほぼ同時だった。飛び退ったラビュエダの呻き声が、リンの鼓膜を揺らす。

「誰だ!?」

 片膝をついたラビュエダと梅花の間に、何者かが割り込んでいた。リンは瞳を瞬かせる。

 たたずんでいたのは、白い刃を手にした小柄な少女だ。頭上で一本に結わえられた長い黒髪が、風に乗って優雅に揺れている。

 ちらりと見えたその横顔には、リンも覚えがあった。いや、正確に言うとよく似た人を知っていた。――少女は梅花と同じ顔をしている。

「レーナ……?」

 記憶の中にあるその名前を、リンは囁いた。シークレットと瓜二つの五人組で、唯一の女性だ。体格も梅花と同じで華奢だが、不思議とその背中は頼もしく見える。

 立ち上がってじりじり後退するラビュエダへと、少女――レーナは顔を向けた。

「オリジナルに好き勝手されては困るんだ」

 あえて低く抑えただろう声は、やはり梅花のものと似ている。リンは呼吸を整えながら、聞き慣れぬ単語に首を捻った。

 狼狽えているラビュエダが反撃に出ないのは、おそらくレーナの気を感じ取っているからだろう。

 一言で言うと凄まじい気だった。透明で清らかなのにその奥に何かが潜んでいると確信できるもの。こんな気を、リンは今まで感じたことがなかった。無論、それだけではない。何よりもその強さが異常だ。

 ラビュエダの返答がないのに嘆息して、レーナはちらりと梅花の方を見やった。梅花は足を押さえたままレーナを見上げていた。二人の視線が交錯したのが、リンにもわかる。

「ようやく会えた。オリジナル」

「オリジ、ナル……?」

「ずっと待ってたんだ。ずっとずっと、会いたかった。手遅れにならなくて本当によかった」

 レーナが微笑んだ。リンの息まで止まりそうになるくらいの、花が咲いたような笑顔だった。これ以上ない喜びだと、ほころんだ顔から、気から、遠目にも伝わってくる。

 近くで見たらおそらく本当に呼吸を止めていただろう。可憐だの綺麗だのという表現は、この笑みの前ではかすむ。もっと胸の奥の深い所を突かれる表情だ。リンは固唾を呑んだ。

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