金木犀
ひのはら
第1話
「私を殺してほしいの」
彼女は私にそう言いました。金木犀の香りを纏った彼女の微笑みが、私の頭に今でもこびりついています。
彼女は私のクラスメイトでした。1年生の時に私の隣の席にいた彼女に、私は一瞬で目を奪われました。柔らかそうな艶やかな黒髪、小さな唇に長い睫毛に囲まれた大きな瞳。汚い現世を見えないように目隠しをしてくるような美しさ。その時私の目には彼女以外映りませんでした。
熱心に彼女を見つめる視線に気づいたのか、前を見ていた彼女がこちらを見ました。私の心臓は嫌な音をたてて、縮みこみます。
「あなた、名前は?」
微笑みながら私に問いかける彼女は、それはとても美しく。絵画から抜け出してきたようなその見目に、私の胸は高鳴るばかり。
「紀彦」
やや短調な声音になってしまったことを悔いながら言葉を返すと、彼女は鈴のように笑います。
「私は《ながれ》永麗」
聞き馴染みの無い彼女の名は彼女の美しさを表すよう。心の中で彼女の名を呟けば、じわりと胸が熱くなる。
彼女は不思議な人でした。破れる制服のスカートを気にもせず木に登って景色を楽しみ。暑くてたまらない日には教室を飛び出して小川に水を浴びに走りました。
そんな彼女の振る舞いに、周りは惹かれつつも変わり者扱いをしていました。彼女の傍にいる私もまた、疎まれていました。
ある日私は彼女と肩を並べて帰っていました。彼女は授業が終わるとすぐに姿を消してしまうので、このように一緒に帰るのは初めてでした。夕暮れを潜る彼女は、やはりこの世の者とは思えない美しさでした。
少し歩いたところで、彼女は足を止めました。不思議に思った私は彼女に問い掛けました。
「どうかした?」
私の言葉は宙を漂い、彼女はそれを払い除けて走り出します。すると彼女はしゃがみこんで何かを見つめていました。後を追いかけ私もそこを覗き込みます。それは猫の骸でした。
彼女は黙って猫を見つめて、顔を伏せます。猫の死を嘆いて泣いているのかと思い肩を抱くと、彼女は呟きました。
「とても綺麗よ」
涙を流していない彼女はそう言うと、抜け殻の猫の顔に口づけをしました。私は驚いて声をあげます。
「病気が伝染ったらどうするんだい」
私のその言葉はしかし本心ではありませんでした。 夜を連れてくる夕陽の光を浴びた彼女が、猫の骸に口づけをしているその姿は、どの絵画よりも美しく怪しく異様な光景です。 長い黒髪を骸に降らせる彼女の姿を、私はまだ見ていたいと思ってしまったのです。
「これが死んで、誰か悲しむのかしら?」
大きな瞳でじっと私を見つめる彼女に、私の胸は張り裂けそうな悲鳴をあげます。
「首輪をしていないから野良猫だったんだ。飼い猫じゃないこの子が死んでしまっても、誰も気づかないし悲しまないよ」
私は思わず顔を逸らしてそう言うと、彼女は小さく息を吐きました。私は彼女が心の中で泣いているのだと、そう想いました。
「そうねそうよね。きっと私も同じよ、明日私がいなくなっても誰も気づかないし誰も涙を流さないわ」
立ち上がった彼女は、そう言葉を零して歩き始めます。私は喉の奥で突っかかる言葉を引きずり出しました。
「そんなことはない、私は君がいなくなったら悲しむ」
彼女の危うい心の美しさと、眩いばかりの見目を独り占めしたかった私は、クラスメイトのことは口にしませんでした。卑しい人間です。そんなことをしても私の様な人間の指に、彼女が留まって羽を休めてくれることなどありえないのです。彼女はきっとすぐに飛び立ってしまうのです。
彼女は立ち止まって私の方に引き返してきます。あぁ、きっと彼女を煩わせたに違いない。私は目を瞑って後悔の色を滲ませます。すると震える私の指に、何かが触れました。そっと目を開けると、それは彼女の指でした。
「それはねあなたが私を好きだからよ。でも私は、あなたがいなくなっても気づかないかもしれないわ。それでもあなたは私のために心を痛めて、涙を流してくれるの?」
長い睫毛が彼女の顔に影を落とします。彼女の言葉は私の心を抉り、血を滲ませ、痛めつけます。しかし私は、彼女にはそうあって欲しいと願っていたので、微笑んでしまいました。
彼女はいつかのように笑い、私から離れて歩き始めます。
「なぜ笑うの?おかしな子ね。でも私あなたのそういう所気味が悪くて嫌いじゃないわ」
口づけをした猫の骸をほっといたまま、彼女は歩き続けます。彼女はその次の日から1ヶ月姿を現しませんでした。
彼女は恐ろしい人でした。1ヶ月後に帰ってきた彼女の瞳は、以前に増して人の心を見透かす目でした。彼女の好意は気まぐれでした。男も女も関係なく、彼女は人を愛する人でした。彼女の好意は気まぐれなのに、それを寄せられた相手は、変わり者扱いをしていた彼らでも彼女の興味が自分から離れることを恐れるのです。彼女の好意を独り占めしようと必死になっても、彼女はその事を気にもとめませんでした。
その日私は彼女に誘われて、金木犀の香る校舎裏で話をしていました。
「1ヶ月もどこにいってたんだい?」
彼女が1ヶ月ぶりに戻ってきた時最初に声をかけられたのは私でした。その優越感に、彼女に踏み込むような、いつもはしない質問をしてしまったのです。
彼女は私を一度だけ見ると、笑いもせずに話し始めました。
「1箇所に留まっていたわけじゃないわ。色々な場所、様々な人を眺めてきたの」
機嫌を損ねたと思った私は、素直に話す彼女に拍子抜けしました。そんな人ではなかったはず。彼女は誰にも心を開かない、冷たく孤独で美しい人だったはずでした。
「私が居なくて、あなた悲しかった?」
宝石の様な瞳を細めて微笑む彼女の、黒く美しい髪に金木犀の香りがまとわりついています。私は彼女がいなくなった時酷く悲しみましたが、彼女が私の理想の彼女のままか確かめようと、冷たい声音で答えました。
「いや、悲しくなかったよ。気づきもしなかった」
少し言いすぎたか、しかし以前の彼女ならこんな事で表情は変えないはずでした。私は隣の彼女の表情を見て絶句しました。
彼女の瞳は困惑に揺らぎ、薄く開いた唇は僅かに震えていました。猫の死体を見ても表情を変えなかった彼女が、私の言葉1つで同様していたのでした。
私は絶望しました。違う、私が好きだったのはこんな言葉で心を乱す彼女ではない。人の心を見透かして、人の心を弄ぶ、怪しく美しく孤独で密やかな彼女が好きだったのだ。次の瞬間、私は彼女を押し倒して細く白い首に手をかけていました。
彼女は一瞬戸惑いの色を見せましたが、私を見てすぐ冷たい目を向けて微笑みました。
「どうしたの?殺さないの?人の様になった私は嫌いになったでしょう?」
顔にかかった髪の隙間からこちらを覗く彼女の瞳は、暗く冷たい海のようでした。彼女には、今の私の心を見透かすのは容易いことだったのでしょうか。
「あなたは私をまるで異世界からの来客のように見ていたけれど、私はあなたとなにも変わらないのよ。体を支える骨も、臓器も、流れる血も、あなたと変わらない唯の人」
血のように赤く色づく唇から出る言葉は、どれも私の聞きたくない言葉で、思わず私は手に力を込めました。彼女の表情は、一時苦痛に歪みましたが、すぐにいつもの彼女に戻りました。
「あなたはいつでも、私をこの世界から切り離そうとする。私を他とは違う人間と崇めて、自分の心の均整を保っていたわ。私はそんなあなた嫌いじゃなかったけれど、この世は悪い意味であなたのような人ばかりだわ。息を吸っても出るのは血反吐、この世は私を自由に羽ばたかせてはくれない」
首の苦しみとは別の苦痛に色づく彼女は、それでもなお美しかったのです。
「私を殺してほしいの」
金木犀の香りを纏って微笑む彼女に、私は自ずと涙が零れました。震える私の手を、彼女は上から握り締めます。
「世界の息苦しさで死ぬのなら今あなたに、ここで殺してほしい。それが私の幸せよ。家に遺書を置いてきたわ。あなたに絞め殺されるのが理想だけど、それではあなたが報われないもの。この紐で私を殺してから、その木の枝に私を吊るしなさい。いいわね?」
彼女の言葉は幻のように私の頭に染み付いて、後から後から零れて彼女に降りかかる涙が雨のようでした。私は言われた通りに、彼女の手から紐を受け取り、それを細い首に巻き付けました。
「今日の空は綺麗ね。今までで1番綺麗だわ」
力を強めると、彼女は苦しげな顔になっていきます。彼女はおもむろに私の耳に口を寄せて囁きました。
「これであなたの好きな、異人の私のまま死ねるわ」
その言葉に更に涙が溢れて、私は1層力を強めました。息が浅くなって、夢中でぎりぎりと首を締め付けると、私の下の彼女は死にました。
風で零れた金木犀の花が彼女の体に積もっていきます。その姿は今までで見た中で1番美しい彼女でした。
金木犀 ひのはら @hinohara
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